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高瀬川沿い木屋町通を四条通から三条通へ
木屋町通は先斗町の西側、高瀬川に沿った二条通から七条通までの通りです。
この通りは、慶長年間の角倉了以の高瀬川開削に伴って整備されました。
開通当時は、「樵木町」(こりきまち)と呼ばれていたのが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったといわれています。
江戸時代中頃になると、この通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、次第に娯楽の場へと姿を変えていったそうで、今でもこのあたりは京都でも屈指の歓楽街となっています。
また、幕末にはこの周辺で勤皇志士が密会に利用したことから、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑がこの通りの周辺にあり、大村益次郎や本間精一郎、佐久間象山などの殉難の碑もあります。
高瀬川の川岸に沿って桜並木が続き、桜の花見の頃は多くの観光客も訪れるところですが、冬の今頃も幕末の歴史探訪などを兼ねて散策するのにおすすめの所です。
四条通から三条通まで歩いてみました。
①高瀬川
②慶長年間の角倉了以の高瀬川開削の記念碑
<説明板>
③土佐藩邸跡と岬神社(土佐稲荷)
高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠小学校の辺りには、江戸時代、土佐藩の藩邸がありました。当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていました。
なお、もと藩邸に鎮守社として岬神社(土佐稲荷)が置かれていましたが、廃藩後、現在地に移されました。
●土佐藩邸跡
土佐藩邸跡は、江戸時代初期から明治4年(1871)まで、土佐藩主 山内家の藩邸の京屋敷があったところで、高瀬川沿いの旧立誠小学校あたりから河原町通の一帯に広がっていた。
※なお、土佐藩邸の北に彦根藩邸跡、更に北には長州藩邸があった。 ●説明板
・土佐藩は、薩摩、長州と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
・旧藩邸跡の西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。
●岬神社(土佐稲荷)
※場所↓
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.46.21.6N35.0.10.8&ZM=12 元 立誠小学校の北側にある。 ・沿革
<説明板> ④彦根藩邸跡
⑤本間精一郎遭難地
この標石のすぐそばに説明板があり、次のように書いてあります。
「文久二年閏八月二十日夜、勤王の志士本間精一郎はここで斬られた。精一郎は越後の人、江戸に出て勉強し、安政の大獄の後京都にのぼって尊王攘夷運動に身を投じた。どの藩にも属さなかったので自由に行動することができ、急進派に属した。しかし急進派の動きは伏見寺田屋の変でくじけ、精一郎はその頃から酒色に身を持ち崩して、同志からも次第に嫌われるようになった。この夜、先斗町で遊んだ帰り道を精一郎は襲われた。この南側の瓢箪路地を木屋町へ逃げようとしたが斬殺された。時に年二十九歳である。 京都市」
説明板に書かれている「この南側の瓢箪路地」について、標石の南側に狭い路地があり、以前は立ち入ることも出来たのですが、今は門が新設され、路地に入ることができなくなりました。
⑤三条小橋たもとにある大村益次郎、佐久間象山遭難の碑
実際に遭難したのは木屋町御池上ルで、碑があります。
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京の歴史・史跡めぐり
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こんにちは!!
本当に高瀬川沿いには幕末に活躍した人の石碑が数多く存在していて
歴史の勉強になりますね!!夜は夜で街の雰囲気ががらりと変わり、これまた風情が有り
本当に京都って歴史と風情が有り何時尋ねても心身共に癒されます。
2012/4/2(月) 午後 4:08 [ タロ坊 ]
本間精一郎遭難地
この横の酒屋のキンセも古いですよね。
有名な、十斗瓶が二本も並んでいましたよね。
2012/6/30(土) 午後 9:40