好村兼一著「影と胡蝶」出版記念1

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 中世の香取神宮と神仏習合
 
1、宮本武蔵や遥か時代の飯篠長威斎について
 
一、現千葉県多古町飯笹の江戸時代郷士だったと伝えられている飯塚宇兵衛(現金兵衛家)の次、三男坊が香取社近くへ出奔した、とする説。二、中世、現在の多古町一帯は千田 ( ちだの ) ( しょう )と呼ばれた下総国有数の荘園で、『飯篠』一帯の地を領地とした、豪族千葉氏の一族飯篠氏を祖とする説。三、香取神宮・検非違使田所 ( たどころ )家の庶流飯篠氏が香取神宮大禰宜支配の『海夫』を ( たば )ねて、『海夫』達に基礎的教練を施した事に由来する、とする説の三説があると思われるが『海夫』について間違った説明に×を記せ。
 
(イ) 中世、五島列島において、『海夫』は領主に「人身的」に隷属し、相続の対象でもあった。
(ロ) 中世香取社の飯篠氏に随行し、江戸湾などで諸関の関銭の徴収等を行った。
(ハ) 香取神宮の参詣人等に剣術等を教え、剣術道場を鹿島神宮へも造設し、東国随一の道場として賑わった。
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天文七年飯篠修理亮吉定の新當流允可状に描かれている「香取の海夫」
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愛洲三郎殿允可状(新當流免之状)
 
2、今に伝わる天文七年飯篠修理亮吉定の愛洲三郎殿への允可状で間違った記述に×を記しなさい。
 
(イ) 宮本武蔵が「五輪書・水の巻」で「嫌ふ足」として「飛足、浮足、ふみすゆる足」は描かれていない。
(ロ) 愛洲三郎殿への允可状の文言は、師匠が弟子へ允可を授与する一般的な表現ではなく、師匠より身分が高い方へ允可状を贈呈する様な、敬意を払ったような文言になっている。
(ハ) 「愛洲三郎殿への允可状」では允可後、どなた様でも御所望の方には、新當流を教えて頂いて結構ですとあり、新當流が秘術であるとの観念は毛頭ない。
 
3、天文七年愛洲三郎殿への新當流允可状には後に〈新〉が〈神〉に、〈當〉が〈道〉に「神道流」と流名が変わっていません。(明治八年の香取社神幸祭では香取神刀流と称している。)何故流名が神道流と変わったか正しい記述に○を記しなさい。
 
(イ) 江戸時代の香取社は神宮寺金剛寶寺別当の支配下にあり神仏習合はその ( きわ )みに達した。
 
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香取神宮・神幸祭図(千葉県立中央博物館平成五年度特別展)  
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神仏習合で寺僧が神輿を担ぐようになった。
(ロ) 神道では死の「穢れ」を極端に忌避した為、罪人の処刑等は令外 ( りょうげ )の官としての検非違使の手下であった元罪人の「放免」等が執行した。神道では私的な闘争の具でしかない兵法、刀法等に「神の名」を冠する事等はタブーであり、神号を掲げる事が出来るのは国難や朝敵を征伐する際に限られていた。
(ハ) 中世東国の香取社・鹿島社は「穢」の観念は非常に希薄であった。それ故松本備前守政信の様な武士でも神官に登用されていた。
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錦旗 永青文庫 伝細川頼有拝領 
(ロ)に関する資料
 
 4、松本備前守政信が「新當流の二祖」としての伝書が、「茨城県真壁町史料中世編Ⅲ」に桜井啓史家文書として掲載されている。正しくない記述に×を記しなさい。
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新當流・魔の太刀桜井啓史家文書(茨城県真壁町資料中世編Ⅲ)
 
(イ) 永禄二年九月吉日の新當流伝書奥書は、流祖・飯篠長威入道。二祖・松本備前守政信。三祖・同右馬允幹康。四祖・小神野越前守幹通。五祖・同播磨守定勝。六祖・真壁右衛門佐久幹。七祖に桜井霞之助の父、桜井大隅守吉勝と記されている。しかし寛永元年三月十七日の伝書奥書には三祖松本右馬允幹康。六祖真壁右衛門佐久幹は削除され四祖小神野播磨守定勝から桜井大隅守吉勝への伝系図になっている。
(ロ) 桜井啓史家文書で唯一松本備前守政信が二祖でない十三号文書で、『飯篠長威入道―子息若狭守盛近―同修理亮盛信―江木戸治部少輔真継―桜井大炊助吉勝』との伝系図は、千葉県立中央博物館平成五年度特別展(香取の海)での出展品「香取神道流伝書」に飯篠長威入道―松本備前守政信―有馬大和守幹信―松本伊賀守時郎―石井重右□□□□□があるが何れも作者不詳・日付が無しである。史料的価値は?
 (ハ) 宮本武蔵が五輪書・地の巻で『常陸国かしま・かんとり(香取)の社人共、明神の伝えとして流をたて、国々を廻り、人につたゆる事近き頃の儀也。』と記して今寛永二十年としている。桜井啓史家文書での新當流伝系の改竄 ( かいざん )は奇しくも寛永年間に始まっており、応しく宮本武蔵の記述と符合している。
 
5、石垣安造師著「直心影流極意伝開」で鹿島神伝直心影流の流祖の杉本備前守政元は「これこそ神のお陰、神より御伝授賜った剣法であるからと、神のお陰の流、即ち「神陰流と名付けたのである。」と解説されているが、「おかげ」に就いて間違っている記述に×を記しなさい。
 
(イ) 石垣安造師の「おかげ」の解説は歴代師範から継承されてきたのであり、神道上からも正しい。
(ロ) 戦国武将の兵法に就いて「神のお陰」という概念は無く、上泉信綱は「尊天の感応を蒙り」、疋田豊五郎は「神慮により、感応夢中に蒙る。」と自筆伝書に記している。
(ハ) 「おかげ」の「お」は接頭語で、「おかげ参り」の如く、漢字を当てない。
 
天照らす 御かげや更に うかぶらむ 心のみつの すむにまかせて 
 
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 安藤広重 「伊勢参宮 宮川の渡し」 神奈川県立歴史博物館所蔵
 
古くは「天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり(万葉巻二・一四七)などに見られる、宮城の屋根に結び固めた蔓草 ( かずら )の結びあまりが長く ( たろ )してある。その蔓草 ( かずら )の長さ、結び堅固土を以って皇室を寿ぎ長寿、永遠をも祝福する ( ことば )として、一、天の御蔓 ( みかげ )日の御蔓 ( みかげ )」と讃え申されたと云う説神剣考 高橋正秀)から強いて漢字を当てるとすれば「蔭」となる。
 

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