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大原にある惟喬親王の墓と阿弥陀石仏
国道367号の大原の花尻橋からおよそ1kmのところにある分かれ道を山際に向かい、400mほど行ったところの山麓に、惟喬親王の墓があります。
林の中の石段を上ると、惟喬親王の墓と伝わる五輪塔があり、そのわきには親王の霊を祀る小野御霊神社の小さな社があります。
またこのすぐ近くには、室町時代の阿弥陀石仏があります。
石仏は長い歳月を経て磨耗が進み、その表情は優しさにあふれているように思われました。
1 場所↓
<惟喬親王の墓への道>
・親王の墓があるあたり
左側の林の中にあります。
・案内板
・親王の墓への石段の上り口のまわりのようす
2 惟喬親王について
惟喬親王は平安時代前期の皇族で、文徳天皇の第一皇子でした。
しかし、父・文徳天皇は皇太子として第一皇子の惟喬親王ではなく、第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇)を立てた後、惟喬親王にも惟仁親王が「長壮(成人)」に達するまで皇位を継承させようとしました。
ところが、右大臣藤原良房らの圧力により実現できなかったとされています。
嘉祥3年(850)、良房の娘、女御明子(あきらけいこ)所生の惟仁親王が数え一歳で立太子しました。
フリー百科事典「ウィキペディア」には、その背景事情について、「惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方惟仁親王の母が良房の娘明子であったことによるものとされ、さらに、惟喬が惟仁の成人後に皇位を譲ったとしても双方の子孫による両統迭立の可能性が生じることを危惧したとも考えられる。」と書かれています。
また、「ウィキペディア」によると、惟喬親王はその後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任した後、貞観14年(872)、病を理由に出家し、近江国滋賀郡小野に隠棲。その後、山崎・水無瀬にも閑居し、在原業平や遍昭、伯父紀有常ら歌人と交流したと伝えられています。
惟喬親王はその後、54歳で亡くなりました。
ここ、大原の上野町には、皇位につけず世を避けて仏門に入り、大原の奥に隠棲された惟喬親王の墓と伝えられる五輪塔がひっそりとたたずんでいます。
なお、惟喬親王の歌は古今集に二首、新古今集・続後拾遺集・新千載集に各一首、収められました。
3 惟喬親王墓塔、五輪塔
五輪塔は鎌倉時代のもので、高さ約150cm。
・案内板
・親王の墓に至る石段
・親王の霊を祀る小野御霊神社への石段(右)
左側の石段は、親王の墓に至る。
・宮内庁による看板
・親王の墓と伝わる五輪塔
しばらく惟喬親王の悲運の生涯に思いをめぐらせたら、次は阿弥陀石仏を見落とさないように。
4 阿弥陀石仏
室町時代のものとされています。とてもいい表情です。
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京の天皇・皇族の墓
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はじめまして。
ひょんな事からこのブログに到達いたしました。
現在、神奈川県に住んでおりますが惟喬親王の子孫です。
初めて遠い昔の先祖の墓を見ました。
ありがとう御座います。
2012/7/9(月) 午前 11:50 [ 小倉 ]