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安土町の浄厳院
浄厳院はJR 安土駅 の南西、歩いて10分位のところにある浄土宗の寺院です。
ここは、織田信長が安土城を築城するとともに、伊賀と近江の浄土宗総本山として建てた寺院で、天正7年(1579)に浄土宗と日蓮宗との問で浄厳院本堂を舞台として宗教上の論争(「安土問答」または「安土宗論」ともいう)が行われたことで知られています。
境内には、桃山時代の建築とされる丹塗りの楼門、もとは多賀(現近江八幡市多賀町)にあった興隆寺の弥勒堂を移築したものとされる本堂、天保10年(1839)建立の釈迦堂、寛保2年(1741)建立の鐘楼などが建ち並び、本堂には、丈六の木造阿弥陀如来像(本尊)が安置されています。
1 場所↓
2 境内のようす
①楼門
・楼門と手水舎
・楼門と不動堂
②本堂
本尊の阿弥陀如来は、天正6年に愛知郡の二階堂から移された平安時代の丈六像で、重文に指定。
・扁額
③不動堂
・説明板
元禄16年(1703)の建築。宝形造、桟瓦葺きで禅宗様を取り入れた小堂。
④観音堂
⑤鐘楼
・説明板
県内には珍しい袴腰付の大型鐘楼。寛保2年の建築。
・鐘楼と釈迦堂
⑥勅使門
⑦書院方面
明治期の建築。
⑧墓地とその向こうに見える東海道新幹線
⑨北門
3 沿革
<説明板>
現在の浄厳院の地には、正平年間(1346年 - 1370年)近江守護佐々木六角氏の佐々木氏頼より建立された天台宗寺院の慈恩寺威徳院があった。
慈恩寺はその後文明3年(1471)、元亀元年(1570)と二度の兵火に遭い、一時は廃寺となった。
天正5年(1577)、織田信長は徳の高いことで慕っていた近江国栗太郡金勝山(現・栗東市)の浄土宗の僧・浄厳坊応誉明感を安土に招き、明感は慈恩寺の旧地に浄土宗金勝山浄厳院として再興した。
信長は、浄厳院の本堂として多賀村(現・近江八幡市)の興隆寺の弥勒堂を移し、本尊として愛知郡から阿弥陀如来坐像を移した。
天正7年(1579)には、信長の命により浄土宗と日蓮宗の僧による仏教論争(いわゆる「安土問答」または「安土宗論」ともいう)が当寺で行われたことで知られる。裁定の結果、宗論は日蓮宗の敗北と決したが、この裁定の背後には信長の強い政治的意思があったといわれている。
4 安土問答(安土宗論ともいう)
この寺は仏教史上有名な浄土宗と日蓮宗の教義上の論争が行われた寺としても知られている。この宗教論争は織田信長の命により行われ、織田信長は、他宗をそしり、事あるごとに他宗と衝突する日蓮宗を抑えようとして、浄土宗側に有力な裁定を下したといわれている。日蓮宗側は処罰され、これ以後他宗への法論を禁じられた(自ら慎んだという説もある)という。
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