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ある日本人使用人がチャップリンを大の親日家にした
日本人として当たり前の気配りや思いやりですが、外国の人から見れば新鮮にうつります。日本人の美徳は世界に誇れるもの、この人物を最近知りました。いま資料を集めています。
 
 
 
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使用人 高野 虎市(18851971
チャールズ・チャップリンは大の親日家だった。1916年に運転手として、アメリカに移住していた高野 虎市を採用した。仕事熱心な高野は、運転のみならず経理、護衛、秘書など様々な仕事をこなし、やがて「撮影所の支配人」とまで呼ばれるようになった。高野の献身的で真面目な仕事ぶりに感銘を受けた
チャールズは次々と日本人を雇い、1926年頃には使用人は全員日本人になっていた。「喜劇王」と呼ばれたチャールズ・チャップリン(18891977)の秘書を18年間も務めた。1900年に日本(広島県)から移民として渡米していた高野は、1916(大正5)年に運転手を募集していたチャールズに採用された。高野は運転だけでなく、経理や秘書など様々な役割を器用にこなした。
チャールズは自身の著書『チャーリー・チャップリン世界漫遊記』に、「高野は何でもする。看護夫、乳母、侍者、秘書、護衛、何でもした。彼は日本人で、私のためには何でも屋だった」と記している。チャールズは、ラフカディオ・ハーンの『怪談』によって日本に興味を持っていたが、熱心に働く高野に出会ったことで、ますます親日家となっていった。高野の働きぶりに感激したチャールズは、使用人を次々と日本人に変え、最も多い時は17人の使用人すべてが日本人だった。高野はチャールズの遺書の中で相続人の一人に選ばれるほど絶大な信頼を得た。高野はチャールズから撮影所内に5つの寝室つきの邸宅までプレゼントされていた。高野に長男が誕生すると、チャールズは自ら名付けの親となって、チャールズのミドルネーム「スペンサー」を与えて、高野スペンサーと命名するほど、高野に親しみを感じていた。やがて、高野は「撮影所の支配人」とまで呼ばれる存在になった。高野は、1916年から1934年までの18年間、チャールズを公私ともに支え続けた。この間、チャールズは『犬の生活』、『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』、『街の灯』などの傑作を生み出した。高野は『チャップリンの冒険』(1917年)で、運転手役で出演もしている。
チャールズは生涯で4回来日したが、1932(昭和7)年に来日した時、日本訪問をしたきっかけについて、次のように答えている。
「日本人はみんな親切で正直だ。何をやるにつけ、信用ができる。そのため自然と日本人が好きになった。こんな人たちを作り出している日本という国は、一体どんな国だろう?一度行ってみたいものだと思い始めた」
チャールズチャップリンは大歓迎を受けた。翌日に五・一五事件(犬養毅首相が海軍の青年将校に暗殺された)が起きた。「世界的に有名なチャップリンを殺せば、アメリカと戦争できる」と考えた青年将校によって、チャップリン暗殺計画も練られていた。チャールズの訪日の前に日本へ渡った高野は、「最近の日本は物騒」「来日したら東京でまず宮城(皇居)に行くように」等、元陸軍少将の作家・櫻井忠温から指示を得て、チャールズが無事に日本を見学できるよう、スケジュールを綿密に立てていた。
神戸港に着いたチャールズは、京都や大阪をとばして東京に直行した。その夜、車に乗ってホテルへ行く前に、皇居前に立ち寄った。高野は「車から降りて皇居を拝んでください」とチャールズにお願いすると、チャールズは腑に落ちないながらも、車から降りて皇居に向かって一礼した。
この「一礼」は当時、新聞などで大きく報じられたので、チャールズの命を狙う者たちの心証を良くした可能性がある。高野はチャールズの命を守るために機転を利かせて、皇居前で一礼をさせたのだった。
日米親善のために515日に犬養首相とチャールズの会談が予定されていたが、チャールズが「相撲が見たい」と言い出して会談をキャンセルしたため、チャールズは難を逃れた。日本滞在中、日本の伝統文化に興味のあったチャールズは、歌舞伎や鵜飼、相撲を鑑賞した。銀座の「花長」では天ぷらが気に入って、海老の天ぷらを36本も食べた。「花長」で修行した調理師が乗船しているという理由で、帰りの船を氷川丸に決めたほど、天ぷらが大好きになった。
後日、彼は「日本のように美しい国はない。鵜飼というのは何だか知っていますか。あんな素晴らしいものは、世界中どこに行ったってありませんね。それにあの天ぷらのうまさ!日本はなんでも素晴らしい。あの歌舞伎の美しさ。あれだけの広い舞台を使いこなせるのは日本だけです。あんな素晴らしい国はな い」と妻に語っている。また、チャールズが使った有名なステッキも日本製だった。彼はしなりの良い滋賀県産のステッキが気に入り、生涯、日本から取り寄せていた。1934(昭和9)年、高野はチャールズに解雇され、彼の元を去った。チャールズの妻、ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムス』等に出演した女優)の浪費癖を高野が注意したことが原因といわれている。高野を解雇したことを後悔したチャールズは、その後何度か高野のところを訪れて、戻ってきてほしそうな様子を見せたが、高野が彼の元に戻ることなかった。その後、日本(広島県)へ帰国した高野は、1971(昭和46)年に86歳で死去した。高野の訃報を聞いたチャールズの衝撃を、チャールズの娘、ジョゼフィン・チャップリンはこう語っている。
「父(チャールズ)は晩年まで彼(高野)のことを忘れていませんでした。彼が亡くなったと聞いて、父は悲しみにくれていました。父の親友でしたからね。いつも傍らにいてくれたとてもいい友人が、ある日突然、別世界へ行ってしまった。そんな感じだったようです」

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