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木津にある安福寺の平重衡の供養塔と伏見区日野にある平重衡の墓
 
 
JR奈良線に乗って、京都方面から奈良に向う途中、木津川の橋を渡ってすぐ左側の線路わきにお寺が見えます。
 
ここは安福寺という西山浄土宗の寺院で、境内には、平清盛の五男で治承4年(1181)に東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした、いわゆる「南都焼討」を行った平重衡の供養塔と伝えられている十三重石塔があります。
 
平重衡の南都焼討は南都の衆徒からひどく憎まれました。
 
寿永3年(1184)に一ノ谷の戦いで平氏は源氏軍に大敗を喫し、このとき平重衡は馬を射られて捕らえられます。その後、平氏滅亡後、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって重衡は南都へ引き渡され、木津川畔で斬首されました。
 
平重衡が処刑された木津川畔に安福寺があり、境内には平重衡の供養塔と伝えられている十三重石塔があります。
 
また、安福寺本尊の阿弥陀如来像は重衡の引導仏と伝えられています。
 
平重衡が処刑された後、妻の佐局(すけのつぼね)はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都の衆から首ももらい受けて荼毘にふし、遺骨を高野山に葬って、日野に墓を建てたと伝えられています。
 
 現在の伏見区日野には平重衡の墓と伝える石塔があります。
 
 
 
 
2 境内のようす
①山門
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②「平重衡卿之墓」と彫られた標石
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山門前にある。
 
③山門から見た本堂
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④十三重石塔
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 平重衡供養塔と伝わる。
 
⑤境内の建物
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⑥石仏
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3 平重衡について
・平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室平時子。平氏の大将の一人として各地で戦い、治承4年(1181)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした、いわゆる「南都焼討」を行った。
 
・重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた。
 
・この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。
 
・寿永3年(1184)の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。
 
・一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送され、頼朝と引見した。頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出した。
 
・『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、思慕するようになった。
 
・元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の大納言佐局(すけのつぼね)は助け上げられ捕虜になった。
 
・平氏滅亡後、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって重衡は南都へ引き渡され、木津川畔で斬首された。
 
・『平家物語』には、一行が重衡の妻の佐局が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、佐局が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。
 
・『愚管抄』にも日野で重衡と佐局が再会したという記述がある。
 
・重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29
 
・妻の佐局はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆から首ももらい受けて荼毘にふし、遺骨を高野山に葬って日野に墓を建てた。その後、隠棲した建礼門院に仕える。夫婦の間に子は無かった。
 
・重衡の死の3年後に鎌倉の千手の前は若くして死んだ。人々は亡き重衡を恋慕して憂死したのだと噂した。京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。
 
・東大寺盧舎那仏像は重源の大勧進によって再建され、建久6年(1195)に大仏殿の落慶法要が行われた。戦国時代に松永久秀によって再び焼亡し、現在のものは江戸時代に再建されたものである。
 
以上、フリー百科事典「ウィキペディア」より引用。
 
 
 
4 安福寺の沿革
<説明板>
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・西山浄土宗の末寺。
 
・阿弥陀如来坐像(本尊)は、「源平盛衰記」の記述によれば、平重衡は、東大寺、興福寺を焼いた罪で木津の地で処刑される際に、重衡の引導仏となったというのが、本尊の阿弥陀如来坐像といわれる。
 
・十三重石塔は、重衡の供養塔と伝えられている。
 
・安福寺近くの木津川の河畔には、「首洗い池」や重衡が最後に食べた柿の種が成長したもので実がならないと言い伝えられている「不成柿」という柿の木があるという。
 
・「首洗い池」案内図
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・「不成柿(ならずがき)」
 重衡が最後に食べた柿の種が成長したもので、実が成りないといわれている。
 
 
 
5 伏見区日野にある平重衡の墓
 伏見区の日野は親鸞の誕生地と伝えられ、親鸞の誕生の地を記念して昭和6年(1931)に建立された日野誕生院がある。
 
 また、近くには法界寺や萱尾神社、鴨長明が方丈記を書いたといわれる方丈石がある。
 
 こうした日野の一角に、平重衡の墓がある。
ここはわかりにくいところにあり、案内板などもないが、児童公園のようなところに「従三位平重衡卿墓」としるした石標と石塔が並んでいる。
 
 
①場所↓
 
 
②平重衡の墓イメージ 13
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
・説明板
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この地は、平重衡の北ノ方平家没落後、身を寄せていたところと伝えられる。
 
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆の訴えによって前年の南都焼きうちの責を問われ、文治元年(1185)鎌倉から奈良に引き渡されたが、途中、この地に立ち寄って大納言佐局(すけのつぼね)と別れを惜しんだ。
 
その情景は付近の合場川、琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。
 
木津川河原において首をはねられた重衡の遺骸は、佐局によって引き取られ、火葬後、ここ、日野の地に埋葬されたといわれている。
 

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