"やいたもん"の文学館

大きな人生の転機がありました・・・

泉物語(完結)

[ リスト | 詳細 ]

私の郷土の昔話です・・・
記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

第6話 決戦前夜

イメージ 1

天正12年(1584年)4月17日。
それまで約1年間、比較的なりを潜めていた北条軍が、
再び1万2000騎と言う大軍で北関東に侵攻。
下野と上野(栃木県と群馬県)の国境付近、
下野側の越名沼(こえなぬま)に布陣した。
これに対し、北関東諸将は、佐竹軍を中心にして連合軍を結集。
その総勢は約8600騎にまで達した。

そして、その連合軍の中に皆川軍もあった。
皆川軍の総勢は約300騎。
ただ、皆川勢は微妙な立場に置かれていた。
と言うのも、広照の妻鶴子の実家の皆川家とは盟友関係にある壬生(みぶ)家が、
皆川家とは反対に北条方についたからである。
皆川家には、最大で800〜900騎の動員力があったが、
その半分の戦力も出陣させていないというのは、
そうした皆川家の微妙な立場を象徴していた。
互いが軍勢を整えたものの、
すぐに決戦とはならず、戦は長期化の様相を見せていた。
そのため皆川軍は、越名沼が皆川城に近かったため、
いったん皆川城に兵を退いた。

それは、正親も清四郎も清九郎も初めて経験する大戦(おおいくさ)だった。
下野で大戦と言えば、どんなに多くても千数百〜二千数百騎ぶつかり合い。
数千〜数万の軍勢を相手にするなどまず無い。
しかし、これは正親が望んだ事。
戦場の経験が豊富な正親でさえ武者震いをするような戦だったが、
こういう戦も経験しなければ、これからの岡本家も無いと思っていた。
ただ、そんな正親たちを送り出す方からすればたまったものではない。
綾は、正親、清四郎、清九郎の武勇を信じてはいたが、
どんな小さな戦でも、一抹の不安を抱えながら送り出し、
無事な姿で帰ってくるのを見るまで、不安な日々を抱えたままの日々を過ごす・・・
女は待つだけ・・・ある意味、戦場に赴く男よりも辛い仕打ちだった。
しかも今回は、初めての大戦。
綾は、本音を言えば、3人を引き止めたい思いだった。
しかし、武家の女になった以上、それも出来なかった。
綾に出来る事と言えば、清四郎たちを無事に出陣させ、
その武勲を願う事しかなかった。

そして、5月に入って、正親、清四郎、清九郎の3人に再び出陣の命令が下った。
その出陣前夜、正親の館では、盛大な宴が催された。
しかし、普段は酒に強いはずの正親が早々と酔い潰れ、
綾は、清九郎に手伝ってもらい正親を寝所へと運んでいった。
綾が布団を敷き、清九郎が正親をそこへ寝かせると、
2人は、明かりを消して部屋を出た。
そして、縁側の廊下に出た時見えたのは、
雲ひとつ無い夜空に浮かぶ、大きな月であった。
綾は、思わずそれに目を奪われた。

「綺麗・・・。」

その瞬間だけ、不安な全ての事を忘れて心地良い気分になれた。
酒気に当たっていたせいか、
火照った体にはちょうど良い夜風も吹いていた。

「清九郎様、あの星空は、
  きっと私たちの未来を暗示しているのでしょう。
  澄み切った夜空に輝く無数の星たちのように・・・。」


しかし、清九郎の返事がない。
綾は、清九郎が行ってしまったのかと振り返ろうとしたが、
次の瞬間、綾の背中を誰かが抱きしめてきた。

  綾「せ、清九郎様・・・。」
清九郎「義姉上、しばらく・・・しばらく・・・。」

そう言って、清九郎は綾の背中を強く抱きしめた。

「い、いけません・・・。」

周囲に気付かれないように綾は言ったが、
清九郎は聞き入れなかった。
そして、綾の柔らかく芳しい体を抱きしめながら清九郎は言った。

清九郎「俺も、義姉上が好きだった・・・。」
  綾「・・・・。」
清九郎「だけど、兄上は絶対に死なせない。
    俺の命に代えても、兄上は守る。
    だから、このまましばらくいさせてくれ・・・。」


綾は、それ以上何も言わず、
清九郎に抱きしめられたまま夜空を見つめた。

(どうか、みんな無事でありますように・・・。)

綾に出来るのは、それだけだった・・・
そして、そんな光景を清四郎は影で見ていた。
2人が戻ってくるのが遅いので見に来たが、
兄として清九郎を思うと、2人の間に入っていく事が出来なかった。
清四郎は、静かに宴の席に戻り、手酌で酒をあおった。
しばらくして、綾が戻ってきた。

清四郎「清九郎は?」
  綾「眠くなったからと寝所に・・・。」
清四郎「そうか・・・じゃあ、俺たちも寝るか。」
  綾「はい・・・。」

そして、清四郎は寝所に入り、
綾も宴の片づけを終えると、清四郎が待つ寝所へと入っていった・・・

翌朝、正親、清四郎、清九郎の3人は、
総勢10騎の手勢で皆川軍に加わり出陣した。
天正12年(1584年)5月5日の事である。

第5話 皆川広照

イメージ 1

イメージ 2

【写真】皆川城下(上)と皆川城址(下)



かつて、正親と同じように下野を追放された武将がいた。
その名は、大田原資清(おおたわら すけきよ)
彼は、那須家臣団の有力者であったが、
同じく重臣の大関氏と福原氏の陰謀により、
永正16年(1519年)、那須の地を追われる事になった。
しかし資清は、那須を離れて後、
遠く越前(現・福井県)の朝倉氏に仕えて那須復帰の機会を虎視眈々と待ち続けた。
そして、23年と言う気の遠くなるような雌伏の年月を経て、
天文11年(1542年)、那須の地に帰り、
大関氏や福原氏を屈服させて那須家臣団に復帰した。
しかも、それだけではなく資清は、
嫡男と次男をそれぞれ大関氏と福原氏に養子に入れ、
両家を乗っ取ってしまったのである。
正親は、この資清に倣おうとしていた。

そんな正親が向かったのは、皆川の地であった。
正親は、その領主である皆川家から仕官の誘いを受けていたのだ。
皆川は、北の塩谷とは反対に下野の南にあり、対北条氏の最前線の土地であった。
北条氏は、関東最大の戦国大名。
北条氏の勢力は、関東南部を中心に6ヶ国に及び、
石高は150万石、正規の兵力は3万8000騎に及んだ。
下野最大の宇都宮氏の勢力が18万石4500騎、
ライバルである那須氏がその約半分であり、
北条氏の勢力が、それを圧倒していた。
その北条氏は、天正10年(1582年)6月、
戦国の世を統一しようとしていた織田信長が謀反に倒れると、
関東統一の野望を果たすべく、下野に対して本格的に侵攻を始めた。
そして、宇都宮氏と北条氏の最前線の地にあったのが、
皆川広照(みながわ ひろてる)が支配する皆川であった。
正親一行は、その皆川氏に300石と言う新規召抱えとしてはかなりの厚遇で迎えられた。
それは、松ヶ嶺城時代から比べれば1/10以下ではあったが、
正親や清四郎の家族や従者が暮らすには充分な禄高であり、
そうした厚遇で迎えられたのも、
岡本家の武勇が下野に知れ渡っていたからこそであった。
岡本氏は、代々の当主が主君のために討死していた。
正親の父正重もまた討死しており、
初代富高も、壮絶な討死を遂げていた。
こうした、主君のために命を惜しまず、
さらに数々の武勲を挙げてきた岡本家は、下野諸将の間では名門として有名だった。
他方、正親が新しく仕えた広照も知勇兼備の将として知られていた。
それは、昔、関東管領の上杉謙信が一目置いたほどで、
のちには、徳川家康の6男忠輝の養育係となるほどだった。
広照もまた、兄と家督相続争いをして家督を継いでいるが、
同じ境遇でも義綱とは雲泥ほどに違う名将だった。

その広照が、ある日、正親に与えた館を訪ねてきた。
正親は突然の来訪に驚き、
家族総出で広照を迎えてもてなした。

広照「急に讃岐殿の顔を見たくなってのう。
   すまぬな、慌しくさせてしまって。」


広照は、36歳とは思えないほど若々しく、
笑うと、まるで10代後半の少年のようにさえ見えた。
しかし広照も、ただ遊びに来たわけではなかった。
広照は、もてなしを快く受ける一方で、
何気なく正親から北下野の情勢を聞き出していた。
正親も、それが分かっていたが、
話せる範囲で言葉を選んで答えていた。
そして、答えながら、改めて常に国事を忘れない広照に感心していた。
そんな中、広照が、ふと清四郎と清九郎の名である親富と正富の由来について聞いてきた。
正親がそれに答えると、正親は、ふとある事を思いつき広照に申し出た。

正親「御館様、お願いがござりまする。
   御館様の名を一字、清四郎に頂けぬでしょうか?」

広照「我が名をか?」
正親「はい。まこと恐れ多い事ですが、
   御館様の知勇にあやかりたく思いまする。」


正親の老練な「おだて」であった。
知勇にあやかりたいと言うのは半分本当だったが、
半分は、広照の覚えを良くするためのゴマすりであった。
ただ、これを姑息と見るのは浅はかな事で、
戦国の世を生き抜くためには、時にこういう事も必要だった。
広照も、正親にそう言われて悪い気はしていなかった。
おだてと言う事は分かっていたが、
正親が言うと嫌味が無く、素直に聞く事が出来た。
広照は、苦笑いしながら答えた。

広照「我が名にそのような徳があるとは思えぬが、
   我が名で良ければ与えようぞ。」

正親「ありがたき幸せ。」

そして清四郎は、広照から一字をもらい、
親富を改め照富(てるとみ)と名乗った。
それから広照は、上機嫌で城へと帰っていった。

それは、嵐の前の穏やかな一時の出来事であった・・・

第4話 正親追放

イメージ 1

【写真】泉の山々より泉の地を見下ろす



義綱は、幼い頃、
実の叔父に裏切られて城を追われると言う経験をしていた。

永禄7年(1564年)10月7日夜、
弥六郎と呼ばれていた義綱が6歳の時、
この前年に喜連川塩谷家の家督を継いでいた叔父の孝信が、
精鋭の16騎の手勢を引き連れ川崎城を夜襲した。
たかが16騎の兵だったが、
川崎城の大手門を守る木村和泉と言う者が内通し、
あっさりと城内への侵入を許したのだった。
そして、叔父家来の裏切りにより義綱の父義孝は殺された。
この時、義綱も城にいたが、
家臣の大沢隼人が義綱を守り命からがら城を脱出した。
その後、大沢隼人は、幼君義綱を連れて義綱の母の実家である宇都宮家を頼り、
後に川崎城を奪い返して、義綱は家督を継いだ。

幼い頃のこの出来事がトラウマになっていた義綱は、
人を信じられない人間になっていた。
特に、自らを脅かす事が出来る人間は最初から信用出来なかった。
信用しても必ず裏切る・・・
そう思う理由は、何もトラウマばかりに起因しているわけではなかった。
義綱の祖父孝綱は、宇都宮家から来た養子であったが、
やはり、父義孝同様に家臣の謀反に遭っていた。
義綱は、祖父、父と続いた事ならば、
自分の代にもそういう事があっておかしくないとも思っていた。
ただ、孝綱は、それを事前に察知して、
謀反を企てた家臣たちを粛清して安定政権を築いた。
そこで義綱は、この祖父孝綱にならい、
謀反を起こされる前にその芽を摘み取ろうとした。
その芽とは、義通であり、正親である。
ただ、那須氏との戦いが激化しつつある今、
安易に義通や正親を追放する事は出来なかった。
そんな事をすれば、那須氏につけ込まれるだけである。
さらに、家臣団の中には那須氏と内通している者がいるかも知れない。
現に、これまで約300年も塩谷氏と那須氏は戦ってきたが、
互いの家臣の裏切りの繰り返しは日常茶飯事だった。
だからこそ義綱は、正親の封じ込めのため、
着実に謀略を巡らせ、また機を待った。

天正11年(1583年)2月、そんな義綱に好機が訪れる。
常陸(茨城県)の有力大名佐竹氏と宇都宮氏の連合軍が、
那須氏の本城烏山城を攻めたのである。
結局、烏山城は落ちず、佐竹・宇都宮連合軍は撤退するが、
これにより、しばらく那須勢の動きが静かになった。
義綱は、正親を追放するならば今だと思い、
川崎城に正親を呼び寄せた。

義綱「讃岐(正親)、そちは、兄義通を擁立し、
   謀反を企んだであろう!」

正親「な、何を馬鹿な事を!?」
義綱「わしが何も知らぬと思ってか?
   本来であれば、切腹を命じて岡本家も潰すところを、
   これまでの岡本家の功績に免じ、
   そちの隠居を以って罪を許す。」


それは、正親にとって身に覚えのない事だった。
確かに以前、一度義通の擁立を試みたが、
義綱が跡継ぎと決まってからは、そのような事は企てた事も無い。
ただ、身に覚えが無いのも当然だった。
全ては義綱のでっち上げだったからだ。
義綱は、本心を言えば、正親を切腹させて岡本家ごと潰してしまいたい思いだったが、
そんな事をすれば、岡本領に混乱が生じてしまう。
岡本氏が持つ戦力は、塩谷氏にとって欠かせないものであり、
これを失ったり混乱させてしまったりすれば、
塩谷氏にとっても大打撃となる。
さらに、義綱には困った事実がある。
それは、正親と氏宗の弟に光貞(みつさだ)と言う者がいたが、
この岡本光貞は、喜連川の塩谷孝信に仕えていたのだ。
光貞は、孝信が喜連川に養子に行った時、
家来として一緒に喜連川についていったものだが、
もし、岡本氏に下手な処分をして、
岡本氏の家来たちが光貞に通じれば大変な事になる。
だから、隠居と言う形で追放するしか無かったのだ。
正親は必死に弁明したが、義綱は聞き入れず、
家臣団の中で孤立していた正親を助ける仲間もいなかった。

正親にとっては晴天の霹靂であった。
正親が隠居を迫られた事を知ると、正親の家来たちは激怒した。

家臣「塩谷と一戦交えるべし!!」

喜連川の光貞と連携すれば塩谷にも勝てる。
そう言って、家来たちはいきり立ち騒然となった。
しかし正親は、これを諌めた。

正親「そんな事をすれば、那須勢を喜ばせ、
   塩谷の地を蹂躙されるだけ。それはならぬ。」


しかし、その場にいた清四郎が反論した。

清四郎「塩谷が我らを見捨てると言うなら、
    その塩谷に忠節を誓う意味もありません。
    逆に、那須殿が我らを迎えてくれると言うなら、
    我らは、那須殿につくべきではありませぬか?」


すると正親は、目をキッと光らせ清四郎に言った。

正親「我らは、これまで何度も那須勢と戦ってきた。
   そして、多くの命を散らせてきた。
   それは何のためか? 那須からこの地を守るためであろう。
   その命の代償の上に生きている我らが那須に寝返って、
   その者たちに、どのように顔向けが出来ようか?」


正親の言葉に、清四郎も家来たちも静まり返った。
正親は、さらに続けた。

正親「それに、塩谷は我らを見捨てたわけではない。
   いや、捨てられなかったのだ。
   塩谷にとって、我らは欠かせない戦力だ。
   それに、光貞を通じて那須に寝返る事を恐れている。
   本心は、わしを切腹させ、岡本を潰したかったのだろうが、
   それが出来なかったのだ。
   切腹ならば再起は無いが、隠居と言うなら再起はある。
   それまで我々は耐えようではないか。」


その言葉に、家臣の中には、むせび泣く者もいた。
そして、正親の考えを尊重して、正親は隠居する事になった。

正親は、隠居の後、家督を氏宗に譲った。
筋から言えば清四郎が家督を継ぐべきだが、清四郎はまだ20歳と若すぎた。
それに正親には考えがあった。
それは、清四郎と清九郎を連れて、いったん泉の地を離れる事だった。
正親は、清四郎と清九郎に外の世界を見せたかった。
世の中には、塩谷や那須、宇都宮など目ではない、
有力な戦国大名たちがゴロゴロいる。
そうした世界を2人に見せて、2人を成長させたかった。
それは、いずれ岡本氏の未来にも役立つはず。
正親は、その思いを清四郎と清九郎に語った。
すると、清四郎と清九郎も、泉を離れる事に同意した。

そして、天正11年(1583年)の夏、
正親は、松ヶ嶺城の事を氏宗に全て任せ、
清四郎と綾、清九郎と僅かな従者と共に松ヶ嶺城を出た。
ただ、それは正親にとって険しく厳しい、苦難の道の始まりであった・・・

イメージ 1

【写真】川崎城址



清四郎が元服してから2年後の天正8年(1580年)には弟の清九郎も元服し、
岡本正富(おかもと まさとみ)と名乗った。
「正」は父正親から、「富」は初代富高からと、
清四郎と同じようにして名付けられた。
また、この1年前、清四郎と清九郎の姉が、
嫁ぎ先でその家の世継ぎとなる嫡男を誕生させていた。
その嫁ぎ先とは、岡本家の主君塩谷氏の庶流で、
塩谷日向守義通(しおのや ひゅうがのかみ よしみち)と言った。
しかし、この事が、実は岡本家と主君塩谷家との間に確執を生んでいたのである。

義通は、正親の姉が先君塩谷義孝(しおのや よしたか)に嫁ぎ生んだ子で、
義孝の長男であった。
しかし、義孝の後を継いだのは義通の弟義綱(よしつな)だった。
なぜ、義通が家督を継げなかったかと言えば義通の母が義孝の側室だったからだ。
義通と義綱は、兄弟とは言っても母親が違っていた。
義通の母親は塩谷家家臣岡本家の娘、
義綱の母親は塩谷家の主君である宇都宮家の養女、
同じ妻でも格が違っていたのだ。
そのため、義綱の方が正統とされ、義通は家督を継げなかった。
ただ、義通自身は、それを悲観してはいなかった。
塩谷家家臣団で筆頭の実力者であった正親は、義通に家督を継がせるべく奔走したが、
肝心の義通は、

義通「私は、塩谷家が安泰であれば良い。」

と野心のかけらも見せず、
義綱が宇都宮家の支援を受けて家督を継ぐと、
自らは御前原城に入り、本城である川崎城をあっさりと義綱に譲ってしまった。
正親も、本人がこの調子ではどうしようもなく、
さらに宇都宮家が義綱を支持した事もあって、義通擁立を諦めざるを得なかった。
ただ、正親が義通擁立に奔走していた事は義綱も知っており、
義綱は、正親を信頼せず、
また、自分の座を脅かす事が出来る兄義通を疑い妬んでいた。
そんな義通に嫡男が誕生すると、義綱は焦燥感を募らせた。
義通と義綱は、兄弟と言っても12歳も離れており、
義通に嫡男が誕生した時、
義通は34歳、義綱は、また22歳に過ぎなかった。
しかし、仮に義綱に男子が誕生しなければ、
家督は、自動的に義通の子に継承される事になる。
しかも義通は、領民に優しく人徳もあり、
学問にも優れ、評判が良かった。
そして、焦った義綱は、清九郎が元服したその年、
突然、暴挙とも言える行動に出る。
義綱は、義通に城替えを命じ、
御前原城には次兄の安芸守季綱(あきのかみ すえつな)を入れ、
義通を泉城に移してしまったのだ。
御前原城は、川崎城に次ぐ地位を持つ塩谷氏にとって重要な城であったが、
泉城は、仇敵那須氏と対峙する最前線の城で、
塩谷領の北部の要たる城だったとは言え、
規模はかなり小さく、塩谷氏にとっては支城のひとつに過ぎなかった。
また、泉城にはすでに泉氏と言う城主一族があり、
実権は、その泉氏が握ったままで、
義通に与えられたのも泉城の北のはずれの屋敷で、
実質的に幽閉状態に追い込まれたのである。
ちなみに季綱は、次兄とは言っても、父義孝の養子に過ぎず、
義綱にとっては無害の兄であった。
義綱は表向き、義通を対那須氏の総大将とすると言う名目でそれを行ったが、
義通を失脚させるための仕業である事は誰の目にも明らかであった。

これを知った正親は、慌てて川崎城に向かい、
この命令を取り消すよう義綱に訴えた。
しかし義綱は、まともには取り合わなかった。
しかも義綱は、反正親の家臣たちを結集させ、家臣団に対する裏工作も終えており、
誰も、正親に同調して義通を救おうとはしなかったのである。

そして、これを機に塩谷氏と岡本氏の対立は鮮明となり、
正親は、塩谷家臣団の中で孤立していく事になるのである・・・

第2話 清四郎の元服

イメージ 1

【写真】松ヶ嶺城址



天正3年(1575年)、
鉄砲が時代を変えた織田と武田による長篠合戦があったその年、
綾は、松ヶ嶺城に上がった。
松ヶ嶺城は、城と言っても天守閣があったり石垣があったりと言うものではない。
城に適した山の地形を選び、その地形を生かして、城郭や堀を築き、
その上に、茅葺や板葺の館や木組みの櫓を並べる
その時代においては典型的な山城だった。
見栄えよりも生き残る事が優先されていたのだ。
そして、城に上がった綾は、
正親や清四郎、清九郎との目通りを済ませ、
その日から城で住み込みで働く事になった。
綾は、最初の内は熟練の女中の指導を仰ぎ、
いろいろ教わりながら手探り状態で清四郎と清九郎の世話をしていたが、
飲み込みの早かった綾は、1ヶ月もしない内に1人で2人の世話を任せられるようになっていた。
清四郎と清九郎も、そんな綾を大切に扱った。
それは、正親にこう言い含められていたからだった。

正親「お前たちは、綾を大切にせねばならぬ。
   奉公とは関係なく、女子として大切にするのじゃ。」


正親は、綾を百姓の娘として見下す事や
女中だからとぞんざいに扱う事を許さなかった。
そして、清四郎も清九郎もそれに従った。
もっとも、2人が綾を大切にした一番の理由はそれではなかった。
2人とも綾が好きだったのだ。
綾より年下の清九郎は、綾を姉のように慕っていた。
清四郎と清九郎には、少し年の離れた姉がいたが、
綾は、その姉とは別の雰囲気を持つ、
今までに出会ってき女性とは違う存在だった。
清九郎は、そんな綾に甘えきっていた。
他方、清四郎は、あの神楽を舞っていた綾の姿を忘れられなかった。
あの美しい姿が昨日の事の様に脳裏に焼きついていた。
清四郎の周りには、武家の娘や町人の娘もいたが、
綾ほど清四郎の胸を熱くする女子はいなかった。

清四郎(いつか、綾を妻にしたい・・・)

清四郎は、いつしかそんな思いを抱くようになっていた。
そして清四郎は、度々綾を連れ出し、
2人で町を歩いたり、馬で領内の野山を駆けたりして、
綾との時を出来るだけ作り、その時を大切にした。
綾も、そんな清四郎が、いつしか好きになりかけていた。
しかし・・・

(自分は百姓の娘と言う卑しい身分・・・
  そんな思い、決して抱いてはいけない・・・。)


そう思い、清四郎へ気持ちを押し込めてしまっていた。
ただ、それでも優しくしてくれる清四郎の存在は、
綾の中で日に日に大きくなっていくのだった。


そんなある日、綾は、その日も清四郎の馬に乗せられ、
晴れ渡った空の下、野山を2人で駆けていた。
それから、松ヶ嶺城の東側を流れる中川(ちゅうかわ)の上流の河原で
2人は休息を取っていたが、
そこで綾は、思い切って清四郎にこんな事を聞いた。

  綾「どうして清四郎様は、私に優しくしてくれるのですか?」
清四郎「・・・なぜそんな事を聞く?」
  綾「私は、清四郎様に奉公する女中に過ぎません。
    しかし、私だけ、こうして馬駆けに連れ出してくれたり、
    町に連れてってくれたりしてくださいます・・・。」


すると清四郎は、少し照れも含んだ感じの笑顔で綾に言った。

清四郎「綾といると楽しいからだ。」

綾は呆然として清四郎の顔を見つめた。

清四郎「最初は、父が、綾を大切にしろと言ったのでそうしていた。
    しかし、今は違う。俺は、綾が好きなのじゃ。」


清四郎ははっきりと言った。
あまりにもはっきりとした言葉に、綾は戸惑い、
たちまち全身は熱くなり、胸はときめいたが、
すぐに綾は思い直した。

  綾「いけません。私は、百姓の娘。
    身分があまりにも違いすぎまする・・・。」

清四郎「それがどうした? 身分など、綾が武家の養女になるなどして、
    いくらでも取り繕う事は出来る。
    俺は、元服したら、綾を妻に迎えるつもりだ。

  綾「そ、そんな事・・・。」
清四郎「綾は、俺の事が嫌いか?」
  綾「いえ・・・け、けれども・・・。」
清四郎「もし、好きでないなら、今からでもいい。
    俺の事を好いてくれ。俺は本気だ。」

  綾「・・・・。」

綾は、少し押し黙った後、静かにうなずいた。
うなずくしか出来なかった。
身分の違いも、ここまで迫られては何の障壁にもならなかった。
本当にこんな事を受けていいのかと後ろめたさもあったが、
清四郎が、こんなに自分を思っていてくれたのかと思うと、
綾は、女としての幸せを感じずにはいられなかった。
そして、2人の思いは、身分と言う建前と全ての不安を一気にかき消してしまった。

こうして、2人の心は結ばれ、
2人は、日々その愛を育んでいった。


綾が城に上がってから3年後の天正6年(1578年)。
清四郎は、正親に元服を許された。
これは、先年より岡本氏の主君塩谷氏の仇敵那須氏の塩谷領侵攻が激しくなり、
清四郎も戦場に出ざるを得ないという事情があったためだ。
ただ、清四郎もたくましい男に育っていた。
特に武芸に秀で、細身ながらも背が高く筋肉質で、
相撲を取っても、木刀を握っても、槍を取っても、
もはや家来に清四郎にかなう者はいなくなっていた。
正親も、そんな清四郎の成長を見て、
清四郎を戦場に出しても恥ずかしくなく、
また、必ずや武功を挙げられるだろうと確信していた。
すると清四郎は、正親に元服を命じられた席で、
遂に約束を果たすべく、正親に言った。

清四郎「元服するに当たって、父上にお願いがあります。
    綾を、私の妻にする事をお許し下さい。」


しかし正親は、少し驚いたような顔を見せたものの、
清四郎が思っていたほど動揺する素振りは見せなかった。
そして正親は、大きく肩で息をついて、それから言った。

 正親「やはりそうなったか。」
清四郎「・・・・。」
 正親「綾をお前たちに仕えさせた時から、
    こうなる事もあるのではないかとは思うてはいた。
    本当にそうなると少し戸惑いもしたが、
    綾が女子としてお前を許しているなら、
    それは、お前たちの好きなようにするが良い。」

清四郎「で、では父上・・・。」
 正親「綾は、氏宗の養女にでもして、
    元服の後、清四郎の妻としよう。」

清四郎「あ、ありがたき幸せ!!!」

その年、清四郎は元服し、岡本親富(おかもと ちかとみ)と名乗った。
「親」の字は父正親から、「富」の字は岡本氏初代岡本富高より戴いたものだった。
そして、それから間もなく清四郎と綾の婚儀が行われ、2人は正式に結ばれた。

清四郎と綾、15歳の時であった・・・

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事