ブラックボードに義

ブラックボードとは黒板。義とは墨子が言った「人間として行うべき正しい道」。

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「還らぬ教え子よ」の詩にあらわれた
竹本源治氏らの悔やんでも悔やみきれない
痛恨の思いから、戦後の教育は出発した。
この思いを、戦後何年たとうと、
日本の教師=教育労働者であるかぎり、
教育の根本にすえるべきだ。
 
子どもたちを人間としての成長に導くべきはずの教師が、
「血まみれ」となって教え子を侵略戦争の戦場に送り出した。
どうして、そんなことになってしまったのか?
それをくり返さないために、
教育と教師はどうあるべきか、
それはすぐれて現在の問題でもある。
 
2.教育の戦争責任
安川寿之輔氏は『十五年戦争と教育』
「教育(教員)の戦争責任についての総括的考察」(P295〜)の中で、
「不義不当、無謀の十五年戦争は、
310万をこす日本人と2400万をこすアジアの民衆を中心に
世界の民衆に死をもたらした。
 
この侵略戦争の開始と遂行に日本の教育は、
はかり知れないほどの大きな役割をはたした。
この自民族の悲惨と他民族殺戮に
強力な物質的力を発揮した日本教育の戦争責任は、
満蒙開拓青少年義勇軍や
『わだつみ世代』学生兵の悲劇を
考えるだけでもあまりにも大きい」と書いている。

1 教え子を侵略戦争の戦場に送りこんだ天皇制教育
 
1.「還らぬ教え子よ」
天皇制教育を担った河西賢太郎氏は、
戦後にまとめられた『静岡の教育』のなかで、次のように書いている。
「私が子どもに望んだことは、
成績も身体も秀れた者は少年航空兵に、
つぎの者は満蒙開拓少年義勇軍に、
そのつぎの者は軍需工場へと、
何と能力のない者は、家庭の仕事に残れということでした。
毎日、このことを教室で話しました。
長男で家を出られないという子があると、
父母を呼びよせて、今日本はどういう時かを話し、
また、あなたのような人は、国賊であるといわんばかりに攻撃しました」。
 
このように、戦前・戦争中の教師が、『少国民の錬成』と称して、
「天皇のために死ぬ」忠君愛国の教育を暴力的に行ってきた、
その教育が何をもたらしたのか。
そして、教え子を侵略戦争の戦場や遠く離れた満州の荒野に送り出した、
その結果がどうなったか?
 
「秀才だったNは、七つボタンの予科練を卒業し、
まもなく比島の空中戦で十七歳を最後に散って逝った。
Nの無二の親友のAは、陸軍航空学校を卒業、
これも又台湾沖の上空で戦死した。」(『山形の教育』今野竹蔵手記)
 
これが、「ひたすら忠実に国の命令に従うことを至上」
としてきた戦前・戦中の教師の「教育」の結果である。
はたして、これが教育といえるのか。
誠心誠意の「教育」の結果、子どもたちを死なせてしまった、
殺してしまった。その子どもたちは、もはや還ってこない。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
という教育勅語の天皇制教育を率先して行った
教師の犯罪と言っても過言ではない。
高知の中学教員、竹本源治氏はそれを悔いて、次の詩を書いた。
 
「還らぬ教え子よ」
戦死せる教え子よ
( ゆ )いて ( かえ )らぬ教え子よ
私の手は血まみれだ!
君を ( くび )ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
   嗚呼!
「お互いにだまされていたのだ」の言い訳がなんでできよう
慚愧 ( ざんき ) 悔恨 懺悔 ( ざんげ )を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
高知県教組機関誌掲載、1952年1月)

『十五年戦争と教育』
安川寿之輔著、新日本出版社)
安川寿之輔氏の『十五年戦争と教育』という本は
「教育の戦争責任」を問うすぐれた本である。
1986年の出版であるが、
なぜ、戦前・戦中の教師が
「人の子の師の名において」
教え子を戦場に送り出したのかを追究し、
その過ちをくり返さないために
教師=教育労働者は、
また、教育はどうあるべきかを鋭く提起した本として、
今も光を放っている。
 
十五年戦争期の「時代、児童・生徒たちは、
日常的に教員のビンタで張り倒され、
『宮城』・『奉安殿』(『御真影』[天皇の写真]『教育勅語』の安置場)
などへの最敬礼を強要された。
 
少年は『天皇の兵士』『満蒙開拓義勇軍』や各種少年兵として、
『天皇の醜の御盾(しこのみたて)となりて』
『水漬く屍(みづくかばね)、草むす屍』となることが、
少女は勤労動員にかりだされ、
『銃後の妻となり靖国の母』となることこそが最高の栄誉とされた」。
(『十五年戦争と教育』P23
 
このようにして、「天皇制教育は、
少国民、学生、兵士、一般国民を全体として
不正義無謀の侵略戦争に動員する巨大な役割と威力を発揮した」
(同P51)が、「この時代の教育は、なぜに、どうして、
つまり、いかなる人間形成を担うことによって、
ファシズムと侵略戦争を推進する強力な手段となったのか」
(同P55)と安川氏は問題提起されている。
教え子を戦場に送り出した教育をくり返さないために、
この問題提起はきわめて重要である。

お薦(すす)めの本、3冊          
『ボランティアとファシズム/自発性と社会貢献の近現代史
池田浩士著、人文書院、4500円+税)
「私たちの自発性と善意が、
戦争や抑圧的社会のために動員されることを許さないためにも
ボランティアについて知り、考えよう!」
・・・こういう呼びかけの下、
2016年、グループZAZA主催で
池田浩士さんに『ボランティアとファシズム』について
4回講演をして頂きました。
その講演や京都精華大学での講義、
また、京都や東京・立川の市民グループの講演で、
このテーマについて語って来られた、その集大成がこの本です。
 
「日本のボランティアは、
東京帝大の学生たちによる関東大震災後の救護活動
およびセツルメントの開設に端を発する。
だが、ヒトラー・ドイツに学んだ日本国家は
彼らの社会貢献を制度化し、
『勤労奉仕』に組み換える形で戦時体制に取り込んでゆく」
(この本の帯から)
こうした「具体的な歴史上の事実」を「発見」し、たどることによって、
「これから始まる歴史を」「変えることができる」と私も思う。
 
『教育と愛国/誰が教室を窒息させるのか
斉加尚代著、岩波書店、1700円+税)
前半は、ドキュメンタリー番組
『映像17 教育と愛国/教科書で今何が起こっているか』の取材記、
後半は「維新の教育改革」「橋下徹氏による教育への介入」
に対する異議申し立てで構成されている。
 
「一貫しているのは教師たちの生の声に接し続けたことである」。
「戦後の教育基本法が原則としてきた
『教育と政治の間においた距離』をめぐって、
いま大きな転換点に立っていることがうかがえる」(「あとがき」)
・・・この本で、斉加尚代さんは
大阪における維新の会の教育への政治介入の全過程を執拗にドキュメントし、
その問題点を白日のもとにさらけ出されている。
 
『平成の終焉―退位と天皇・皇后
(原武史著、岩波書店、840円+税)
原武史氏による
「天皇明仁、皇后美智子の結婚以来の60年間におよぶ歩み」
の「分析を通して」、
「美智子が主導する『平成流』と呼ばれるスタイルがいかに定着したのか、
それによって大日本帝国憲法下とは異なる形で
いかにして、『国体』が確立されたのかが見えてくる」。
この「国体」=天皇制確立のために、
人々の「思いに寄り添う」として、
二人は被災地と戦跡訪問の「旅」を続けてきたことが分かる。
 
坂口安吾は、天皇が「国民から忘れられた」ら、
「今まで狐憑き(きつねつき)だった日本に、
始めて、人間が生れ、人間の礼節や、人間の学問が行われるように」
なると言ったと本書にある。
「人間が生れ、人間の礼節や、人間の学問」のために、
「終わりにしよう!天皇制」の闘いを!大きく。
 

1918年ドイツ革命において、
「現実の権力は、
省庁、警察、総司令部、また法廷にあった。
こうした旧権力に手をつけなかったら、
これらの旧権力が革命に復讐する最初の機会を
利用するかもしれなかった。
この場合、妥協の余地はなかった。
ここで、革命の勝利か、
あるいは反革命の勝利かが決定されたのだった」。(P179)
 
しかし、「革命は温厚だったが、反革命は残忍だった」。(P273
反革命は、ノスケが組織した義勇軍団を使って、
「ついに実現した革命を残虐に打倒したのである」。
 
そして、1919115日、
カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクの
二人の「殺害は、一つの序曲、
つまり、その数か月後のノスケ時代に起きた千倍もの殺害の序曲、
その二十数年後のヒトラー時代に起きた百万倍もの殺害の序曲だった。
それは、ほかのすべての殺害のスタート合図だった。
そして、いまだにこの殺害の責任はとられていないし、
いまだにその罪はつぐなわれていないし、
いまだにその罪は悔やまれていないのである」(P257
と、セバスティアン・ハフナーは書いている。
 
ドイツ「革命の真の英雄は大衆だった」し、
「その創造物が労兵評議会だった」。(P337
「革命を起こしたのは」
「社会民主党に投票した数百万の労働者と兵士だった」。(P340
しかし、「社会民主党の大衆の担ったこの革命は、
まさに当の社会民主党の指導者によって裏切られ、
それによってヴァイマール共和国の運命が定められ、
ヒトラー帝国の基盤が固められたのだ、と」(P358
というのが、著者セバスティアン・ハフナーの立場だと訳者は書く。
 
それだけに、よけいに
「レーニンは、1917年4月にロシアにもどると
ただちにスローガンをかかげた。
『組織、組織、さらに組織を!』」(P247
という言葉が歴史の教訓として浮かび上がってくる。
 

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