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			<title>&quot;やいたもん&quot;の文学館</title>
			<description>矢板出身者の&quot;やいたもん&quot;が、小説・詩などを書く文学ブログです。
(文学を名乗るほどの腕はありませんが・・・)
小説は、矢板が舞台、あるいはその風景を仮想舞台とするものを中心に書くつもりです。
もっとも、それ以外の小説も書いたりします。

その程度のブログです・・・</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
		<image>
			<title>&quot;やいたもん&quot;の文学館</title>
			<url>https://s.yimg.jp/i/jp/blog/iym_img.gif</url>
			<description>矢板出身者の&quot;やいたもん&quot;が、小説・詩などを書く文学ブログです。
(文学を名乗るほどの腕はありませんが・・・)
小説は、矢板が舞台、あるいはその風景を仮想舞台とするものを中心に書くつもりです。
もっとも、それ以外の小説も書いたりします。

その程度のブログです・・・</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976</link>
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		<item>
			<title>干物</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/77/25493377/img_0?1191996595&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
ある海の防波堤の上　&lt;br /&gt;
一匹の魚が、そのコンクリートの塊の上で干物にされていた&lt;br /&gt;
防波堤には、たくさんの釣り人がいる&lt;br /&gt;
ただ、そこはあまり釣れないのか、そこだけ人がいなかった&lt;br /&gt;
もともと釣れないのかも知れないし、時間帯の問題かも知れない&lt;br /&gt;
そんな場所に一匹の干物&lt;br /&gt;
おそらく、ここで魚を釣り上げた人が、&lt;br /&gt;
魚を海に返さず、魚は、ここで生き絶えミイラのようになってしまったのだろう&lt;br /&gt;
残酷な話だ・・・そういう釣り人もいるということだろう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、そういう人間は、&lt;br /&gt;
社会において干物にされるだろう&lt;br /&gt;
他人に残酷に切り捨てられ、&lt;br /&gt;
社会の中で干物のようにされてしまうのだ&lt;br /&gt;
因果応報・・・それは決して机上の空論ではない&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、私もそういう人間かも知れない&lt;br /&gt;
私は今、ものすごく後悔している&lt;br /&gt;
なぜならば、その干物を海に返してやらなかったからだ&lt;br /&gt;
海に返したところで生き返るわけではない&lt;br /&gt;
しかし、このままでは魚は土に返る事も出来ない&lt;br /&gt;
私が人間らしかったら、魚を海に返していただろう&lt;br /&gt;
それが、残酷な人と同種の人間としての償いであり、&lt;br /&gt;
それが供養になる・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし今後、私が社会で干物にされる事があれば、&lt;br /&gt;
因果応報・・・それは自業自得かも知れない</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25493377.html</link>
			<pubDate>Wed, 10 Oct 2007 15:09:55 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>無縁仏</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/97/25452097/img_0?1191898935&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/97/25452097/img_1?1191898935&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/97/25452097/img_2?1191898935&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
とある場所・・・&lt;br /&gt;
卵塔、五輪塔、宝筐印塔など&lt;br /&gt;
ほとんどが江戸期の古いお墓が、整然と並べられていた&lt;br /&gt;
けれども、数多くある墓石の真ん中に置かれていたのは&lt;br /&gt;
無縁仏の墓標であった&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうやら、ここには昔寺があったらしい&lt;br /&gt;
それが廃寺となり、墓石がここに集められたようだ&lt;br /&gt;
詳しい歴史を調べてないので分からないが、&lt;br /&gt;
一番新しいものでも明治時代の墓石しかないので、&lt;br /&gt;
あるいは、明治時代に行われた廃仏毀釈で廃寺になったものかも知れない&lt;br /&gt;
だから、真ん中は無縁仏なのだ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、これだけの仏がありながら真ん中が無縁仏&lt;br /&gt;
かなり空しい・・・&lt;br /&gt;
みんな立派に供養されていたのだ&lt;br /&gt;
歴代住職は、大和尚や和尚禅師など立派なおくりなをつけられて、&lt;br /&gt;
ほかの墓も庶民としては立派なものが多いので、&lt;br /&gt;
比較的裕福、あるいは庶民としては中流的な家庭で生まれて死んで、&lt;br /&gt;
子孫に供養されていたのだろう&lt;br /&gt;
寺が無くなる前までは・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、どんなに普通に幸せな生活を送ろうと、&lt;br /&gt;
どんなに立派に大成しようとも、&lt;br /&gt;
末路が無縁仏かと思うと、&lt;br /&gt;
生きる事の空しさを感じて仕方がない&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓は、地元の人によって供養されていた&lt;br /&gt;
中には、つながりこそ分からなくなってしまったものの、&lt;br /&gt;
この墓の主たちの子孫も地元にはたくさんいるだろう&lt;br /&gt;
そういう意味では寂しくないかも知れない&lt;br /&gt;
それに、これだけ墓も集まっていれば、&lt;br /&gt;
無縁仏でも寂しくないかも知れない&lt;br /&gt;
むしろ、うるさいくらいに賑やかかも知れない&lt;br /&gt;
けれども・・・彼らにつけられた名前は、無縁仏なのだ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、そんな墓の中にあった一基の墓石にひかれた&lt;br /&gt;
墓標を見ると、童女の墓だ&lt;br /&gt;
童女という事は、未成年者の墓である&lt;br /&gt;
基本的に童女は満18歳以下の未成年者に送られる戒名&lt;br /&gt;
ただ、ある程度の年齢に達していると、&lt;br /&gt;
満18歳未満でも信士・信女などの戒名が送られる事もあるので、&lt;br /&gt;
この墓の主は、かなり幼いかも知れない&lt;br /&gt;
私には、10歳未満の少女の墓のように思えた&lt;br /&gt;
もちろん、それに根拠は無い&lt;br /&gt;
行年も享年も書かれてはいなかった&lt;br /&gt;
墓標には「宝暦八年十一月朔日(ついたち)　智光童女」とある&lt;br /&gt;
宝暦八年は西暦1758年&lt;br /&gt;
智光という事は「智」という字が使われるような名前だったのかも知れない&lt;br /&gt;
例えば「ちよ(智代)」とか・・・&lt;br /&gt;
私は、幼い彼女が、私の袖を引っ張ったのかも知れないと思い、&lt;br /&gt;
何も出来ない事を申し訳なく思いつつも&lt;br /&gt;
手を合わせて光明真言を唱えた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この無縁仏の墓の近くには民家もある&lt;br /&gt;
公民館もあれば、おそらく寺の跡地であろう場所に作られた&lt;br /&gt;
さびれた感じではあったが公園もある&lt;br /&gt;
人が全く来ないという場所でもないようだ&lt;br /&gt;
地元の人にも定期的に供養もされている&lt;br /&gt;
ただ、そんな彼らに与えられた名前は無縁仏&lt;br /&gt;
彼らは、それをどう思っているのだろうか・・・</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25452097.html</link>
			<pubDate>Tue, 09 Oct 2007 12:02:15 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>第47話　幸の輿入れ　２</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/49/25333549/img_0?1191590615&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/49/25333549/img_1?1191590615&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/49/25333549/img_2?1191590615&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/49/25333549/img_3?1191590615&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/49/25333549/img_4?1191590615&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
川崎城の西、現在の塩谷町にあたる地域には、&lt;br /&gt;
川崎城の支城がいくつもあった。&lt;br /&gt;
まずは、その地域の最西端にあたる船生城(ふにゅうじょう)。&lt;br /&gt;
時の城主は君嶋(五郎)備中守高胤。&lt;br /&gt;
君嶋氏は、桓武天皇を祖とする桓武平氏の末裔の名門。&lt;br /&gt;
その君嶋氏から派生したのが、&lt;br /&gt;
風見城の風見氏と大宮城の大宮氏である。&lt;br /&gt;
時の風見城主は風見新右衛門。&lt;br /&gt;
新右衛門は、初代風見新右衛門胤重より続く由緒ある名である。&lt;br /&gt;
時の大宮城主は大宮筑前守増任。&lt;br /&gt;
初代は、風見胤重の弟の大宮兵部少輔胤景。&lt;br /&gt;
船生城は玉生城の西にあり、風見城と大宮城は、比較的近い距離にあり、&lt;br /&gt;
船生城の東南、玉生城の南に存在した。&lt;br /&gt;
そして、玉生城、船生城、風見城、大宮城に囲まれた中間の山に存在するのが&lt;br /&gt;
泉城と原荻野目堀之内館。&lt;br /&gt;
時の城主は飯岡八郎知貞、堀之内館の城主は川上弥右衛門通正。&lt;br /&gt;
川上氏は、第11代垂仁天皇を祖とする越智氏の末裔である。&lt;br /&gt;
さらに、その東南地域には、大久保太郎吉宗を城主とする大久保城があった。&lt;br /&gt;
大久保氏は、宇都宮泰貞が大久保姓を名乗った事に始まる名門である。&lt;br /&gt;
これらの一族は、塩谷氏の直接の家来ではなく、&lt;br /&gt;
宇都宮氏の旗本で、宇都宮領北部の旗本では筆頭格である塩谷氏に従っているものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辰業は、玉生城に入ると、すぐに菊と幸を伴って大宮城に入り、&lt;br /&gt;
塩谷の諸将を集めてもてなしの宴を催した。&lt;br /&gt;
大宮城は、その地域では最も大きな城であった。&lt;br /&gt;
辰業は、その席で妻の菊とその妹の幸を披露した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大宮増任&lt;b&gt;「おお、噂には聞いていたが若くて美しい奥方じゃ。&lt;br /&gt;
　　　　　近く、幸殿も側室として入られるとか。&lt;br /&gt;
　　　　　筑後殿(辰業)がうらやましいわい。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ、幸を側室にする事は決めていなかったが、&lt;br /&gt;
幸を側室にする事は、その場では既成事実のようになってしまっていた。&lt;br /&gt;
人の噂と言うものは早いもので、幸の側室入りの話が山田の城下で噂になり、&lt;br /&gt;
それがあっと言う間に塩谷領内に伝播していたのである。&lt;br /&gt;
山田家のしきたりが、塩谷領内で知られていたという下地もあった。&lt;br /&gt;
その事に、辰業も菊も幸も戸惑っていた。&lt;br /&gt;
ただ、幸は、これをきっかけに側室になる決意が固まりつつあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;(もうここまで世間が認めているならば・・・&lt;br /&gt;
 子が生めない姉の代わりに、私が生んでもいい・・・)&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何も知らない幸は、そう思ったのであった。&lt;br /&gt;
その夜は、大宮城で一泊して、その翌日玉生城に戻ると、&lt;br /&gt;
辰業は、早速玉生城の改修事業に着手した。&lt;br /&gt;
だが、どんなに仕事に没頭しても、辰業の頭からは、幸の事が離れなかった。&lt;br /&gt;
言わなければならない・・・そんな思いに苦しんでいたのである。&lt;br /&gt;
そして辰業は、その夜、寝所を共にする菊に、幸にどう話すかを相談したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　菊&lt;b&gt;「それについては、私が話します。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「いや、わしが話す。わしが話さなければならない。&lt;br /&gt;
　　　これは全てわしの責任じゃ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　菊&lt;b&gt;「ならば、私も共に話します。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そう決まって、その翌日の夜、辰業は寝所に幸を呼び寄せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「実は、そちに話しておかなければならない事がある。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辰業と菊が上座に座り、幸は、２人に見守られるように下座で対峙した。&lt;br /&gt;
こうして長い夜が始まったのであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;※サムネイル左から・・・&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;green&quot;&gt;～ダ絃誑遠望。君島氏初代の君島十郎左衛門尉嗣胤(1204年生～1261年８月７日没)、&lt;br /&gt;
　あるいは、その子君島左衛門尉成胤(1254年生～1295年４月24日没)の代の時、&lt;br /&gt;
　13世紀後期に築城されたと思われる。船伊勢小学校の裏手の山。&lt;br /&gt;
大久保城址付近。大久保氏初代大久保泰貞(生没年不詳)により、&lt;br /&gt;
　14世紀前半に築城されたと思われる。&lt;br /&gt;
泉城址(飯岡館)。斉藤将監清忠(生没年不詳)により、永正９年(1512年)に築城。&lt;br /&gt;
ど城址。この明神山の山頂には、承和元年(834年)創建の東護神社がある。&lt;br /&gt;
　ただ、城の主要部は、明神山にはなく、手前の山麓に築かれた居館であった。&lt;br /&gt;
　風見城の始まりは、清原成衡(海道小太郎業平)により平安後期に築かれた風見館で、&lt;br /&gt;
　中郡頼経によって滅ぼされている。ちなみに、成衡を直接討ったのは、&lt;br /&gt;
　源八幡太郎義家の弟義綱と推定されている。&lt;br /&gt;
　その後、14世紀前期に風見氏初代の&lt;br /&gt;
　風見新右衛門尉胤重(生年月日不詳～1351年12月20日没)により、&lt;br /&gt;
　風見氏が創始され、その居城たる風見城が築かれる。&lt;br /&gt;
ヂ腟楙誑。大宮氏初代大宮兵部少輔胤景(生年月日不詳～1351年12月20日没)により、&lt;br /&gt;
　14世紀前期に築城される。&lt;br /&gt;
　当地は、塩谷町最大の現存19基からなる西の山古墳群の東に続く丘陵地帯にある。&lt;br /&gt;
　その点から、大宮城址も古墳地帯、&lt;br /&gt;
　あるいはその古墳の主である豪族の居館が元々あったものだと考えられる。&lt;br /&gt;
　現存する城郭は、塩谷町の城跡の中では最大で、一城別郭の構造を成し、&lt;br /&gt;
　その規模から、戦国末期には、大宮氏の居城だけでなく、&lt;br /&gt;
　当該地方の支配の拠点となっていたものと推定される。&lt;br /&gt;
　当地には、大宮中学校があり、ここも城郭の一部であったと思われる。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25333549.html</link>
			<pubDate>Fri, 05 Oct 2007 22:23:35 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>いまどきの公園</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/61/25318961/img_0?1191563429&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/61/25318961/img_1?1191563429&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/61/25318961/img_2?1191563429&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/991687/61/25318961/img_3?1191563429&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
いまどきの公園には何にもない&lt;br /&gt;
ブランコもジャングルジムも、すべり台もシーソーも・・・&lt;br /&gt;
でも、昔はあったのだ&lt;br /&gt;
ブランコもジャングルジムも、すべり台もシーソーも・・・&lt;br /&gt;
けれども、公園遊具での事故が多発して社会問題になり、&lt;br /&gt;
それらの遊具は撤去された&lt;br /&gt;
ブランコもジャングルジムも、すべり台もシーソーも・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでいいのだろうか?&lt;br /&gt;
問いかけるとこんな答えが返ってくる&lt;br /&gt;
「事故があった時、誰が責任を取るんだ?」&lt;br /&gt;
公園を設置した自治体や企業が取ればいい&lt;br /&gt;
「そんな責任は取りたくない」&lt;br /&gt;
だから最初から遊具は設置しない&lt;br /&gt;
そうすれば事故は起きない&lt;br /&gt;
こっちが無責任と思っても、&lt;br /&gt;
責任を取らされる側も大変ではある&lt;br /&gt;
「そんな公園に遊具を設置したければ、自分たちの責任で設置しろ」&lt;br /&gt;
そんな反論をされると、親たちは自治体や企業を責めるだろう&lt;br /&gt;
しかし、誰も自分たちで公園を設置しようとはしない&lt;br /&gt;
自分たちも、その責任が面倒だと知っているからだ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
未成年者の犯罪が社会問題になる度、人々はいう&lt;br /&gt;
「今の子供たちは、痛みを知らない」&lt;br /&gt;
どこで覚えろと言うのだろうか?&lt;br /&gt;
公園の遊具から落ちる事も出来ない&lt;br /&gt;
頭をぶつけて痛がる事も出来ない&lt;br /&gt;
転んで擦り傷を作る事も出来ない&lt;br /&gt;
公園がこの有様なのに、どこで痛みを覚えろと言うのだろうか?&lt;br /&gt;
時に、その痛みが命を奪う事がある&lt;br /&gt;
そういう意味では、公園遊具は危険とも言えるが、&lt;br /&gt;
危険ではない遊具で遊んで、いったいどんな痛みが覚えられると言うのだろうか?&lt;br /&gt;
自分の命を守るために、相手の命を尊重するために、&lt;br /&gt;
危険な遊具は、いろいろ教えてくれるのだ&lt;br /&gt;
そして、その経験が、危険を危険でなくしてくれるのである&lt;br /&gt;
みんな知っていたはずだ&lt;br /&gt;
何で、そんな大切な事を今になって忘れてしまうのだ?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いまどきの公園には夢が無い&lt;br /&gt;
子供たちを鍛えるものも無い&lt;br /&gt;
しかし、それが時二子供の命を奪う現実&lt;br /&gt;
大人たちは、今それと葛藤している&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、大人たちが葛藤している間にも、&lt;br /&gt;
痛みを知らない子供たちが、日々作られていっているのである・・・</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25318961.html</link>
			<pubDate>Fri, 05 Oct 2007 14:50:29 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>【城跡】　乙畑城(小幡城)</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/17/25296217/img_0?1191500891&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/17/25296217/img_1?1191500891&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/17/25296217/img_2?1191500891&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/17/25296217/img_3?1191500891&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/17/25296217/img_4?1191500891&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/17/25296217/img_5?1191500891&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/17/25296217/img_6?1191500891&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;所在地・矢板市乙畑字要害&lt;br /&gt;
形態・山城&lt;br /&gt;
築城者・塩谷三河守(弥五郎)惟純?&lt;br /&gt;
築城年・明応文亀年間(1501年)&lt;br /&gt;
廃城年・天正18年(1590年)８月30日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;歴代城主&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
塩谷兵部大夫惟朝(生年月日不詳～1563年４月７日没)&lt;br /&gt;
小幡(乙畑・塩谷)甲斐守義尾(1509年９月11日生～1559年10月没)&lt;br /&gt;
小幡(乙畑・塩谷)右近大夫義勝(生没年不詳)&lt;br /&gt;
小幡(乙畑・塩谷)孫七高升(生没年不詳)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;略年表&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;明応文亀年間(1501年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
乙畑城(小幡城)が、喜連川塩谷氏によって築城される。&lt;br /&gt;
ちなみに、時の喜連川塩谷氏当主は、&lt;br /&gt;
塩谷三河守惟純(生年月日不詳～1504年6月24日没)である。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;大永２年(1522年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
惟純の孫の塩谷兵部大夫惟朝が乙畑城に篭り、&lt;br /&gt;
４月15日の戦を始めとして、宇都宮氏、川崎塩谷氏、大宮氏、君嶋氏などと戦う。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;大永３年(1523年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
11月７日。喜連川塩谷氏は、宇都宮氏、川崎塩谷氏と和睦し、&lt;br /&gt;
小幡城は、川崎塩谷氏の出城となる。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;永禄２年(1559年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
10月。乙畑城、結城晴朝の軍勢に包囲される。&lt;br /&gt;
援軍、民衆も合わせて3000騎もが籠城するも、総大将塩谷義尾(乙畑孫四郎)が討死して落城。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;天正13年(1585年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
７月13日。那須資晴、乙畑城を攻め、&lt;br /&gt;
時の城主、小幡孫七高升は、嫡子太郎行安を人質に差し出して降伏する。&lt;br /&gt;
乙畑城は、喜連川塩谷氏に属す。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;天正18年(1590年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
８月晦日(30日)。喜連川塩谷氏改易。乙畑城も廃城となる。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乙畑城については、郷土史研究家の故土屋喜四郎氏の研究により、&lt;br /&gt;
矢板市の城の中では、その研究が大きく進んでいる。&lt;br /&gt;
資料も比較的豊富なのだが、&lt;br /&gt;
ただ、そのために矢板市史などには、&lt;br /&gt;
明らかに誤解又は間違いの記述が多く、これは正さなければならない。&lt;br /&gt;
例えば、乙畑城の研究資料としては第一級と言える塩谷義上預ヶ状だ。&lt;br /&gt;
塩谷義上とは、塩谷安房守孝信の事であり、&lt;br /&gt;
兄の義孝を殺して川崎城を奪った喜連川城主である。&lt;br /&gt;
預ヶ状は、この孝信が、乙畑城の内紛に乗じて、&lt;br /&gt;
乙畑城に援軍を送るべく、その内容を乙畑城に書き送った書状である。&lt;br /&gt;
当時の喜連川塩谷氏の戦力やその時代の事実関係を知る資料として&lt;br /&gt;
矢板市史などで、大きく引用された現存する書状なのだが、&lt;br /&gt;
この内容は、かなりデタラメである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、この書状は、天正18年(1590年)11月16日付で送られている。&lt;br /&gt;
送った相手は、時の乙畑城主小幡右近大夫義勝なのだが、&lt;br /&gt;
まず、天正13年(1585年)の時点で、乙畑城主は、&lt;br /&gt;
義勝の弟の小幡孫七高升に変わっているのに、&lt;br /&gt;
天正18年の時点で、小幡義勝か城主であるはずはない。&lt;br /&gt;
また、送った張本人である塩谷孝信だが、&lt;br /&gt;
天正14年(1586年)２月２日に没しているのだ。&lt;br /&gt;
天正18年に書状など出せようはずが無い。&lt;br /&gt;
ならば、塩谷義上は、孝信ではなく、孝信の子塩谷安房守朝孝ではとの反論があるかも知れないが、&lt;br /&gt;
そもそも、天正18年(1590年)８月晦日に喜連川塩谷氏が改易されているのに、&lt;br /&gt;
こんな書状を出せるわけが無いのである。&lt;br /&gt;
ところが、矢板市史などでは、これが歴史的資料として、&lt;br /&gt;
誤解を正さないまま掲載されている。&lt;br /&gt;
私は、この書状は、天正10年か天正８年の日付だったものが、&lt;br /&gt;
後に何らかの事由で天正18年に書き換えられたものと見ているが、&lt;br /&gt;
とにかく、矢板の郷土史を研究する人はそうはいないと思うが、&lt;br /&gt;
その初心者が、この資料に触れてしまった場合、&lt;br /&gt;
これを鵜呑みにして、矢板の歴史を誤解してしまう恐れがある。&lt;br /&gt;
これらの事は何とかしなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乙畑城は、永禄２年(1559年)に結城晴朝に攻められ落城している。&lt;br /&gt;
この時、乙畑城記によれば、総大将の乙畑(小幡)孫四郎が討死にしているが、&lt;br /&gt;
これを塩谷甲斐守義尾としているのは、&lt;br /&gt;
私の推測であるので、その点は鵜呑みにせず留意して欲しい。&lt;br /&gt;
乙畑城記には、乙畑孫四郎と乙畑信濃守の２人が登場するのだが、&lt;br /&gt;
これが誰なのか、はっきり言って分からない。&lt;br /&gt;
だが、小幡義勝と小幡高升の父である義尾が乙畑孫四郎、&lt;br /&gt;
小幡義勝、あるいは、その兄である小幡弾正が乙畑信濃守と私は見ている。&lt;br /&gt;
そう考えると、年代と系図的につじつまが合うからだ。&lt;br /&gt;
また、秋田塩谷系譜(川崎塩谷氏)を見ると、塩谷義孝と嫡子義綱の間に、&lt;br /&gt;
本来は存在しないはずの時綱、冬綱、通綱の３人の塩谷当主が存在する。&lt;br /&gt;
私は、この内、時綱が塩谷義尾であると見ている。&lt;br /&gt;
小幡孫四郎は、永禄２年に討死しているが、&lt;br /&gt;
塩谷時綱も、系図では永禄２年に没している事になっており、&lt;br /&gt;
没年が一致するからだ。&lt;br /&gt;
ちなみに塩谷義尾は、義孝の次弟であり、&lt;br /&gt;
小幡氏の養子となって乙畑城主となっている。&lt;br /&gt;
月日こそ、孫四郎が10月、時綱は３月８日と一致しないが、&lt;br /&gt;
私は、時綱、冬綱、通綱の３人は、&lt;br /&gt;
塩谷家(川崎塩谷氏)に功績のあった一族に対して、&lt;br /&gt;
諡号的に塩谷当主の名誉が追贈されて系図に加えられたものと見ており、&lt;br /&gt;
時綱は、義尾に対するそれであると考えている。&lt;br /&gt;
現に、秋田塩谷系譜には義尾の名が無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その乙畑城だが、深い藪に包まれていることを除けば、&lt;br /&gt;
主郭周辺について、遺構がよく残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;※サムネイル左から・・・&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;green&quot;&gt;＿吉城主郭東側の堀切。三つの堀切が連続して続いている。&lt;br /&gt;
　乙畑城を攻める場合、主郭に迫るには、東側から攻めるのが最短距離だが、&lt;br /&gt;
　東側は斜面が急で、尾根に達しても、深い堀切が連続して続いているため、&lt;br /&gt;
　こちらから攻めるには、かなりの犠牲を覚悟して、数で攻めるほかない。&lt;br /&gt;
⊆膤埃蠢阿遼拈擇茲蠎膤圓鮓上げる。&lt;br /&gt;
　主郭手前の堀切は、幅10m強、深さ10m弱と最も深い。&lt;br /&gt;
主郭。ここに、城主の館があったと思われる。&lt;br /&gt;
ぜ膤埓沼Δ龍蔑悄１法横堀も兼ねた二の郭と繋ぐ虎口がある。&lt;br /&gt;
　他にも曲輪や堀があって写真を撮ったが、なにせ藪が深く、&lt;br /&gt;
　撮った写真も、藪だらけで、何が何だか分からない感じになってしまった。&lt;br /&gt;
ゼ膤圓療貽醢爾砲△觀野神社。創建は、城の築城より遥かに古く、&lt;br /&gt;
　弘仁15年(824年)３月15日である。&lt;br /&gt;
　もっとも、弘仁15年は、１月５日に天長元年に改元されているので、&lt;br /&gt;
　厳密には、天長元年とする方が正しいだろう。&lt;br /&gt;
Σ吉城から少し離れたところに、馬場跡とされる乙畑小学校があるが、&lt;br /&gt;
　乙畑城築城以前から、当地には小幡氏という土豪がいたので、&lt;br /&gt;
　私は、馬場跡と考えるより、乙畑城以前の小幡氏の居館跡と考える方が良いと考えている。&lt;br /&gt;
　その詳細は、別記で説明したい。&lt;br /&gt;
Р吉城遠望。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25296217.html</link>
			<pubDate>Thu, 04 Oct 2007 21:28:11 +0900</pubDate>
			<category>栃木県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第46話　幸の輿入れ　１</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/43/25251143/img_0?1191398122&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/43/25251143/img_1?1191398122&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
那須勢との戦も終わり、山田にも一時の平穏が訪れたそんな頃、&lt;br /&gt;
辰業に新たな縁談話が持ちあがっていた。&lt;br /&gt;
菊との間に世継ぎが出来なかったため、&lt;br /&gt;
念のため側室を迎えようと新左衛門が話を進めたのである。&lt;br /&gt;
しかも、その相手は菊の妹の幸であった。&lt;br /&gt;
幸も数えで16歳になり、この時代では結婚適齢期。&lt;br /&gt;
また、幸であれば、山田筑後守家と八郎家のしきたりも守る事が出来る。&lt;br /&gt;
しかし菊は、本当の事を言わなければと思っていた。&lt;br /&gt;
自分が子を生めないのは、恵まれないからではなく、&lt;br /&gt;
まだ、辰業の寵愛を受けられていないからだと。&lt;br /&gt;
言わなければ、幸も自分と同じ不幸を背負う事になる。&lt;br /&gt;
辰業は、その話を知って、すぐに新左に対してこれを断ったが、&lt;br /&gt;
菊も、この縁談に反対した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　菊&lt;b&gt;「父上、幸の縁談は待ってもらえませんか。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
新左&lt;b&gt;「お前の気持ちは分かるが、子が出来ぬ以上仕方あるまい。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　菊&lt;b&gt;「しかし・・・」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
新左&lt;b&gt;「しかし、なんじゃ?」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　菊&lt;b&gt;「いえ・・・」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菊はなかなか言い出せなかった。&lt;br /&gt;
自分が、辰業の寵愛を受けられていない事を。&lt;br /&gt;
言えば、この恥をさらす事になる。&lt;br /&gt;
それは、自分の恥でもあるが、&lt;br /&gt;
夫辰業の恥でもあり、山田家の恥でもある。&lt;br /&gt;
そんな事を言えようはずがなかった。&lt;br /&gt;
しかし、言わなければ幸が不幸になる。&lt;br /&gt;
菊は、土壇場になっても本当の事が言えずにいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、そんな葛藤に苦しんでいたのは菊だけではなかった。&lt;br /&gt;
辰業もである。&lt;br /&gt;
菊を女として愛してやれぬというのに、&lt;br /&gt;
その妹の幸では、ますます情を傾けられない。&lt;br /&gt;
女として魅力が無いわけではない。愛せないわけではない。&lt;br /&gt;
しかし、辰業には親友の娘であり、&lt;br /&gt;
自分の娘のような存在という一種のわだかまりを未だ払拭出来ずにいたのである。&lt;br /&gt;
そんな自分に幸を嫁がせても、幸が不幸になるだけ。&lt;br /&gt;
辰業も、何らかの形で言わなければと思っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな折、辰業は、新たな任を義綱より受けた。&lt;br /&gt;
それは、玉生城代であった。&lt;br /&gt;
玉生城は、川崎城より西にある城で、西の日光勢に対する備えであり、&lt;br /&gt;
那須勢と戦う時は、その援軍となる拠点であった。&lt;br /&gt;
建長６年(1254年)、藤姓塩谷家初代朝業の孫で、&lt;br /&gt;
宇都宮泰綱の養子となった忠綱の三男の塩谷五郎左衛門尉忠景(忠昌)が、&lt;br /&gt;
玉生源左衛門勝家の養子となり玉生家を継ぎ、玉生城を築いたのが玉生家の始まりで、&lt;br /&gt;
後に玉生家は、その居城を岡本城や常陸笠間城などに移すが、&lt;br /&gt;
以来、玉生城は、実質的には塩谷氏の支城としてその役割を果たしている。&lt;br /&gt;
その玉生城の城代に辰業は任命されたのだった。&lt;br /&gt;
しかし、期間は1ヶ月程度だった。&lt;br /&gt;
実は、この頃、塩谷領の各城では、&lt;br /&gt;
近年争いに激しさを増している那須勢や日光勢などとの戦いに備えて改築事業が行われていたが、&lt;br /&gt;
玉生城もその対象で、義綱は、その費用を辰業に出させるために一時城代にしたのだった。&lt;br /&gt;
辰業も、山田城の修繕に追われていたが、&lt;br /&gt;
玉生城の城代に任じられては、この改築費用も拠出しなければならない。&lt;br /&gt;
まさに踏んだり蹴ったりであったが、&lt;br /&gt;
薄葉・平沢の戦いの時同様、どうする事も出来なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで辰業は、玉生城に向かう事になったが、&lt;br /&gt;
これに菊だけでなく、新左は、幸も同行させようとした。&lt;br /&gt;
これに辰業は一瞬ためらったが、ふと、良い機会だと思い直した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;(新左がいない方が、幸を説得しやすい・・・)&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そう思ったのである。&lt;br /&gt;
幸い、玉生城は、後詰めの城であり、&lt;br /&gt;
最前線の城ではないため戦になる危険はほとんどない。&lt;br /&gt;
そこで辰業は、菊だけでなく、幸も玉生城に連れて行く事にしたのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;※サムネイル左から・・・&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;green&quot;&gt;ゞ明絃誑。このあたりを根古屋と言い、玉生城の館があった。&lt;br /&gt;
玉生城の要害。戦国期に移行するに伴い、城は山へと拡大し、&lt;br /&gt;
　戦の時は、山側に篭り戦ったと思われるが、&lt;br /&gt;
　具体的な玉生城での戦の記録は残っていない。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25251143.html</link>
			<pubDate>Wed, 03 Oct 2007 16:55:22 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>第45話　薄葉・平沢の戦い</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/21/25176221/img_0?1191223751&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/21/25176221/img_1?1191223751&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/21/25176221/img_2?1191223751&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/21/25176221/img_3?1191223751&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/21/25176221/img_4?1191223751&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
泥をかぶれとは・・・&lt;br /&gt;
いかにそういう思いがあろうと、それを露骨に口にしてくるとは・・・&lt;br /&gt;
辰業にとって、これほどの屈辱は無かった。&lt;br /&gt;
まるで、自分などいてもいなくても良い捨て駒。&lt;br /&gt;
そう言われたも同じ思いであった。&lt;br /&gt;
しかし、今、辰業に味方する者は１人もいなかった。&lt;br /&gt;
山田家は、宇都宮家から来た名門、塩谷家臣団の筆頭格・・・&lt;br /&gt;
そんな権威だけは残っていたが、人がついてこなければ何の意味も無かった。&lt;br /&gt;
辰業は、そんな屈辱的で理不尽な命に従わなければならなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正12年(1584年)８月初め。北条氏との戦いで、比較的損害の少なかった塩谷勢は、&lt;br /&gt;
北条氏との講和が成立した翌月に、那須領薄葉・平沢に侵攻した。&lt;br /&gt;
その先手となったのが、辰業率いる山田勢であった。&lt;br /&gt;
薄葉・平沢は、塩谷領と那須領の境に近い土地であり、肥沃で豊かであったが、&lt;br /&gt;
辰業は、義綱の命に従い、その青稲を刈って馬草にし、残りの田畑を焼き払った。&lt;br /&gt;
世は戦国、こうした行為は、戦では度々行われていたが、&lt;br /&gt;
こうした行為が非道である事は、この時代においても変わりなかった。&lt;br /&gt;
収穫間近の田畑の恵みを奪い焼き払ってしまったのだ。&lt;br /&gt;
焼き払われてしまった民は、今後１年、どうやって生きていけばよいのだろうか?&lt;br /&gt;
そういう事をしてしまったのである。&lt;br /&gt;
辰業とて、こんな事はしたくはなかった。&lt;br /&gt;
辰業に従う山田の兵士たちにとっても同じであった。&lt;br /&gt;
しかし、主命は絶対。しかも、塩谷家臣内で力を失っている今は、どうする事も出来なかった。&lt;br /&gt;
そして、命に従い、男を見つければ殺し、&lt;br /&gt;
女子供を見つければ、さらって義綱に献上した。&lt;br /&gt;
ただ、多くの民は、戦を早くに察知し逃げていたので、&lt;br /&gt;
その犠牲は、ほとんどなかったと言ってよかった。&lt;br /&gt;
辰業にしてみれば、それは不幸中の幸いであった。&lt;br /&gt;
いかに主命とは言っても、いないものを殺したりさらったりする事は出来ない。&lt;br /&gt;
だが、そうした事は１回では終わらなかった。&lt;br /&gt;
義綱は、それを何度も繰り返すように辰業に命じたのである。&lt;br /&gt;
そして山田勢は、その翌日も薄葉・平沢の田畑や家屋敷を焼き払った。&lt;br /&gt;
これに対し、那須勢も動いた。&lt;br /&gt;
薄葉・平沢の那須方の土豪渡辺主水は、&lt;br /&gt;
８月18日、早馬を佐久山に走らせ援軍を求めた。&lt;br /&gt;
時の佐久山城主は福原安芸守資孝。大田原資清の次男で、&lt;br /&gt;
那須の名門福原家の養子となり家督を継いでいた。&lt;br /&gt;
ちなみに、この資孝の伯父は、塩谷家菩提寺長興寺の住職であった麟道和尚である。&lt;br /&gt;
資孝は、塩谷勢来襲の報を受けると、嫡子中務資広を呼び寄せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
資孝&lt;b&gt;「今、塩谷勢襲来の一報があった。&lt;br /&gt;
　　　お主は、直ちに馳せ向かい、塩谷勢を蹴散らすのじゃ。&lt;br /&gt;
　　　わしも、軍勢を整え次第出陣する。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
資広&lt;b&gt;「かしこまりそうろう!」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
資広は、真っ先に戦支度を整えると出陣。これに一族の福原采女、福原左馬が続いた。&lt;br /&gt;
それに渡辺主水が合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主水&lt;b&gt;「資広様、まずは、我が陣屋にお入りくだされ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
資広&lt;b&gt;「いや、それには及ばぬ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんなやりとりのところへ、13騎ほどの塩谷勢が資広を見つけた。&lt;br /&gt;
しかし、塩谷勢が襲いかかろうとしても資広たちが動じなかったため、&lt;br /&gt;
あるいは伏兵がいるのかも知れないと深読みし、&lt;br /&gt;
塩谷の将は、味方に連絡して援軍を待った。&lt;br /&gt;
すると、那須方の援軍に、角田和泉、斉藤主膳、荒井主水など７騎が馳せ参じ、&lt;br /&gt;
さらに、資広の父資孝が、佐久山の軍勢を引きつれ援軍に駆けつけた。&lt;br /&gt;
これを見て塩谷勢は、鬨(とき)の声をあげたが、義綱は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;「ここはいったん兵を退き、軍勢を建て直した上で、改めて戦うべし」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・として、塩谷勢に退却を命じた。&lt;br /&gt;
すると、これを見た資広は言った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;「敵は逃げるぞ。追い討ちをかけよ!!」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして攻め太鼓を打ち、ほら貝を吹いて追い討ちをかけた。&lt;br /&gt;
しかし、これを資孝が諌めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
資孝&lt;b&gt;「こちらは、軍勢が少ないのじゃ。先鋒を蹴散らして追っても、&lt;br /&gt;
　　　その奥に塩谷勢の主力が控えておる事を忘れるな。&lt;br /&gt;
　　　ここは、深追いは危険じゃ。わしらも兵を退こう。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
資広&lt;b&gt;「はは。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして那須方も兵を退き、戦は、そのまま終結した。&lt;br /&gt;
山田勢は、味方の損害少なく引き上げることが出来たが、&lt;br /&gt;
この戦は、那須の人々に深い遺恨を残した。&lt;br /&gt;
特に、山田辰業と山田の人々は、田畑家屋敷を無残に焼き払った張本人として、&lt;br /&gt;
特に深く恨まれる事になったのである。&lt;br /&gt;
そして、この事が、後に山田に最悪の悲劇をもたらす事になるのだった・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;※サムネイル左から・・・&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;green&quot;&gt;仝什澆稜嫦篭莟麕勝&lt;br /&gt;
薄葉の温泉神社。&lt;br /&gt;
推定樹齢800年以上の大杉の切り株。明治25年(1892年)６月の雷火で焼失。&lt;br /&gt;
　この杉が健在の頃には、塩谷と那須の戦も何度と無く見てきただろう。&lt;br /&gt;
　幾千幾万の人の生き死にの様までも・・・&lt;br /&gt;
だ睫製颪の看板。&lt;br /&gt;
ナ紳瑤慮唄柯婉瓠&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25176221.html</link>
			<pubDate>Mon, 01 Oct 2007 16:29:11 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
		</item>
		<item>
			<title>【城跡・社跡】　藤倉山城(大槻城)</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/50/25173650/img_0?1191217662&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/50/25173650/img_1?1191217662&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/50/25173650/img_2?1191217662&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/50/25173650/img_3?1191217662&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/50/25173650/img_4?1191217662&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/50/25173650/img_5?1191217662&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/50/25173650/img_6?1191217662&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;所在地・矢板市字大槻藤倉山&lt;br /&gt;
形態・山城&lt;br /&gt;
築城者・小幡孫四郎?&lt;br /&gt;
築城年・永禄２年(1559年)?&lt;br /&gt;
廃城年・永禄２年(1559年)又は天正18年(1590年)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;歴代城主&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
大槻主膳(生没年不詳)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;略年表&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;永禄２年(1559年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
10月、結城晴朝の乙畑城(小幡城)侵攻に伴い、陣城として築城されたと推定される。&lt;br /&gt;
戦が終わると共に廃城になった可能性が大きい。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;天正18年(1590年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
結城氏による乙畑城攻めの後も、見張り台、狼煙代などとして利用され、&lt;br /&gt;
大槻を支配していた喜連川塩谷氏の改易と共に廃城になった可能性もある。&lt;br /&gt;
その後、明治２年(1869年)まで、日枝神社が置かれていた。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
矢板市の遺跡地図に藤倉山城跡が紹介されている。&lt;br /&gt;
当地に赴くと、藤倉山の山頂に、北側に堀切、東西に横堀、南を崖とする&lt;br /&gt;
小さな単郭の曲輪跡があった。&lt;br /&gt;
城跡と言っても、小さな館をやっとひとつ建てられる程度の広さで、&lt;br /&gt;
見張り台や狼煙台などとして利用されたであろうと想像させる。&lt;br /&gt;
ただ、曲輪内は、概ね平らなものの、未整地と言ってよい。&lt;br /&gt;
そんな状況から推察して、当地は、結城晴朝が乙畑城を包囲した際、&lt;br /&gt;
乙畑城側によって築かれた陣城であると思われる。&lt;br /&gt;
この攻防戦では、乙畑城は、城と周辺の山々に、&lt;br /&gt;
兵だけでなく住民も集めて3000余騎も籠城させたにも関わらず、&lt;br /&gt;
総大将小幡(乙畑)孫四郎の討死によって落城している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藤倉山城は、戦が終わると共に廃城となったと思われるが、&lt;br /&gt;
宇都宮家の家臣の記録によれば、大槻主膳の名が見え、&lt;br /&gt;
大槻に大槻氏という土豪がいた可能性があり、&lt;br /&gt;
その土豪が、戦の後も当城を見張り台などとして利用していた可能性がある。&lt;br /&gt;
しかしその場合でも、天正18年(1590年)、大槻を支配していた喜連川塩谷氏が&lt;br /&gt;
豊臣秀吉に改易されると共に、城も廃されたと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;※サムネイル左から・・・&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;green&quot;&gt;‘Ａ匯馨訶貘Δ硫Ｋ戞&lt;br /&gt;
藤倉山城北側の堀切。&lt;br /&gt;
ＦＡ匯馨訐沼Δ硫Ｋ戞&lt;br /&gt;
てＡ匯馨觴膤圈&lt;br /&gt;
テＡ匯馨襪力爾砲△詁淇声辧&lt;br /&gt;
　明治２年(1869年)までは、藤倉山城の主郭内にあった。&lt;br /&gt;
　この場所も曲輪のようになっているので、&lt;br /&gt;
　あるいは、大槻一族の館もこの辺にあったものかも知れない。&lt;br /&gt;
神社の傍らに数基の五輪塔の残骸があった。&lt;br /&gt;
　おそらく、結城勢との戦いで討死した者を供養するものだろう。&lt;br /&gt;
藤倉山城全景。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25173650.html</link>
			<pubDate>Mon, 01 Oct 2007 14:47:42 +0900</pubDate>
			<category>栃木県</category>
		</item>
		<item>
			<title>【城跡】　岡城</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/69/25141269/img_0?1191137595&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/69/25141269/img_1?1191137595&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/69/25141269/img_2?1191137595&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/1001310/69/25141269/img_3?1191137595&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;所在地・片岡字城山&lt;br /&gt;
形態・山城&lt;br /&gt;
築城者・岡四郎兼春&lt;br /&gt;
築城年・平安末期&lt;br /&gt;
廃城年・文禄４年(1595年)２月８日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;歴代城主&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
岡四郎兼春(生没年不詳・平安末期～鎌倉初期)&lt;br /&gt;
岡民部兼貞(生没年不詳・戦国末期)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;blue&quot;&gt;略年表&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;平安末期&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
堀江氏(源姓塩谷氏)家臣岡四郎兼春によって、鳴神山に築城される。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;天正13年(1585年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
７月13日夜巳の刻。那須勢による小幡城(乙畑城)攻めの際、&lt;br /&gt;
岡城が援軍に出るも、小幡城落城。&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;red&quot;&gt;文禄４年(1595年)&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
２月８日。主君の塩谷氏の改易と共に廃城となる。&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岡城の素性ははっきりしている。&lt;br /&gt;
源姓塩谷氏の堀江氏家臣岡四郎兼春が平安末期に築城して当地の土豪となって以来、&lt;br /&gt;
代々、岡氏の居城となっていた。&lt;br /&gt;
城は、鳴神山、通称城山(しろやま・じょうやま・どうやま)と呼ばれる&lt;br /&gt;
山というよりは、小高い岡の上に築かれ、&lt;br /&gt;
塩谷氏の居城である川崎城から東南方向に伸びる尾根の東端にあり、&lt;br /&gt;
川崎城の東にある喜連川塩谷氏の居城である&lt;br /&gt;
倉ヶ崎城(喜連川城・大倉ヶ崎城)との中間に川崎城を守るように位置する。&lt;br /&gt;
矢板市史では、城というより砦のようなものとしているが、&lt;br /&gt;
岡城は、典型的な土豪の城であり、規模もその程度である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岡城のある片岡の地は、古くから栄えた地で、&lt;br /&gt;
奈良時代においては「塩谷郡片岡郷五十戸」が東大寺領となっていた。&lt;br /&gt;
岡城が築かれた鳴神山には、古墳時代の集落跡や糠塚古墳群があり、&lt;br /&gt;
岡氏の支配の始まる以前から城山は、&lt;br /&gt;
当地の支配者の拠点であったと考えられる。&lt;br /&gt;
その支配者が、岡氏の前身であった可能性も高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岡氏は、古文書などの資料によっては、&lt;br /&gt;
「前岡氏」や「岡山氏」などと記されている事がある。&lt;br /&gt;
これは、岡村(片岡)が、地域として前岡・後岡と分かれているためで、&lt;br /&gt;
岡氏が前岡氏と呼ばれるのは、そちらの地域の出自によるものなのだろう。&lt;br /&gt;
ちなみに「岡山氏」というのは、那須記に登場するものだが、&lt;br /&gt;
完全な誤記であろうと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
城郭は、典型的な連郭式で、東から腰曲輪、主郭、二の郭・・・と続く。&lt;br /&gt;
城の南側を西から東に流れる江川を天然の水堀とし、&lt;br /&gt;
現存はしていないが、東側にあった空堀には、城山の下を抜ける地下道もあったと言われる。&lt;br /&gt;
岡城は、そこで敵を食い止めるというよりは、&lt;br /&gt;
敵の侵攻などを連絡中継し、出撃した味方の軍勢の拠点となり、&lt;br /&gt;
攻められた時は、一時的に食い止め、時間稼ぎをする程度の城であったと見てよい。&lt;br /&gt;
記録には無いが、那須勢などの外敵に攻められて落城した事も度々あっただろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
城主として名前が確認出来るのは、築城者の岡四郎兼春と&lt;br /&gt;
最後の城主であったと思われる岡民部兼貞(兼定)のみである。&lt;br /&gt;
それ以外の歴代城主などの記録は確認出来ず、&lt;br /&gt;
また、その詳細な歴史も不詳である。&lt;br /&gt;
現在、主郭東側の腰曲輪跡は、城山霊園という墓地になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;※サムネイル左から・・・&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;green&quot;&gt;＿城主郭跡。&lt;br /&gt;
⊆膤堙貘Δ旅蔑悄&lt;br /&gt;
　余談だが、最近、専門家とか呼ばれる人でも、腰曲輪と帯曲輪の区別が出来ない人がいる。&lt;br /&gt;
　天守閣も石垣もある公園として整備も行き届いた某城跡に行ったが、&lt;br /&gt;
　明らかに腰曲輪であるのに、帯曲輪と説明されていて驚いた。&lt;br /&gt;
　私も他人の事を言えるほど知識があるわけではないが、&lt;br /&gt;
　初心者レベルでも分かるような事を公に間違えているのに、&lt;br /&gt;
　それに気付かないとは、いったいどういう人が城の説明を構成したのだろうか?&lt;br /&gt;
　専門家のいう事でも鵜呑みには出来ない・・・そう思う出来事だった。&lt;br /&gt;
城山霊園の看板。このあたりに、地下道の入り口があったと言われるが・・・&lt;br /&gt;
げ城全景。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/25141269.html</link>
			<pubDate>Sun, 30 Sep 2007 16:33:15 +0900</pubDate>
			<category>栃木県</category>
		</item>
		<item>
			<title>第44話　佐野沼尻の戦い</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_0?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_1?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_2?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_3?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_4?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_5?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_6?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_7?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-07-e6/yaita1976/folder/990686/79/24932279/img_8?1190634444&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
天正12年(1584年)４月、北条５代目北条氏直が&lt;br /&gt;
１万5000騎の兵力を率いて北関東に進出してきた。&lt;br /&gt;
これに対し、常陸の雄佐竹義重が、約5000騎の兵を率いて出陣。&lt;br /&gt;
佐野表藤岡の地、岩舟山の麓にて両軍が対峙した。&lt;br /&gt;
この戦には、北関東の諸将が参陣し、&lt;br /&gt;
宇都宮勢は、佐竹側に立って北条軍と対峙した。&lt;br /&gt;
その宇都宮勢の中には、塩谷勢も200騎ほど加わり塩谷義綱がこれを率いていたが、&lt;br /&gt;
山田勢や岡本勢は、対那須に備えるために留守を預かっていた。&lt;br /&gt;
それは、勝てば大きい武勲があるであろう北条勢との戦いで、&lt;br /&gt;
両勢に武勲を挙げさせないための画策であった。&lt;br /&gt;
ただ、正親から岡本家を預かった氏宗や辰業にとってみれば、&lt;br /&gt;
大きい武勲が期待出来ても、勝っても負けても犠牲が大きいであろう北条氏との戦いに、&lt;br /&gt;
自らの領民たちを巻き添えにせずに済んだ事を喜んでいた。&lt;br /&gt;
実際、戦いは長期化し、結果的には、両軍共に犠牲の大きな戦いとなった。&lt;br /&gt;
中でも、最大の激戦となったのが、佐野沼尻合戦である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北条軍の主力が、上野の館林城に入り、その先鋒隊は越名沼に布陣していた。&lt;br /&gt;
これに対し宇都宮の援軍を従えた佐竹勢は、この先鋒隊に対して戦を仕掛けたのである。&lt;br /&gt;
天正12年(1584年)５月７日の事であった。&lt;br /&gt;
戦は、佐竹勢が北条軍に急襲する形で始まり優勢になったが、&lt;br /&gt;
北条軍の主力が館林城から出てくると、佐竹勢は退き始め、&lt;br /&gt;
結果的には、両軍痛みわけで、佐竹勢が兵を退く形で戦は終結した。&lt;br /&gt;
戦は、数時間で終わったが、&lt;br /&gt;
この戦で、岡本正親と清四郎、清九郎の親子は、&lt;br /&gt;
皆川勢として佐竹側に参陣していたが、&lt;br /&gt;
清四郎と清九郎の２人は、この戦で討死してしまったのだった。&lt;br /&gt;
正親は、２人の嫡子をいっぺんに失い、２人の死を嘆き悲しんだ。&lt;br /&gt;
そのあまり、２人の亡骸を当地の名刹大中寺に葬ると、&lt;br /&gt;
自らもその寺で、梅屋と称して出家してしまったのである。&lt;br /&gt;
そして、皆川家を去り、高野山へと諸国巡礼の旅へと旅立ってしまったのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、佐竹・宇都宮勢と北条軍との戦いは７月まで続いた。&lt;br /&gt;
しかし、こう着状態となったため、北条側から講和が持ちかけられ、この戦は終結したのだった。&lt;br /&gt;
義綱も、３ヶ月も経てようやく川崎城への帰る事が出来た。&lt;br /&gt;
だが義綱は、長期の戦で精神的に疲弊するどころか、すでに次の事を考えていた。&lt;br /&gt;
北条軍との和議が成立し、しばらく南からの圧迫が無くなったので、&lt;br /&gt;
これを機に那須に攻め入り、その力を殺ぎ、あわよくば領地を得ようと画策したのである。&lt;br /&gt;
すると義綱は、川崎城に帰ってすぐ、城に辰業を呼び出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義綱&lt;b&gt;「これより、那須攻めにかかる。&lt;br /&gt;
　　　そちは、ただちに戦支度を整え、先鋒を務めよ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「し、しかし、戦が終わったばかりで、兵も疲弊しておりますゆえ・・・」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
義綱&lt;b&gt;「そちの手勢は無傷であろうが。直ちに支度せい!」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「は、はは・・・」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辰業は、山田城に戻ると、直ちに兵を招集し50騎ばかりを整えた。&lt;br /&gt;
すると義綱は、辰業にこう命じたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義綱&lt;b&gt;「直ちに那須領に攻め入り、村を焼いてくるのだ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「む、村をでございまするか?」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
義綱&lt;b&gt;「そうじゃ。徹底的に焼け。男は殺し、女を奪い、&lt;br /&gt;
　　　田の稲は刈って奪った上で焼き、それを繰り返すのじゃ。&lt;br /&gt;
　　　そうすれば、那須の力は大きくそがれようぞ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「お、お待ち下さい。そのような事をすれば、&lt;br /&gt;
　　　いずれ那須の地が御館様のものになっても、民から恨まれましょうぞ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
義綱&lt;b&gt;「じゃから、お主が泥をかぶるのじゃ。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「な、なんと・・・」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
義綱&lt;b&gt;「主君のために泥をかぶるのが家臣ではないか。&lt;br /&gt;
　　　それに、そのような事、那須勢も我が塩谷に対してしておるではないか。」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「しかし・・・」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
義綱&lt;b&gt;「主命に従うのか従わぬのか?　どちらだ?」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
辰業&lt;b&gt;「・・・・」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そう言いつめられた辰業は、&lt;br /&gt;
理不尽と思いながらも、それに従うしかなかったのであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;※サムネイル左から・・・&lt;br /&gt;
&lt;font color=&quot;green&quot;&gt;∥臺浸蛎臙羯瞭蠍&lt;br /&gt;
大中寺入り口その２。&lt;br /&gt;
Ｂ臙羯陵獲莉颪。&lt;br /&gt;
ぢ臙羯殻膠麕勝Ｄ垢せ夏擦鯏个辰討い。&lt;br /&gt;
ヂ臙羯榮押&lt;br /&gt;
β臙羯鯊綵賛Δ諒莉蝓&lt;br /&gt;
Гとら様の墓。大中寺の墓所にこんなものがあった。&lt;br /&gt;
　ちなみに、清四郎と清九郎の墓は、後に故郷に２人のための寺である鏡山寺が創建されたため、&lt;br /&gt;
　すでに大中寺には残っていない。ただ、この墓所で土に返った事は確かである。&lt;br /&gt;
┐とら様の墓の由来書き。戦国時代の女といえば、自分の家の家系図でも、&lt;br /&gt;
　「女」と記され、名前が残らないのが普通なのであるが、&lt;br /&gt;
　このように、女の維持、そして誇りを守るために、&lt;br /&gt;
　名を残していった強い女たちもいたのである。&lt;br /&gt;
佐野沼尻の戦いの古戦場。ここには昔越名沼(こえなぬま)という沼があったため、&lt;br /&gt;
　越名沼の戦いなどとも呼ばれる。&lt;br /&gt;
　しかし沼は、地元の方の話によると、干拓により埋められてしまったらしい。&lt;/font&gt;&lt;/b&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yaita1976/24932279.html</link>
			<pubDate>Mon, 24 Sep 2007 20:47:24 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
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