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龍安寺の石庭と鏡容池の桜
龍安寺は、洛西の衣笠山のふもとにあり、方丈の南側にある枯山水の石庭で世界的にも知られる臨済宗妙心寺派の寺院です。
宝徳2年(1450)に室町幕府管領の細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受け、妙心寺の義天玄承を開山として、大雲山龍安寺と称して創建されました。その後 応仁の乱による焼失後、長享2年(1488)勝元の子政元によって再興されました 。
ここは「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
境内の桜は鏡容池の周囲や庫裏に向かう参道沿い、石庭の向かい側や桜苑など見所が沢山あり、秋の紅葉とともに人気の花見の名所でもあります。
2 境内のようす
(1)駐車場から山門へ
・駐車場周囲のしだれ桜
ここだけでも見応えがあり、花見が楽しめそう。
(2)山門から庫裏へ
拝観順路に沿って、鏡容池のわきを通り、方丈・石庭拝観の入口になっている庫裏へ向かう。
・山門
・参道の桜
・庫裏への石段
(3)方丈南側の枯山水庭園「石庭」(史跡・特別名勝)
①特色
・二方を油土塀で囲み、東西30m、南北10m余の長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3個づつに配置したもの。
・15個の石は、庭をどこから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないようになっているといわれる。
・築地塀の北を高く、南を低くして、遠近法の手法で狭い空間を広く見せている
②石庭と桜
石庭のそばで桜が優雅に咲いているようすは素晴らしい。
・2010.4.13撮影
(4)方丈の裏にある「知足の蹲踞」とわび助椿
①「知足の蹲踞」
・徳川光圀の寄進と伝えられている。
・実物は茶室蔵六庵の露地(非公開)にあり、方丈裏にあるのは複製。
・ここの蹲踞には「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)の4字が刻まれている。
・水を溜めておくための中央の四角い穴が「吾唯足知」の4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として共有されている。
②わび助椿
(5)方丈を出て、勅使門の石段下を通ってふたたび鏡容池畔に
①勅使門
②鏡容池
・鏡容池は寺の南側に広大に広がり、周囲は回遊式庭園になっている。
国名勝に指定されている。
・円融天皇の御願寺である円融寺の跡地にあたり、その園池といわれ、徳大寺家によって造園されたものと伝えられている。
<鏡容池のまわりの桜>
3 墓地と御陵
(1)龍安寺七陵
龍安寺の背後に、一条・堀河・後三条・後冷泉・後朱雀の各天皇陵と後朱雀天皇の皇后禎子内親王陵、後円融天皇火葬塚がある。 ・後三条・後冷泉・後朱雀天皇陵
このうち、一条天皇陵・後堀河天皇陵からの京都市街地や大阪方面の眺めはまさに絶景。御陵参拝だけであれば無料。
(2)細川勝元の墓
(3)義天玄承の墓
宝徳2年(1450)に龍安寺を開創。享徳2年(1453)には大徳寺に住した。
4 非公開部分「西の庭」
・開基細川勝元の木像を祀る細川廟などがある。 ・茶室蔵六庵がある。 ・蔵六庵には、徳川光圀の寄進と伝える「知足の蹲踞」の実物がある。 5 沿革
<説明板>
・宝徳2年(1450)に足利将軍の管領職にあった細川勝元が、徳大寺公の山荘を譲り受け、妙心寺の義天玄承を迎え創建。
・まもなく応仁の乱で消失するが、勝元の子、政元によって再興。 ・明応8年(1499)には方丈が建立され、石庭もこのときに築造されたと伝える。 ・その後、寛政9年(1797)に、方丈、開山堂、仏殿を火災で焼失。 ・現在の方丈は、塔頭・西源院の方丈を移築したもの。 ・平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録。
6 練習問題
(1)臨済宗妙心寺派。山号:「大雲山」。本尊:釈迦牟尼仏。 (2)沿革
( 1 )が妙心寺の( 2 )を招き宝徳2年(1450)に創建。玄承の師の日峰宗舜を勧請開山とした。 (3)枯山水の石庭
「( 3 )」、「( 4 )」、「七五三の石組」、「心字の象形」などと呼ばれ、白砂だけを敷き詰めて15個の石を配する。作者、作庭年代などは不明。二方を油土塀で囲み、東西30メートル、南北10メートル余の長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置したもので、一般に、「( 5 )」の名で知られている。国の史跡及び特別名勝。 (4)茶室「( 6 )」
この前に、水戸光圀が寄進したという「( 7 )」の手水鉢が置かれている。 (5)( 8 )の墓
鏡容池北側にある。 (6)世界文化遺産に登録。
【正解】
1 細川勝元 2 義天玄承 3 虎の子渡し 4 五智五仏 5 虎の子渡し 6 蔵六庵 7 吾唯足知 8 真田幸村 |
京都の桜2010
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