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大津の長等神社と平忠度の歌碑
長等神社は、西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所である三井寺の観音堂への入口近くにあります。
長等神社楼門の近くに、大津絵のお店があります。
・大津絵の店「大津絵民芸房」
鬼の念仏の絵が見える。
鬼の念仏の絵は、子供の夜泣き祈願の護符に用いられる。なお、藤娘は良縁祈願の護符に用いられる。
長等神社の楼門脇に、このあたりが、かつては「神出」という地名であったという、地名の由来が書かれた説明板がありました。
<説明板>
それによると、
・長等神社は、天智天皇の頃に、日吉社より素戔嗚命、大山咋命の二神を勧請したことに始まる。この二神は初め長等山の山頂に勧請された。
・のち天喜2年(1054)山の上から現在地に移り、これにより神出の地名が起こったと伝えられる。
また、長等神社の入口に、明治38年(1905)の完成の楼門が東面して建っています。楼門は室町時代の様式にのっとった秀作といわれ市指定文化財です。
楼門をくぐり、境内に入ると、枝垂れ桜の下に、平忠度の歌碑があります。
1 場所↓
2 境内
①楼門
・説明板
・楼門から見た拝殿
長等神社の入口に東面して建つ。明治38年竣工。上下の均整が美しく、左右の広がりも適度なすぐれた姿をしている。市指定文化財。
②拝殿
③本殿
・拝所
・本殿
④手水
⑤推定樹齢300年のカツラの木
⑥境内社(摂社・末社)
馬神神社、稲荷神社、両御前神社、笠森社がある。
<馬神神社>
もとは大津東町に鎮座され、馬の守護神として、古来より道中の馬の無事、安全を祈願し、崇敬されていた。明治34年長等神社境内地に鎮座した。
最近は競馬、乗馬関係者、馬の愛好者、馬年生まれの方の参詣が増えているという。
<稲荷神社>
3 平忠度歌碑
・説明板
さざ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
昔ながら、と長等山の桜、をかけた歌で、長等山の山上に歌碑があるが、多くの人に見てもらいたいということから、山上にある歌碑を模して、長等神社の境内に忠度の歌碑を建立したもの。
●平忠度について
(フリー百科事典「ウィキペディア」参照)
平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。兄は平清盛、教盛、経盛。
治承4年(1180)薩摩守。源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。
歌人としても優れ、藤原俊成に師事。平家が都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した逸話がある。『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集。なお、『新勅撰和歌集』以後は薩摩守忠度として掲載されている。
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」(千載66)
【通釈】
さざ波寄せる琵琶湖畔の志賀の旧都――都の跡はすっかり荒れ果ててしまったけれども、長等(ながら)山の桜は、昔のままに美しく咲いているよ。
【語釈】
◇さざなみや 「さざなみ」(楽浪)は琵琶湖西南部一帯の古名。この歌では「さざなみや」で「志賀」にかかる枕詞として用いている。
◇志賀の都 志賀は琵琶湖西南岸、南志賀地方。景行・成務・仲哀三代の皇居の地と伝わり、天智天皇の大津京もこの地に営まれた。
◇昔ながらの山ざくら 「ながらの山」に長等山を掛ける。
【補記】
この歌は千載集に「よみ人知らず」の作として載る。作者が忠度であることは周知の事実であったが、朝敵の身となったため、撰者の藤原俊成が配慮して名を隠したもの。『平家物語』巻七「忠度都落」にもその間の事情が述べられている。
●出典:「千人万首−よよのうたびと−」から転載
3 長等神社の沿革
・園城寺の中輿の智証大師円珍が、貞観2年(860)に日吉山王神を園城寺の護法神として勧請したものと伝え、かつては新宮社などと呼ばれた。
・1054年に庶民参詣のため山の上から現在地に移った。
・祭神は、建速須佐乃男大神(たけはやすさのお)、大山咋大神(おおやまくい)、宇佐若宮下照姫大神(したてるひめ)、八幡大神、地主大神(とこぬし)
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