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ミサ

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ミサの記録です。説教くさいことも書きますが、お説教聞いて感じたことなのでしかたないです。出来るだけ週一で更新します。

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聖ルカによる福音書 第10章1節から12節、16節から20節

 その後、主はほかに72人を任命し、御自分の行くつもりのすべての町や村に2人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出された物を食べ、また飲みなさい。働くものが報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。

「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
 72人は喜んで帰ってきて、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
 
 今日の福音書の場面は、72人を選び町々に派遣していくところです。この話は、マタイやマルコの福音書には載せられていません。だからといって、これはルカによる創作と思ってはいけません。各福音書は、成立時期や場所、目的が少しずつ違っています。ルカによる福音書は、ユダヤ人への福音宣教のために書かれた福音書のようです。その目的のために、ルカはこの物語を残された、また選ばれたのでしょう。
イエス様は72人に言います。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のための働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」 イエス様は、どうしてこのように言われたのでしょうか? この聖句は、マタイによる福音書にもでてきます。そこでは次のように語られています。
 
 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」聖マタイによる福音書第10章35節から38節
 
 イエス様は収穫の多さ、つまりは自分の信徒が増えることに喜んではいません。むしろ、悲しみに包まれ、人々を憐れまれております。人々が希望もなく、その日その日の生活に疲れているように見えたからです。
 
 これは現代の教会にも言えることです。ことに先進国の教会は、信徒の減少傾向にあります。物質文明が発展し、豊かさを享受する昨今、教会は人々の中から閉め出された前時代的なものという評価がつけられているような気がします。
 人間は豊かさの中にあって神様を忘れ高慢になり、貧しさ、苦しさの中では、「どうして神様がいるのに、わたし達はこんなに苦しまなければならないんだ! どうして救ってくれないんだ!! 神も仏もあるものか!!」と、すべてを神様のせいにして、悪し様にののしるのです。もしこの現状を見たら、イエス様はやはり、先ほどの言葉を言われるのではないでしょうか。
 
 また、これは日本だけの問題ではないのですが、教会は近年、教役者不足に悩んでいます。これは聖職者、司祭召命の不足だけではなく、日曜学校の先生等の不足にも言えることです。教会もある、信徒もいる、しかし、それらを導く人がいない。まさに「収穫は多いが、働き手は少ない」と言う状態です。一人の司祭が、いくつかの教会を管理し、聖餐を執り行うということは、もはや珍しくありません。日曜学校に関しても、信徒の高齢化から先生のなり手がなく、縮小もしくはやめてしまった教会があると聞きます。しかし、これではますます悪循環です。将来の教会の礎を担う子ども達が育たず、教会はますます衰えてしまいます。
 わたし達は、今日の聖句を深く心に刻み、祈ってゆかなければなりません。
 
 主よ、感謝します。
聖ルカによる福音書 第951節から62
 
 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備をしようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて2人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
 一行が道を進んでいくと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分の死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
 
 本当は日曜日に更新しようと思っていたのですが、時間がとれず、今日の更新になってしまいました。「ロザリオ作ってる暇があったら更新しろよ!」って感じですね。まったくホントに……
 
 この日、読まれた聖書箇所は非常に難しい部分であり、ここだけを取り出すと非常に危険な部分でもあります。
 
 イエス様は弟子の覚悟として、ここで様々なことを言われます。
 最初の人には、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」 この言葉はイエス様の孤独を示していますし、自分の言うことはだれも受け入れてくれない。わたしについてくるならば、あなたも同じような目に会うが、それでも良いのか?と、問うているようでもありますし、自分の前に待ち構えている『十字架の死』を思いながら、あなたは、わたしの行くところには着いて来れないだろうと、語っているようでもあります。
 
 父の葬儀をしてから着いていきたいという人には、「死んでいる者たちに、自分の死者を葬らせなさい」と、語られます。
 当時のユダヤの社会では、父の葬儀を出すというのは、息子にとって大切な義務であり、それをわかっていながらも、イエス様は、わたしについてきなさい。神の国を告げ知らせなさい。と語られるのであります。
 
 そして、いとまごいを願う人に対しては、「鋤に手をかけてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われます。やると決めたからには、ほかのことは考えず、一心に打ち込め、そうイエス様は言っているのでしょうか。
            
 この箇所のイエス様の厳しい発言は、イエス様に従って行きたいと願うクリスチャンにとって、色々な思いを起こさせるのではないでしょうか?
 この言葉を聞き、さらに熱く伝道や信心、教会の活動に取り組んでいこうと思う人もいるでしょう。しかし、とてもじゃないがこんなことは出来ない、もしこれが本当ならば、私たちは救われないのではないか? 不安に思われる方も多くいると思います。
 
事実、この言葉は、熱心なクリスチャンにとって励ましにもなる言葉であり、不安の種にもなります。どことは申しませんが、キリスト教系の新興宗教は、この言葉を巧みに用い、熱心な伝道をさせているようであります。しかし、この熱心さの背景には、「自分は神の国にふさわしくないのでは? ふさわしくなるように、もっと伝道、勉強をし、主に認めてもらおう!」という心で溢れているような気がします。神の国は、そのように勝ち取るものなのでしょうか? そういう努力は否定しません。しかし、自分自身がおろそかになりすぎては、今度は生活が成り立たなくなってしまいます。
 
イエス様は神の国を「からし種」や「パン種」に例えられました。例え最初は小さくとも、その小さな種が、徐々に大きくなっていく。私たちの信仰もこのように、主の憐れみと恵みによって、できることからコツコツと、決して無理をしないで歩むことが重要なのではないでしょうか?
聖マタイによる福音書で、イエス様はこう招かれております。「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしのには軽いからである。」
 
主よ感謝します。

聖霊降臨後第4主日

聖ルカによる福音書第9章18節から24節
 
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群集は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 ペテロが答えた。「神からのメシアです。」
 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
 
 
 この福音書の箇所は、ペテロの信仰告白として有名なところです。
 イエス様は、弟子たちに「群集は、わたしのことを何者だといっているか?」と、問われます。弟子たちは、『洗礼者ヨハネ』や旧約の偉大な預言者『エリヤ』、また『昔の預言者のだれか』と答えます。
 次にイエス様は、「あなたがたは、わたしを何者だと思うか?」と、問われます。客観的に、だれがどう見たかではなく、あくまで自分はどう思うのか? と問われたのです。
 この質問に、ペテロははっきりと『神からのメシア』と答えます。クリスチャンなら当然と思われるような答えですね。しかし、ここでペテロが答えているメシアとしてのキリストは、現在わたし達が思っている、あるいは告白しているキリストとはだいぶ離れているでしょう。
 当時、ユダヤはローマ帝国の植民地で、何をするにもローマの権限がなければ自由にならないし、人々は圧制に苦しんでいたようです。ユダヤの人々は、いつか神様が救世主を送り、ユダヤをローマの手から救ってくれることを待望していました。そんなときに現れたイエス様は、まさに革命家、政治的指導者、ダビデ王のような君主として期待されたのでしょう。このときペテロが持っていた『救世主観』は、まさにそれに近いものであったと思われます。例えば、マタイの福音書の同じ場面で、イエス様が弟子たちに自分は殺され、三日目に復活することを告げたとき、ペテロは「そんなことがあってはならない」と、イエス様をいさめはじめたのです。ペテロが抱く、イエス様をローマ帝国から救ってくれる革命家としての期待感が溢れていると思いませんか?
 
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」
 
 イエス様は、わたし達にも問いかけられます。この質問に答えるときに、クリスチャンとしての信仰が見えてきます。
 口では「わたしの救い主」と、一言で言えます。しかし、一人ひとりの中では、少しずつ違ってくるのではないでしょうか。違うことがいけないのではありません。むしろ違って当たり前です。一人ひとり、イエス様の訪れは違いますし、現実的な状況も違ってきます。
 ただ重要なのは、現在の自分を受け入れ、イエス様に従うということです。どんなに自分の期待と違っていてもイエス様についていく。それこそが自分を捨てることであり、十字架を負うことだと私は感じます。個々人状況は違えど、イエス様についていく時点で、これをやっているのではないでしょうか。
 ときには目先のことを考えてしまいますし、お祈りも個人的であったりしてしまうときもあります。人間ですから。しかし、弟子達のリーダーペテロでさえ、個人的なことを考えていながら、イエス様と共に歩むうちにかえられていきました。このことは今を生きる私たちにとっても大きな励ましになるでしょう。
 今日もイエス様は私たちに問いかけられます。
 
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」
 
 この問に日々答え、自分自身の歩みを見つめながら、共に歩みたいと思います。
 主よ、感謝します。

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