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京都の通称寺 龍雲寺(通称「桃山善光寺」「新善光寺」) ここは、早春の梅、春のサンシュユ、夏の百日紅などの花の奇麗なお寺です。 また、高台にあることから、境内からの見晴らしの良いところです。 なお、幕末に、鳥羽・伏見の戦いで、薩摩軍第二砲兵隊長大山弥助(後の元帥大山巌)が陣を張り、幕府軍が陣を置いた奉行所に向けて砲弾を撃ち込んだ当時の龍雲寺は、この場所ではなく、ここから東方の、現在は明治天皇陵の敷地になっているところにありました。 <山門> 2 沿革 (1)天台宗の寺院で、創立年代は不詳といわれるが、豊臣秀吉が伏見城に在城の頃には大亀谷敦賀町にあったという。 (2)正徳5年(1715)、伏見奉行石川備前守が徳川綱吉の念持仏であった観音像を拝領し、これを本尊として現在地に近い三河屋敷町に中興した。 (3)関ヶ原合戦の前哨戦で西軍に攻められて伏見城で討死した鳥居元忠以下300余人の将士の菩提寺となった。 (4)寛政8年(1796)、信州善光寺の一光三尊仏阿弥陀如来像のご開帳がこの寺で行われ、その際、信徒からの強い要望でその像を模刻することになった。善光寺の仏像を模刻して祀ったことから、通称「桃山善光寺」「新善光寺」と呼ばれるようになった。 3 鳥羽・伏見の戦い (1)龍雲寺の位置は、御香宮神社の東側の桃山町三河にあった。ここは、現在は明治天皇陵(伏見桃山陵)の敷地になっている。 (2)ここは高台にあり、伏見奉行所は南西方向に600mの眼下にあったことから、慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の大山巌が砲兵隊長として大砲陣地をここに置いた。 ここに設置された砲台から、伏見奉行所に陣を置いた会津藩、新撰組などの幕府軍を一斉砲撃し、幕府軍に甚大な被害を与えた。 ※地図を開いてみると、この時の砲弾は、おそらく現在のJR桃山駅のあたりから、松平筑前と桃山町鍋島のあたりを飛び越えて、現在の市営桃陵団地の南側あたりにあった奉行所の建物の方向に撃ち込まれたものと想像されます。 4 旧寺地の買収と龍雲寺の移転 明治27年(1894)、旧寺地の一帯が天皇御料地として買い上げられ、同31年に現在地へ寺地を移した。明治天皇陵(伏見桃山陵)の造営のためといわれている。 尚、現在の本堂は醍醐寺の塔頭の建物を移したものといわれる。 ※明治天皇は、生まれ故郷の京都をこよなく愛し、生前、古城山(旧伏見城址)に登り、この土地を買っておくように、と指示されたと伝えられている。天皇稜の場所の選定にあたり、すんなりと決まったという。 5 境内 (1)山門 ・梅の花の咲く頃 (2)本堂と六地蔵尊 現在の本堂は醍醐寺の塔頭の建物を移したものといわれる。 (3)夏の境内のようす (4)大和十津川村出身の郷士の墓 <庭園の脇にある十津川村出身の郷士たちの顕彰碑> 十津川村出身の親兵隊が鳥羽・伏見の戦いに参戦し、改めて伏見練兵隊に編成されて戊辰戦争を戦い抜き、その時の戦没者たちの墓が境内の一角にある。 5 眺望
<南の方角> |

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