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猿ヶ辻の変と清浄華院の姉小路公知の墓
京都御所を取り囲む築地塀の中で、北東角だけが塀の角を欠いて、折れ曲がったようになっています。
これは、鬼門除けのために、そうしているのです。
・説明板
古来、北東の方向(艮(うしとら)の方角)は悪い鬼が入ってくると信じられ、表鬼門とされ、ここには鬼門を守る魔除けとして、北東の反対の方角、つまり南西の方角を指す「申(さる)」でありまた「難が去る(猿)」に通じることから、比叡山延暦寺の地主神、日吉大社の神の使いの猿が祀られています。
1 場所↓
2 金網の中の猿
よく見ると、烏帽子を被り、御幣を持った猿が金網の中に封じ込められています。
ここに猿が祀られていることから、このあたりの場所は昔から「猿ヶ辻」と呼ばれています。
1 なぜ金網の中にいるのか、
この猿が夜な夜な塀から抜けだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。
2 「猿ヶ辻の変(朔平門外の変)」
幕末には、尊皇攘夷派の姉小路公知がこのあたりで何者かに襲われた事件が発生しました。朔平門外の変とも呼ばれています。
フリー百科事典「ウィキペディア」には、次のような記載があります。
文久3年(1863)5月20日午後10時頃、朝議を終えた姉小路の一行が宜秋門を出て朔平門の北、猿ヶ辻に至ったとき、覆面をした3人の刺客に襲われ、姉小路は顔と胸部に重傷を負い絶命した。事件現場には犯行に使われたとおぼしき刀と犯人のものと思われる木履が遺棄されていたという。
・宜秋門のあたり
現場に残されていた刀などの物証から、幕末四大人斬りの一人、薩摩藩士の田中新兵衛が犯人と目されて捕らえられた。しかし、取調べ中に田中が自殺したため、真相は不明となった。
薩摩藩士の田中新兵衛は尊王攘夷運動に共鳴し、文久2(1862)年に京都へ上り、土佐藩の岡田以蔵と並ぶ尊攘過激派の刺客といわれ、島田左近(九条家侍)・本間精一郎(越後出身の志士)など、いくつもの暗殺に実行犯として関わったことから「人斬り新兵衛」の異名を残した。
この「猿ヶ辻の変」によって、結果として薩摩藩は御所の乾御門の警備を外されることになった。
3 姉小路公知
(1)経歴
・天保10年(1839年)、公卿姉小路公前の子息として生まれる。
・安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。
・文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美とともに江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事参政となり、三条とともに攘夷派の先鋒となった。
・文久3年(1863年)に深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で死去、享年25。(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
(2)姉小路公知の墓(清浄華院の墓地)
<清浄華院>
清浄華院は京都御苑から近く、廬山寺のとなり、梨木神社の向いにあります。
ここは、知恩院や知恩寺、金戒光明寺とならぶ浄土宗京都四ヵ本山の一つとして、長い歴史と格式を誇っています。
また、幕末の文久3年(1863)5月、公家で尊皇攘夷派の姉小路公知が御所の猿ヶ辻付近で襲われ、死去するという猿ヶ辻の変が発生しましたが、この姉小路公知の墓が、清浄華院の墓地の中にあります。
②沿革
<説明板> ・浄土宗京都四ヵ本山の一つ。浄華院ともいう。山号はない。
・貞観2年(860)頃、清和天皇の勅願によって、慈覚大師円仁が御所内に仏殿の造営に着手し、同5年(864)、禁裏内道場として創建したのがはじまり。
・はじめは天台宗であったが、のちに後白河天皇が法然上人源空を住持としたことから浄土宗に転宗し、その後行く度かの移転を繰り返し、天正18年(1590)豊臣秀吉によって現在の寺町に移転。
・本堂には法然上人像や、清和・村上両天皇の尊像と歴代天皇の尊牌
を安置している。 ・墓地には、皇室ゆかりの墓をはじめ、姉小路公知や山科言継など歴史上の著名人の墓も多い。
・不動堂の不動明王は身代わり不動といわれ、その霊験譚は、『紙本著色泣不動縁起』(重文)に語られている。
・寺宝として、『紙本著色泣不動縁起』と『絹本著色阿弥陀三尊像』(重文)がある。
③境内のようす
・三門 ・本殿(大殿)
・勅使門
<姉小路公知の墓> ・公知の墓は、清浄華院墓地の北塀近くにあり、南に向いている。
「贈参議左中将藤原公知朝臣之墓」
・公知の墓は、清浄華院墓地の北塀近くにあり、南に向いている。
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おはよう
いつもお世話になっています、又立ち寄ってね
2010/10/30(土) 午前 10:16 [ 中路正樹 ]