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大きな人生の転機がありました・・・

泉物語(完結)

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私の郷土の昔話です・・・
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第12話 塩谷家改易

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【写真】泉城址



正親は、塩谷家からの独立を果たすと、
天正19年(1591年)2月、新しい居城を求めて泉城に入った。
泉城は、松ヶ嶺城の北東2kmほどのところにある城で、
義通が幽閉されていた城である。
義通は御前原城に移ったが、
正親は、この泉城を新たな居城にしようと考えていた。
松ヶ嶺城は山城で、活用出来る土地が少なく、
堅い城ではあったが、統治という事には不向きであった。
また、松ヶ嶺城の東側面を流れる中川(ちゅうかわ)は、
通称「バカ川」と呼ばれるほど氾濫を起こして城下の人々を困らせていた。
そんな事情から、新たな城、
新たな城下町の建設の必要性に迫られていたのである。
ただ、泉城は、岡本領でも北辺に近く、
また、東端の境界に接する場所に存在した。
なぜ、そんな場所を正親が居城に選んだのか。
それは、出来るだけ川崎城から居城を遠ざけるためだった。
南には塩谷家がいる。
そして、岡本家と塩谷家の対立は、未だに続いていたのだった。

義綱の岡本家に対する恨みは凄まじいものであった。
家臣でありながら主君を裏切り、領地を切り取り、
しかも、塩谷家が氏神と信奉する木幡神社のある木幡村が、
兄義通に奪われてしまったのだ。
義綱にしてみれば、正親は、
許すなんて言葉は微塵も浮かばない、憎んでも憎んでも憎みきれない相手だった。
その対立は、互いの領民関係まで悪化させ、
岡本領と塩谷領の境界では、
互いの家臣や領民同士のつまらないいざこざや争いが毎日のように続いていた。
そして義綱は、いつか岡本家に復讐する事を考えていた。
天正19年(1591年)、小田原の陣の翌年、
秀吉は、関白と太政大臣の内、関白職を姉の子の秀次に譲り、
自らは、太政大臣の敬称である太閤を名乗った。
そして、翌年の天正20年(1592年・12月8日文禄改元)4月14日、
釜山城の戦いを皮切りに朝鮮出兵を開始した。
しかし岡本家は、この時、
豊臣家から新たに関東の領主となった徳川家の旗本になっており、
徳川家が、関東の開発を理由に兵役を免除されたため、
岡本家もまた、泉城の改築と城下町の開発を理由に、この兵役を免除されていた。

義綱は、これを好機と見たのである。
正親は、主君である自分を城に残し、1人で小田原に向かい、
武勲を独り占めにして塩谷家をおとしめた。
今度は、逆に自分が秀吉の下に向かい、正親をおとしめてやろうと企んだのだ。
そこで義綱は、新しい関白である秀次に取り入った。
正親は、秀吉のお気に入りとは言え、秀吉ももう老体。近い将来には死ぬ。
若い権力に取り入っておけば、
秀吉が死んだ時、正親や岡本家を潰す事が出来る。
それが、義綱の企んだ復讐であった。

だが、それはとてつもなく浅はかな考え方だった。
文禄2年(1593年)8月3日、秀吉に男子が誕生すると、
秀吉と秀次の関係は急速に冷え込んでいった。
豊臣家の後継を巡って対立し、
秀吉は、自らの子の家督継承の妨げとなる秀次一派の勢力を次々と一掃していったのである。
このとばっちりを塩谷家も受けた。
義綱が、秀次に取り入っていたばかりに、
文禄4年(1595年)2月8日、
突然秀吉により、塩谷家は改易を命じられたのである。
義綱にしてみれば、青天の霹靂の出来事であった。

義綱(正親を追放したつもりが、秀吉と言う後ろ盾を与えてしまい・・・
   正親を信頼した途端裏切られ・・・
   正親を潰すつもりが、我が家を潰してしまった・・・。)


何もかもが裏目に終わってしまった。
その後、義綱は一族郎党を引き連れ川崎城を退去。
川崎城は廃城となり、義綱は、常陸の佐竹家に仕えた。
その佐竹家には、義綱の従兄弟塩谷朝孝が仕えていた。
だが、従兄弟とは言っても、朝孝は父義孝の仇敵塩谷孝信の子。
川崎城を攻めた事もある義綱にとって憎き敵である。
そんな2人が、同じ家に仕える事になろうとは、
運命とは本当に皮肉なものである。
さらに皮肉といえば、義綱が追放された事により、
野州塩谷家の家督は、計らずも義綱の兄義通が継承する事になった。

結局、義綱は、奪われたくないものの全てを失い、
しかも、その全てを最も奪われたくない相手に奪われて、
塩谷の地を追われる事になったのである・・・

第11話 泉の独立

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【写真】高原山と岡本家家紋「三つ巴」



正親は、清四郎と清九郎という世継ぎを失った岡本家を立て直すため、
新たに世継ぎを定めて、後継者を育成しなければならなかった。
そのためには、養子を迎えなければならないが、
正親のそばには、岡本家を継がせるに相応しい子等がいた。
それは、自分の姉の子にして、自らの娘の婿である塩谷義通の子等であった。
義通は、未だに軟禁生活を余儀なくされていたが、
夫婦生活は円満で、3人もの男子に恵まれていたのである。
天正7年(1579年)生まれの嫡男久太郎
天正10年(1582年)生まれの次男惣十郎
天正14年(1586年)生まれの三男新助
正親は、この3人の内、いずれか相応しい者を岡本家に迎え、
照重か九重の婿にして、家を継がせようと考えた。
ある日、正親が、その考えを義通に明かすと、

義通「私は、塩谷家を継げぬ身であれば、
   子等も、岡本家を継ぐ方が幸せであろう。」


と言い、これを快諾した。
そして、誰が誰と・・・と言う事は決めず、久太郎、惣十郎、新助の3人と
照重、九重の2人は、この時、許婚となる事を決められたのであった。
数え年にして、久太郎9歳、惣十郎6歳、新助2歳、
照重と九重も、まだ3歳の時の出来事であった。

それから2年後の天正17年(1589年)11月24日、
遂に正親が待ち望んでいた時がやってくる。
これ以前から、秀吉は、北条氏に何度も上洛要請をし、恭順の意を表す事を促していたが、
最後通牒にも応じなかった事を受け、
秀吉は、いよいよ北条征伐を決意し、全国にその号令を発したのである。
その号令は、間もなく、書状となって塩谷家にも届いた。
そして川崎城で、早速、その対応を協議する評定が行なわれ、正親も出席した。
問題は、那須家の動向。那須家が北条に通じて参陣しなかった場合、
小田原に出陣すれば、留守を襲われ、塩谷氏は領地を奪われる虞があった。
そして、どうも那須家は、小田原に参陣しないらしい情報を義綱は掴んでいた。

義綱「世の趨勢から言えば、関白につくべきなのだろうが、
   那須が動かぬのでは、わしも動けぬ・・・。」


すると正親は、義綱の前に進み出て、こう進言した。

正親「私には、関白殿下(秀吉)との約束があります。
   私が、御館様の名代として小田原に参陣致しまする。」


義綱も、それしかないと思っていた。

義綱「讃岐は、関白のお気に入り。
   塩谷家としても、讃岐を参陣させる事が、
   関白に対する何よりのご奉公となるはずじゃ。」

そして、義綱のその一言で、
正親が塩谷軍の総大将となって小田原に参陣する事が決定された。
那須家が動かないのでは、義綱にもどうしようもなかった。
義綱は、那須家の動向次第で、関白の下に馳せ参じる事になった。
だが、この展開は、正親にとって全てが好都合であった。
正親は、これを機に岡本家を潮焼けから独立させようと考えていたのだ。
そして、その全ての歯車がうまく回っていたのである。
そんな事も知らず義綱は、
この時は、正親を信頼し切ってしまっていた。
いや、信頼していたと言うよりは、
関白と言う雲の上の存在への対応に苦慮していた義綱が、
関白の事は、正親に任せておけば大丈夫だろうと、たかをくくって丸投げしたのだ。
那須家の事もそうだが、義綱は、百姓上がりの関白秀吉を相手にする事を
少し面倒に思っていたのだ。
だが、この義綱の安易な決断が、400年続いた塩谷家を衰退させる事になるのである。

天正18年(1590年)3月、秀吉が小田原に到着し、
4月3日、20万騎を超える大軍が小田原城を包囲した。
その秀吉の下に、義綱から預かった献上馬を引き、
手勢50騎を率いて正親が参陣した。
秀吉は、正親の参陣を大いに喜んだが、
その主君の義綱は、那須氏が最後まで小田原に向かわなかったため、
遂に秀吉の下に参陣する事は無かった。

そして、同年7月5日。
北条氏は、秀吉の軍門に降り、北条氏の当主氏政は切腹。
清四郎と清九郎を討ち取った敵の総大将、氏政嫡子の氏直は、
徳川家康の娘婿であったため切腹は免れ、高野山に追放となった。
こうして関東最大の北条氏は滅亡し、
正親は、清四郎と清九郎の仇を討つ事が出来たのである。

同年7月26日、秀吉は、軍勢を率いて宇都宮城に入城、
その翌日、北関東諸将に対する処分を行なった。
宇都宮家やその家臣たちは、早くに秀吉に恭順し、
小田原にも参陣していたため所領が安堵されたが、
参陣しなかった那須氏は、8万石の所領の内、
1000石のみを残して、全て没収された。
そして正親も、論功行賞の場に呼び出された。

秀吉「讃岐、今回の働き大儀であった。」
正親「勿体無いお言葉・・・。」
秀吉「して、そちは褒美は何が望みじゃ?」
正親「この度、私は
   関白殿下とのお約束を果たすため参陣いたしましたが、
   特にこれと言った武勲を挙げたわけでもありませぬ。
   されば、本領を安堵さえしていただければ充分でごさりまする・・・。」


これを聞いた秀吉は、思わず口元が緩んだ。

秀吉「謙虚よのう。わしの家来たちに、
   讃岐の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわい。」


そして秀吉は、改めて正親に褒美の内容を問うた。
秀吉が「遠慮などするな」と言うと、正親は、畏れながらと申し上げた。

正親「されば、ひとつだけ、叶えて頂きたき儀がござりまする。」
秀吉「申してみよ。」
正親「されば・・・。」

すると正親は、娘婿義通の現状を秀吉に訴えた。
義通と義綱の関係、義通が義綱によって実質的に軟禁状態にある事など、全てを話した。

正親「義通殿は、もはや塩谷家の家督を望んではいませぬ。
   このような田舎の内輪の揉め事を関白殿下に訴えるなど畏れ多い事にござりまするが、
   どうか関白殿下のご威光で、義通様を助けていただきたいのです。
   孫子を思う愚老の願いにござりまする・・・。」


正親が全てを訴え終えて、秀吉の顔をちらっと見ると、
意外な事に、秀吉は涙ぐんで話を聞いていた。

秀吉「讃岐、そちの家族を思う心には心打たれたぞ。
   この秀吉も、家族があっての秀吉じゃ。
   おね(北政所)、母(大政所)、秀長(弟)たちがおらねば、
   天下どころか、わしは並に立身する事もできなかったであろう。
   讃岐は、2子の上に弟まで失ったと言うに、
   さらに娘婿の不遇を見せられては、さぞや辛かったであろう。
   相分かった。讃岐の処遇については、次のように致す。」


そして秀吉は、その場でそれを言い渡した。

秀吉「讃岐が今、塩谷家より預かる領地の全てをわしが改めて与えて安堵する。
   わしが領地を安堵するのじゃ。この意味分かるな?」
正親「は、ははーっ!! ありがたき幸せ。」

秀吉が正親の領地を安堵するという事は、
すなわち、正親が秀吉の旗本になると言う意味であり、
それは、岡本家が塩谷家から独立する事を意味した。

秀吉「さらに、塩谷義通には、塩谷領より、
   御前原城並びに1000石を切り取り、これを与える。」


義通に与えられたのは、御前原城がある中村と木幡村の2村1000石。
御前原城は、義通の元々の居城であり、木幡村には、塩谷家の氏神となる木幡神社があった。
この処遇は、与えられた領地の数字以上に大きく意義深いものであった・・・

この翌日、秀吉は、さらに北上し大田原城に入った。
正親に対するこの恩賞の話は、川崎城にも伝えられた。

義綱「おのれ讃岐! 謀ったな!!」

これを聞いた義綱は激怒したが、気付いた時には、あとの祭りであった。
塩谷家は、所領安堵のお墨付きを秀吉からもらったが、
それは、岡本家の領地3800石と義通に与えられる1000石を除いた領地であり、
実質的には4800石もの減封となったからだ。

正親(清四郎、清九郎、対馬(氏宗)、見ておるか・・・。)

天正18年(1590年)7月27日、
この日が、岡本家の独立記念日となった。
この日を以て岡本家は、
岡本の人間が、岡本家のために生き、岡本家のために死ねる家になったのである。
正親の祖父重親が塩谷家に仕えて以来、およそ100年後の出来事である・・・

第9話 豊臣秀吉

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【写真】国宝・木幡神社楼門



正親は、高野山に向かった後、京に入り、
新黒谷と言うところで庵室を結び、念仏三昧の生活を送っていた。
しかし、その生活は非常に貧しく、
華やかな都で正親は、惨めな自分の姿を隠すようにして暮らしていた。
しかし、そんなある日、正親は思わぬ人物と再会した。
それは、京の謡曲師の道慶(どうけい)と言う者だった。
道慶は、十数年前、奥州(東北地方)を遊覧していた時、
盗賊に襲われて難儀していたところを正親が助けた人物だった。
その時、道慶は、松ヶ嶺城にしばらく滞在し、
当時幼かった清四郎と清九郎に武士のたしなみとしての鼓・謡などを教え、
正親に充分な旅支度と路銀をもらって京に帰る事が出来た。
正親は、そんな道慶とすれちがったのである。
しかし、浪人に身を落としていた自分を恥じていた正親は、
顔を伏せ、知らぬふりをして通り過ぎようとした。
だが、道慶は、正親への恩義を忘れていなかった。
正親は、昔の面影が分からぬほどにボロボロの姿形になっていたが、
この京の地でまさかとは思いつつも、
すれちがった瞬間、振り返り、正親に声をかけた。

道慶「讃岐守様・・・讃岐守様ではありませんか?」

正親は、人違いと言ってその場を去ろうとしたが、
道慶は、正親の顔を見るなり、
懐かしさと感激のあまり体を震わせて涙した。

道慶「いいえ、讃岐守様です。私です、道慶です。
   その節のご恩、この道慶、忘れておりませぬ。」


正親も、こうなっては否定する事も出来ず、
複雑な思いになりながらも、素直に道慶との再会を喜んだ。
道慶は、自らの屋敷に正親を招き、京に来た経緯を聞いた。
そして道慶は、正親が松ヶ嶺城を追われた事、
その後の戦で、2子を失って、その菩提を弔うために流浪の旅をしている事を知った。

道慶「おいたわしや・・・
   清四郎様と清九郎様には、
   もう一度お会いしたく思っていましたが・・・。」


その話を聞いた道慶は、今度は、自分が恩を返す番と思い、
正親にこんな話を持ちかけた。

道慶「讃岐守様、筑前様とお会いになりませぬか?」
正親「筑前様とは・・・あの筑前様か!?」

正親が、名前を聞いただけで畏まりそうになった筑前様とは、
あの天下人の羽柴筑前守秀吉、後の豊臣秀吉であった。
聞けば道慶は、秀吉の家老の屋敷に出入りしており、
そのコネを使い、正親が秀吉に会えるようにするとの事だった。
秀吉と言えば、関東最強の北条氏でさえ遥かに及ばぬ
数十万の軍勢を従え、
前年の11月22日には、従三位・権大納言にも任じられており、
もはや、征夷大将軍に匹敵する権威を備えた最強の戦国大名であった。
浪人に過ぎない自分が面会などありえない・・・
正親はそう思っていた。
だが、道慶は、その目通りを実現させたのである。
秀吉が、正親に会うと決めたのには、それなりの理由があった。
秀吉は、近い内に北条征伐に向かい、関東を平定する事を考えていたが、
浪人とは言え、関東の武将に会えば、いろいろと関東の情勢を聞けるし、
少しでも恩を売っておけば、後々役立つかも知れないと考えていたのである。
また、秀吉は、宇都宮家と緊密に連絡を取り合っていたが、
その家来の正親を厚遇する事は、宇都宮家を味方に付けておくにも好都合だった。

そして、道慶の援助で身なりを整えた正親は、
遂に天下人関白太政大臣豊臣秀吉に謁見したのである。
この時、正親58歳、秀吉は、正親より遥かに若く50歳だった。
だが、その威厳、風格、存在感は、
正親が、これまでに出会ってきたどの武将とも比べようが無いほどに圧倒的だった。

正親(何と我の小さな事か・・・何と我が世の小さな事か・・・。)

正親は、その時、初めて井の中の蛙という言葉の本当の意味を実感したような気がした。
正親は、秀吉と謁見するに当たって、
親子猿と巣をかける蜘蛛の小さな彫物を秀吉に献上した。
貧しかった正親は、献上品を用意する財が無いとは言え、
手ぶらで謁見するわけにもいかないと思い、
生来の手先の器用さを生かして、
小さな桃の実を彫り、鷹狩用の道具の飾りを作ったのだった。
すると秀吉は、細工の細かさを見て感嘆した。

秀吉「見事じゃのう。讃岐は、武勇に優れていると聞いたが、
   下手な彫物師より良い仕事をするではないか。」

正親「ありがたき幸せ・・・。」

そして秀吉は、正親を大いに褒め称えた後、
しばらく、正親に関東の情勢についていろいろと聞いた。
秀吉が聞いてくる事は、戦略家らしい、的を得た核心を突く事柄ばかりで、
質問を受けながら、正親は感心していた。
そんな会話が続いた後、秀吉は正親に言った。

秀吉「そなたは、2人もの子を北条に討たれたとか。
   北条は、我が敵であり、いずれは討たねばならぬ。
   讃岐、そなたは関東に戻るが良い。
   わしが、そなたに書状を持たせよう。
   そして、この羽織を与えるゆえ、
   わしが関東に出陣した時は、
   その羽織を着て、我が下に駆けつけよ。」


すると秀吉は、菊と桐の紋のついた縮緬(ちりめん)の羽織と、
正親の復帰を促す塩谷義綱宛ての書状を正親に与えた。
菊と桐の紋は、天皇家と豊臣家の家紋。
その羽織を手に取った正親は、畏れ多さのあまり、体の震えが止まらなかった。
こうして、秀吉との面会は、短時間の内に終わったが、
これにより正親は、泉に復帰するための大義名分を得たのである。
まさに、情けは人のためならず理の如く、
正親が、昔与えた小さな恩が大きな報いとなって返ってきたのだった。

そして正親は、道慶に礼を言うと、
間もなく京を後にして、故郷である泉の松ヶ嶺城へと向かい旅立った。
その日は、正親の心を表すかのように空は、雲ひとつ無く晴れ渡っていた・・・

第8話 旅立ち

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【写真】大中寺



俗名 岡本清四郎照富
忠徳院殿鏡山全鑑居士 享年21歳

俗名 岡本清九郎正富
孝叔院殿月山全心居士 享年19歳


清四郎と清九郎の亡骸は、正親によって大平山の大中寺に葬られた。
大中寺は、越名沼の戦場と皆川の中間にあり、正親が信奉していた寺だった。
いかに若過ぎたとは言え、
なぜ天は、2人とも連れ去ってしまったのか。
どうして、どちらかは生かしてくれなかったのか。
若過ぎるからこそ、
天ならば、
惨めさを与え、苦しみを与え、
あらゆる試練を与えるために生かし、
その上で未来を与えるのではないか。
正親は、天を呪った。
けれども、天を呪っても人の性。
2人の亡骸を葬ると、正親は、清四郎と清九郎の冥福を天に祈った・・・
だが、そもそも何故こんなところに、清四郎と清九郎の2人も連れてきてしまったりのか。
正親にとっては、悔やんでも悔やみきれない事であり、
自分を含めて、全てを恨まずに入られなかった。
綾が2人の死に接したのは、その後、正親が皆川に戻ってからだった。
首の無い亡骸など、正親は、自分以外の家族には見せたくなかった。
綾は、正親の言葉を信じられず、しばらく呆然とし、
最初は、その衝撃のあまり泣く事も出来なかった。
泪は、2人の死を知った次の日から流れ、日を負う毎に増えていった。
そして、それが枯れ果てるまで泣き続けたのに、
それでも2人の死を受け入れられなかった。
いや、死を受け入れられなかったのではない。
2人の死を受け入れた世に生きる事が堪えられなかったのだ。
綾は、清四郎の後を追う事も考えた。
けれども、それは出来なかった。
死ぬのが怖かったわけではなかった。
むしろ、2人の死を受け入れた世になど未練はない。
ないはずなのに何かが綾を思い止まらせていた。

(なぜ命が惜しい!? 夫が死んだというのに、
  なぜ死ぬ事を臆するのか?)


綾は、自分が情けなかった。
もしかしたら、清四郎の霊が自分の傍にいて、
死ぬ事を思い止まらせてくれているのではないかとも思ったが、
清四郎が霊として綾の前に現れる事も夢枕に立つ事さえも無かった。
結局自分は、人として、武家の妻として、
女として情けない、所詮百姓の娘なのだ・・・
綾はいつしか、憔悴し切って廃人のようになってしまっていた。

その後、正親は、2人の菩提を弔うため、
大中寺で出家して梅屋(ばいおく)と名乗った。
そしてこの時、正親は、皆川を去る決意を固めていた。
清四郎と清九郎が亡くなった今、
もはや正親には、武士でいる意味が無くなっていた。

正親(これで、岡本の家は終わりじゃ・・・。)

世継ぎを失い、岡本正親家は断絶。
あとは、泉に残る氏宗が岡本家の跡を決めるだけ。
そこに正親がいる意味は無かった。
正親は、ただ2人の息子の菩提を弔うためだけでなく、
武士を捨てるつもりで出家していた。

正親(そうじゃ、高野山に行こう。
  弘法大師様の下へ、清四郎と清九郎を連れて行こう・・・。)


そして正親は、その思いを綾や家来たちに告げると、綾にはこう言った。

正親「綾は、松ヶ嶺に帰れ。」
 綾「なぜです? 私も出家し、
   清四郎様と清九郎様の菩提を弔いとうございます。」

正親「ならぬ。綾は、まだ若い。」
 綾「夫を失った妻は、出家するのか倣いではありませんか。」
正親「倣いとてならぬ。綾には、まだ女として枯れてほしゅうない。
   清四郎とて、そう思っているはずじゃ。」

 綾「・・・・。」
正親「出家は許さぬ。菩提を弔いたいなら、
   松ヶ嶺に戻り、慈光寺で菩提を弔うが良い。」


慈光寺は、松ヶ嶺城内にある岡本家の菩提寺。
正親は、そこに2人の位牌を持っていて欲しいと綾に頼んだ。
綾も、とうとう断る事が出来ず、
無念な思いを抱えたまま、出家を諦め、正親の言葉に従う事にした。

(私は、百姓の娘・・・所詮、それだけの女・・・。)

こういう運命を背負わされるのも、
そして、それを受け入れておめおめと生きていられるのも、
全ては自分が卑しい者だから・・・
だが、綾は、この時まだ気付いていなかった。
なぜ、自分が生き長らえたのかを・・・
なぜ、死ぬ事を許されなかったのかを・・・

天が、岡本家の未来を綾に託した事を・・・

北条軍と佐竹・宇都宮連合軍の戦いは7月まで続き、
北条側から持ち掛けられた講和により停戦に至った。
そして皆川家は、北条方につく事になり、
正親は、その皆川家を離れる事を主君広照に伝えた。

正親「讃岐よ、すまぬ・・・。」

正親は、その広照の言葉が忘れられなかった。
そして、綾たちが松ヶ嶺に向かったのを見届けると、
自らは単身で、2人の御霊を弔うため、高野山のある西へと向かった。

だが、これは終わりではなく、新たな始まりだったのである。

第7話 遠き泉の空

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【写真】越名沼の古戦場



天正12年(1584年)5月6日、
越名沼付近を中心に、未だ佐竹・宇都宮連合軍と北条軍の対峙が続いていたが、
その時、越名沼には北条軍の主力はなく、
北条氏直率いる本隊は、越名沼から10km程南方の館林城にいた。
小競り合い程度の戦いは続いていたものの総力戦となる気配はなく、
氏直は、佐竹・宇都宮両軍と当たるのに充分な兵力を残して館林城に退いていたのだった。
しかし、佐竹・宇都宮両軍は、来るべき決戦に備えて密かに準備を進めていた。
佐竹・宇都宮両軍は、地元での戦と言う事もあって、
兵の休息のために定期的に前線の兵を帰し、
休息充分な兵と交替させ士気を保っていたが、
最近は、兵を入れ替えるふりをして徐々に兵力を結集させていた。
急に兵を増やすと、北条軍の本隊が再び越名沼に来てしまうので、
北条方に気付かれぬよう、時間をかけて兵力を結集した。
その結果、佐竹・宇都宮の連合軍は、総勢6000騎にまで膨れ上がっていた。
北条軍の総勢からすれば、それは半分に過ぎなかったが、
越名沼に展開している北条軍だけで見れば、
数で圧倒し、それを駆逐するのに充分な兵力であった。
そして、佐竹・宇都宮両軍を率いていた佐竹義重は、
遂に翌日、正面の北条軍に向かって総攻撃をかける事を決断をした。

その夜、越名沼一帯の深い霧が立ち込め、
それが、戦のための食糧の煮炊きの煙を隠す目隠しとなった。
正親、清四郎、清九郎の3人も、
引き連れた家来たちと共に早々と夕飯を済ませて、
明日の早い朝に備えて、土の上にわらを敷き、その上で眠りについた。
ところが、清四郎と清九郎は、初めての大戦を前に、
興奮してなかなか寝付けなかった。
すると清四郎が、傍で寝ていた清九郎に小声で声をかけた。

清四郎「まだ起きてるか?」
清九郎「何だ、兄上・・・。」
清四郎「少し、話がある・・・。」

清四郎は、起き上がると、人気の無い近くの林に清九郎を誘った。
清九郎も、それを見て起き上がり、ついていった。
「話とは?」と清九郎が聞くと、清四郎は言った。

清四郎「明日の事だ。お前に言っておく事がある。
    もし明日、俺が討死するような事があったら、
    俺に構わず、お前は逃げろ。」

清九郎「どういう事だ?」
清四郎「いや、討死にしなくても、もう駄目だと思ったら、
    助けになど来るな。逃げるんだ。」

清九郎「だから、どういう事だ。」
清四郎「2人一緒に死ぬわけにはいかないと言う事だ。
    2人一緒に死んだら、岡本家は断絶してしまう。
    だから、どちらか1人は確実に生き残らなければならない。
    俺は、お前の事を駄目だと思ったら逃げるつもりだ。
    だからお前も、俺が駄目だと思ったら逃げろ。」


それを聞いて、清九郎は苦笑いした。

清九郎「兄上らしくない・・・いつもは、そんな事言わないだろう。」
清四郎「いつもの戦とは違うからな・・・
    どうしても嫌な予感が頭から離れぬのだ。」

清九郎「武者震いか?」
清四郎「からかうな。だが、今の事、肝に命じておけ。
    あと・・・もし、俺が討たれた時は・・・
    清九郎、綾の事を頼む。」

清九郎「・・・・。」

清四郎は、全てを言い終えると、
そのまま戻り、再び横になって眠りについた。
清九郎は、そんな清四郎の様を一部始終見届けた後、
しばらくそこを動けなかった。
そんな清九郎の体には、
綾を抱きしめた時のあのぬくもりが蘇っていた。

清九郎(兄上が討たれたら、俺が綾を・・・。)

そんな邪な思いを清九郎は、かき消しては思いを繰り返した。
しかし、そうなった時の綾が悲しむ姿を思うと、
兄を死なせたくはないと思うのだった。

清九郎(みんな生き残ればいい・・・
   俺も、この戦に生き残ったら、妻を迎えるか・・・。)


清九郎は、右手の拳を握り締め、
静かに目を閉じ願をかけると、寝床に戻り眠りについた。


翌朝になっても霧は晴れていなかった。
それどころか、霧は益々深くなっていて、
空は灰色の雲に覆われ、
昼間だというのに、あたりは薄暗く、
これで雨でも降れば、奇襲をかけるには最善の状況であった。
義重は、軍勢を攻撃型の魚麟の陣に整えると、
総攻撃の命令を下した。
こうして、天正12年(1584年)5月7日、
佐野沼尻合戦の火ぶたが切って落とされた。
この時、北条軍は、本隊が館林にあるだけでなく、
軍を分散していたため、戦力が整っておらず大混乱に陥った。
佐竹・宇都宮連合軍は、緒戦を制し、北条軍を徐々に後退させていった。
しかし、この事は、すぐさま伝令によって館林にいた北条氏直に伝えられ、
氏直は、すぐさま主力を率い越名沼に向かった。
正親、清四郎、清九郎の3人は、最前線で北条軍と戦い、
次々と敵兵を討ち取っていった。
ところが、間もなく戦況が一変する。
氏直来陣の報が北条、佐竹・宇都宮両軍に届いたのである。
すると北条軍は、たちまち士気を取り戻し、反撃に出た。
義重は、ある程度北条軍の戦力を殺げれば、
無理にここで決着をつける必要は無いと思っていたので、
北条軍主力来援の報を聞くと、すぐさま全軍に徐々に退くように命じた。
その命令は、正親たちの下にも届いたが、
最前線にいたせいか、たちまち孤立し、退路を見失ってしまった。
北条軍の反撃にあうと、皆川勢も総崩れとなり、
まるで敗戦したかのように兵たちは散り散りになった。
正親の部隊も、1人2人と討ち取られ、
何とか退路を見出そうと奮戦していたが、
退路が何とか切り開けそうだと言う時、
清九郎が、2人の北条軍の兵に取り囲まれてしまった。
2人は、雑兵とは違う明らかに将兵級の武将だった。

広沢「我が名は、広沢三郎!!」
向笠「我が名は、向笠(むかさ)内蔵助!!」

それに清四郎が気付いた。

清四郎「清九郎!!!」
清九郎「兄者、昨日の事忘れたか!? 行け!!」

清四郎は、はっとそれを思い出した。
見捨てられない・・・そう思いながらも、
岡本家のためと思い、清四郎は意を決した。
清四郎は、刀を握り締めながら清九郎に背を向けた。

清四郎(許せ・・・。)

それを見た清九郎は、ほっと安堵した。
だが、それが一瞬の機の緩みとなった。
歴戦を生き抜いてきた広沢と向笠は、その油断を見逃さなかった。
広沢が振り下ろした刀は、清九郎の肩を斬りつけた。
清九郎は、一瞬の事に体が硬直してしまい、悲鳴すら上げる事も出来なかった。
だが、兄弟の異変は、テレパシーのように清四郎に伝わった。
清四郎は、強い後ろ髪を引かれる思いを感じて、その時、再び振り返った。
すると、衝撃的な光景が清四郎の目に飛び込んだ。
清四郎の目に映ったのは、
息つく間もなく広沢に腹を刀で突き刺され、
向笠に首をはねられた瞬間の清九郎の無残な姿だった。

清四郎「せ、清九郎ぉぉぉ!!!!」

しかし、その声はもう清九郎には届かなかった。
清九郎は、自らの血しぶきで赤く染まる空を見つめながら、
絶命寸前、声にならない声で、あの人の名を叫んでいた。

綾!!!!

清九郎の壮絶な討死の姿を見た瞬間、清四郎は我を忘れて怒り狂った。

清四郎「うぉぉぉぉぉ!!!!!!」

そして清四郎は、刀を振りかざして広沢と向笠に斬りかかっていった。
だが、いくつもの大戦をくぐり抜けてきた広沢と向笠は冷静だった。
向笠が、清四郎の渾身の一太刀を刀で受け止めると、
広沢が、その清四郎の背中を斬りつけた。
2人にしてみれば、清四郎は、まだまだ青すぎた。
そして、清四郎が仰向けに倒れこむと、
広沢は、すぐさま清四郎の胸を足で押さえつけ、
刀を縦に、刃先を下向きにして刀を振りかざした。
その瞬間、清四郎の脳裏に泉の懐かしい風景と綾の顔がよぎった。

広沢「御免!!!」

広沢は、そう叫ぶと、刀を清四郎の喉元に突き刺した。
清四郎の空もまた、自らの血で真っ赤に染まった。

清四郎(泉・・・故郷・・・綾・・・。)

そして清四郎は、懐かしき泉の空をまぶたに浮かべながら絶命した・・・
だが、その時越名沼の空は、霧も雲も晴れ青く澄み渡っていた。

それからしばらくして、佐竹・宇都宮両軍は、概ね撤退を完了し、
北条軍も、それを確認して兵を退いた。
その中には、命からがら逃げ延びる事が出来た正親もいた。
しかし正親は、清四郎と清九郎を見失い、2人がどうなったのかを知らずにいた。
そして正親は、戦が終わった後で、
清四郎と清九郎を探しに夕暮れ時、西の空が真っ赤に染まる戦場に戻ってきた。
すでに地元の者達によって、
討ち死にした者たちの供養が敵味方の区別なく始まっていたが、
その中に、正親も見覚えのある身なりの首の無い亡骸があった・・・
それは、間違いなく無残に首をはねられた清四郎と清九郎の亡骸であった。

正親「お、おお・・・おおおおおお!!!!!

越名沼に、正親の悲痛な叫び声が空しく響き渡った・・・

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