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興聖寺は、慶安元年(1648)、淀城主の永井尚政が、かつて曹洞宗の開祖道元上人が伏見の深草に開いた寺の名前に因み、宇治の地に菩提寺として復興した曹洞宗の寺院です。
 
 興聖寺へは、宇治橋方面から宇治川の北側(右岸)を川の流れを見ながら川上へ向い、宇治神社の鳥居前をさらに上流に向かいます。
 
 この道は、四季折々に気持ちの良い散歩道です。とりわけ新緑や紅葉の頃はすばらしく、朝霧橋や川の対岸に見える浮島の十三重石塔は、宇治らしい情緒を感じさせてくれます。
 
 梅雨時の晴れ間が見られた早朝に歩いて見ました。
 
 
 
1 宇治川の眺め
 
●ゴイサギと宇治川と浮島十三重石塔
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さらに上流に進むと、宇治川に面して、石造りの興聖寺の総門があります。
 
 
2 興聖寺
 
 
 
総門
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「琴坂」
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 総門をくぐると、緩やかな坂道が楼門まで約200m続いています。この坂道は坂道に沿って流れ落ちる谷川のせせらぎが琴の音色のようだということから「琴坂」と名づけられています。
 
 坂道の両脇には大きな楓の木々が空を覆うようで、秋は紅葉のトンネルになりますが、新緑の頃もとてもきれいです。
 
 また、ゴールデンウィークの頃には坂の両脇に自生する山吹の花が咲き、そのようすはとても情緒があります。
 
 
山門(楼門)
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  天保12年改築。竜宮造りの門。楼上に十六羅漢をまつる。
 
 
 山門(楼門)をくぐると、正面に薬医門、左に秋葉大権現、右に鐘楼がある。
 
 
薬医門
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 山門(楼門)をくぐって正面。
 
 弘化3年(1846)の改築で、別名「中雀門」と呼ばれる。
 
 薬医門の左側に、推定樹齢300年といわれる、ひめこまつがある。
ひめこまつは推定樹齢300年という。
 
 
秋葉大権現
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 薬医門をくぐると、正面に法堂、右に庫裏、左に禅堂が朝日山を背景に、いかにも禅の修業道場らしく整然と立ち並ぶ。
 
朝日山の緑にいだかれた境内は、いつ訪れても禅寺らしい張りつめた空気が感じられる。
 
 
法堂(本堂)
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 正面の法堂は伏見城の遺材を使って造られたと伝えられ、血天井や鴬張りの廊下などがある。
 
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・血天井
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法堂前に広がる石組みの庭園
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建物に囲まれ、鶴と亀をかたどる。
  
 
開山堂(老梅庵)
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 法堂から奥にあり、開山の道元禅師像など祖像を祀る。
  
 
●不動明王の石仏とギボウシの花
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3 沿革  
・曹洞宗の開祖道元禅師が、伏見・深草の極楽寺跡(現宝塔寺)に創建した興聖宝林禅寺が始まり。
 
・その後、禅師が越前の永平寺に移ると衰退し、その後も応仁の乱の兵火で焼失した。
 
・慶安元年(1648)、淀城主の永井尚政が、廃絶した興聖寺を惜しみ両親の菩提寺として、宇治の地に諸堂を建立。寺地は宇治七名園の一つの朝日茶園であった。
 
・現在は曹洞宗の修行道場ともなっている。本尊は釈迦如来。
 
・安置している木像の聖観音立像(平安後期)は、かつて、源氏物語宇治十帖の一つ、手習いの杜に祀られていた事から、「手習い観音」と呼ばれている。
 
 
 
4 宇治十二景
 
 貞享2年(1685)に水雲堂孤松子の撰により刊行された「京羽二重」に記されている宇治の12の名勝。
 
 春岸山吹・清湍蛍火・三室紅楓・長橋暁雪・朝日靄暉・薄暮柴舟・橋姫水社・釣殿夜月・扇芝孤松・槙島瀑布・浮舟古祠・興聖晩鐘
 
 興聖寺は、「春岸の山吹」と「興聖の晩鐘」がある名所とされた。
 
 
 
※参考
道元は宋からの帰国後、寛喜2年(1230)から、京都深草の安養院に滞在していた。天福元年(1233)、道元は、深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院である極楽寺の跡に観音導利興聖宝林禅寺(興聖寺)を開創する。嘉禎2年(1236)には伽藍を整備し、僧堂が開かれた。
 
興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に両親の菩提寺として、復興したのが今ある興聖寺である。
(以上、フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
 
 
 
5 京都検定の出題歴
平成18年度1
(問)淀城主の永井尚政が宇治の地に菩提寺として復興し、総門から続く琴坂に植えられた桜、カエデなどが有名な曹洞宗の寺院はどこか。
 
(正解)興聖寺
 
 
平成17年度2級(改)
(問)次の伝説の石の名前は何か。
豊臣秀吉が伏見城を築いた時、宇治川の水を城内に引くために、地下水道を引かせたが、その水の取り込み口を隠すための石。
 
(正解)亀石
 
 
 
6 練習問題
(1)曹洞宗永平寺派。山号:仏徳山。本尊:釈迦三尊。
 
(2)沿革
・曹洞宗の開祖( 1 )が伏見の深草に道場を創建。
・その後廃絶し、慶安元年(1648)、淀城主の( 2 )が宇治七名園の一つの「朝日茶園」であった現在の場所に再興。
 
(3)宇治十二景の名勝
「春岸の( 3 )」「興聖の( 4 )」など
 
(4)( 5 )
 宇治川右岸に立つ石造りの総門から山門まで続く約200mの参道。両脇を流れる谷川のせせらぎが琴の音色のように聞こえることから名付けられたという。山吹、紅葉の名所として知られ、宇治十二景の一つに数えられ、昔から多くの人に親しまれてきました。
 
(5)伽藍
 
①本堂
( 6 )の遺構を移築したもので血の手形が残る天井や鴬張りの廊下などがあります。
 
②平安時代中期の木像聖観音立像
本堂の奥に建つ天竺殿に安置されています。『源氏物語』宇治十帖の「( 7 )」に因む手習観音という聖観音像といわれています。
 
【正解】
1
道元
2
永井尚政
3
山吹
4
晩鐘
5
琴坂
6
伏見城
7
手習
 
宇治橋の近く、「橋寺」と呼ばれている放生院
 
 
 京都には鹿苑寺を通称「金閣寺」、慈照寺を通称「銀閣寺」、蓮華王院を通称「三十三間堂」と呼ぶように、「通称寺」と呼ばれる寺院が各地にあります。
 
 
 宇治橋から宇治川の東岸(北側)を川に沿って歩きはじめてすぐ左側に、通称「橋寺」と呼ばれる放生院常光寺という真言律宗の寺院があります。
 
 放生院は、推古天皇12(604)に聖徳太子の発願により、秦河勝が建立した地蔵院が始まりとされる古い歴史を持ち、鎌倉時代後期の弘安4(1281)、大和西大寺の僧、叡尊が現在地に再興したと伝えています。
 
 叡尊は、宇治川で亡くなった人馬などの霊を慰めるため、中洲(浮島)に高さ約15mの十三重石塔を建立し、また、盛大な放生会を営んだことから寺名を「放生院」と称するようになったといい、後宇多天皇は叡尊のこうした行いを褒め、寺領を与えるとともに宇治橋の管理を任せたことから、放生院は、以後「橋寺」と称されるようになったと伝えられています。
 
・宇治橋
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・浮島にある十三重石塔
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・十三重石塔とゴイサギ
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 放生院の山門をくぐって石段を上がると境内が広がり、ここには「宇治橋断碑」という、宇治橋創建の経緯が記されたという有名な石碑があり、日本三古碑の一つとして大変価値の高いものとされ、重文に指定されています。
 
 境内には橋懸観音と十二支・守本尊、「橋寺」と彫られた標石などとともに、織部灯籠が立っています。
 
6月半ばの週末に訪れてみると、境内ではあじさいがきれいでした。
 
 
※場所
 
 
1 境内
山門
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 山門くぐって石段を上がると、境内が広がり、左手に宇治橋断碑(重文)があり、奥に本堂が見える。
 
・山門脇のあじさい
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●宇治橋断碑(重文)
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・もとは橋畔にあったが、その後流出して行方がわからなくなっていた。1791年に付近の土中から断片(石碑の上から1/3くらいのところ)が発見され、「帝王編年記」という書物に収められていた碑文の全文により、欠如していた石碑の下の部分を補って再建されたという。
 
・碑文の内容から宇治橋は大化2(646)に初めて架けられたとされる。
 
・見学できるのは、3月、4月、5月、9月、10月、11月の午前9時から午後4時まで。
 拝観料200円。
 
※日本三古碑
①多賀城碑(宮城)
②多胡碑(群馬)
③宇治橋断碑
 
 
本堂
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・本尊:地蔵菩薩(鎌倉中期、重文)
 
橋寺の古い標石と織部灯籠
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十二支・守本尊
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橋懸観音
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3 沿革
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・推古天皇12(604)、聖徳太子の発願により、秦河勝が建立した地蔵院が始まりとされる。
 
・その後、宇治川橋が架けられたが、大雨のたびに洪水が起き度々流失し、地蔵院も次第に衰退していく。
 
・鎌倉時代後期の弘安4(1281)、大和西大寺の僧、叡尊が現在地に再興。

・叡尊は、宇治川で亡くなった人馬などの霊を慰めるため、中洲(浮島)に高さ約15mの十三重石塔を建立。(現在の十三重の石塔はその後の再建)
 
・叡尊は、寺で盛大な放生会を営んだ。このことから寺名を「放生院」と称するようになったという。
 
・後宇多天皇は叡尊のこうした行いを褒め、寺領を与えるとともに宇治橋の管理を任せた。以後「橋寺」と称されるようになったと伝えられている。
 
・宇治橋はその後も織田信長や徳川家康などによって架け替えられている。
 
 
 
4 練習問題
①正式名:雨宝山常光寺。本尊:地蔵菩薩。
 
②通称「( 1 )」。ここで大放生会を営んだことから、「( 2 )」ともよばれる。
 
③沿革
推古天皇12年(604)に、( 3 )の発願で、( 4 )が開創。その後、宇治橋の管理寺となり、弘安9年(1286)、西大寺の( 5 )が宇治橋の架け替えにあたり、当寺を修復。寛永8年火災で被災後復興。
 
④( 6 )(重文)
646
年に宇治橋が初めて架けられたことを記念する石碑。
 
⑤( 7 )
宇治川の中洲。高さ15m。日本最大の石塔。弘安9年の宇治橋再興の時に、( 8 )が建立。
 
【正解】
1
橋寺
2
放生院
3
聖徳太子
4
秦河勝
5
叡尊
6
宇治橋断碑
7
浮島十三重塔
8
叡尊
 

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宇治橋から浮島十三重石塔へ
 
 
宇治は、宇治川の清流のもと、平等院をはじめとする歴史的遺産にあふれ、また自然の豊かな景勝地で、はるかな歴史の流れと四季の移ろいを感じることのできるところです。
 
また平安朝文学の最高峰とうたわれた源氏物語宇治十帖(源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋まで)の古跡が各地に点在する詩情豊かなところでもあります。
 
 梅雨時の晴れ間が見られた週末の早朝、宇治川に沿ってのんびりと歩いてみました。
 
●ゴイサギと宇治川と浮島十三重石塔
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●宇治橋
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・橋の上からの景色
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<宇治橋の歴史>
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宇治橋は大化2年(646)に初めて架けられた日本最古級の橋で、その後戦乱や災害などで被災の都度、架け替えられ、現在の橋は、平成8年に架け替えられたもの。長さ155.4m、幅25m。
 
宇治川の上流にあたる瀬田川に架かる「唐橋」(大津市)と現在の大山崎町あたりで淀川に架かって「山崎橋」(現存せず)をあわせて、日本三古橋といわれていた。
 
 
●「三の間」
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 宇治橋の中央部に上流側に突き出た部分。豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた場所と伝えられています。明治以前まではここに橋の守護神・橋姫が祀られていました。毎年10月の宇治茶まつりでは、今もここから水が汲まれます。
 
 
●宇治橋のたもとにある通圓と駿河屋
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 通圓の創業は平安時代末と伝わります。
 
 
 
●紫式部の像と夢浮橋の古蹟
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 京阪宇治駅方面から宇治橋を渡ると、宇治橋西詰で、ここから道路は大きく3つに分かれます。
 
ここでは、平等院の参道に向かいます。
 
 
●参道に建ち並ぶ宇治茶を扱う老舗
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●平等院入口
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平等院の脇から土手に出て、宇治川の左岸(西側)に沿って、「あじろぎの道」と呼ばれる小道が府道に合流する地点まで続いています。
 
 
●中の島
宇治川の中洲である「中の島」には二つの川洲があり、下流側が橘島、上流側が塔の島といい、橘島には橘橋、塔の島には喜撰橋という小さな橋が架けられています。
 
塔の島には、十三重石塔(重文)があります。
 
 
・中の島と橘橋
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・中の島と喜撰橋
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・喜撰橋のたもとにいたアオサギ
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●十三重石塔(重文)
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 高さ約15m、現存する日本最大の最古の石塔。もとは、鎌倉時代に奈良西大寺の高僧の叡尊によって、宇治川での殺生の罪を戒め、供養塔として建立されたものと伝えられています。
 
 その後、洪水のために倒壊と修復・再興を繰り返し、宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間、川中に埋没していたそうです。
 
 明治40(1907)より再興に向けた工事が行われ、川床の泥砂に埋もれた巨石の所在確認を第一歩に発掘に着手、工事が行われ、現在の姿が再現されました。
 
 
梅雨の晴れ間の宇治、恵心院と境内の花
 
 
恵心院は、宇治神社のすぐ近く、朝日焼の窯元の横の道を入ったところにあります
 
ここは、歴史をさかのぼれば弘仁13(822)、弘法大師の開基による真言宗智山派の寺院で、その後、種々の戦火にあい、寛弘2(1005)、比叡山横川の恵心僧都(源信)が再興し、寺号を「朝日山恵心院」と改名しました。
 
江戸時代に入り、淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍の整備がなされ、豊臣秀吉、徳川家康らの庇護を受け繁栄しましたが、今では永禄2年(1559)造営の本堂及び楼門を残すのみとなっています。
 
ここは、境内に四季折々の花がいたるところに咲き乱れ、その種類も多く、花の名前の書かれた札のある木も多く、ここで花の名前を覚えて帰ることができるので、宇治の散歩には欠かせないお寺です。
 
 
※場所
 
 
1 境内
●参道
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春は水仙や山吹の花がきれいなことで知られる。
 
・弘法大師像と半夏生
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半夏生はドクダミ科の多年性植物で、夏至を過ぎた頃に長さ1015cmほどの穂状花序を葉のつけ根につける。また、花のすぐ下に位置する葉の表面が白く変化する。
名前の由来は、半夏生(太陽の黄経が100°になる日)の頃に花を咲かせることに由来する説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説がある。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
 
 
●表門と「恵心僧都説法の遺場」と書かれた標石
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●本堂
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本尊の木造十一面観音立像は平安時代の作で、宇治市指定文化財。
 
 
 
2 境内で見られた花
 
・のうぜんかつら
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・アガパンサス
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・シモツケソウ
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・さまざまなアジサイ
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3 沿革
<説明板>
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 恵心院は弘仁13(822)、弘法大師が開基した龍泉寺を源とするという古い歴史を持ち、真言宗智山派に属する古刹で、戦火による荒廃の後、寛弘2(1005)、比叡山の恵心僧都(源信)によって再興されたと伝えられています。恵心院という名はそれにちなんでいます。
 
 江戸時代には淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍が整備され、徳川家康らの庇護を受け繁栄したと伝えられています。
 
 現在では永禄2(1559)造営の表門と本堂だけが残っています。
 
 
●本尊の木造十一面観音立像について
<説明板>
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平安時代の作で、宇治市指定文化財になっています。
 
 
梅雨時の深草の宝塔寺を散策する
 
 
宝塔寺は東山三十六峰の南端、伏見稲荷のある稲荷山から南に続く丘陵にあります。
 
ここは室町時代の四脚門で重文の山門から、本堂に向ってなだらかな坂をまっすぐに石畳の参道が続いています。
 
宝塔寺は梅雨時でも、小雨であれば、石畳や石段などがしっかりしているので歩きやすく、霧につつまれたような深草の町並みもきれいで、重文の多宝塔の眺めもなかなか趣があります。
 
 
 
 
1 境内
 
境内の西側に四脚門(総門)があり、ここから仁王門に向かってなだらかな参道を上がっていくと、仁王門があり、仁王門をくぐると正面に本堂があり、本堂の右手に多宝塔があります。
 
総門
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 四脚門で、建てられた年代が室町時代中期と古く、重文に指定されている。
 
 
極楽寺の伽藍石と開創千百年記念の石像
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 総門脇にある。
 
極楽寺は、平安時代の嘉祥年間(848-51)に藤原氏の菩提寺として創建され、稲荷山の南に続く丘陵地一帯を寺域とする大寺であったと伝えられている。
 
●参道と参道わきで咲いていたクチナシの花
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参道と日像荼毘処 
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 参道の途中にある。
 
日蓮宗の日像上人は、他の宗派からの反発などを受けながら京都での布教活動に力を注ぎ、亡くなった後、宝塔寺は深草山鶴林寺(かくりんじ)と改名され、遺言により日像はここで荼毘(火葬)に付された。
 
 
 
仁王門
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宝永8年(1711)の再興で、近年修復された。
 
・サツキと仁王門
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中央に橘紋を描いた赤い提灯が吊下がり、天井板約250枚の一枚一枚には、色鮮やかな牡丹の花が描かれている。
 
 
本堂
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 慶長13年(1608)の建立で、日蓮宗本堂としては京都最古。
 
 平成14年度に、本堂解体修理の大工事が竣工した。
 
 本尊の釈迦如来と十界曼陀羅の画像、左右に日蓮・日像の両木像を安置。
 
 
多宝塔(重文)
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市内に現存する市内最古の多宝塔。
 
一層目は行基葺きで、二層目は本瓦葺き。
 
説明には、「永享10年(1438)を下らず、昭和13年修理」と書かれている。
 
 
妙顕寺歴代廟所
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妙顕寺は宝塔寺の本山にあたり、ここには妙顕寺歴代廟所があり墓碑が並ぶ。
 
 
日像上人廟
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 扁額は「寂光」
 
●日像上人銅像
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日像上人13歳の姿の銅像と「経一丸さま」と書かれている。
 
 
鐘楼
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七面宮への石段
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七面宮
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七面山中腹にあり、石段を上がっていく。七面宮は、もと宝塔寺の鎮守社で法華守護の吉祥天である七面天女を祀っている。
 
 
 
2 沿革
 
<説明板>
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・深草山と号する日蓮宗の寺院。
 
・寺伝によれば、関白藤原基経が発願し、昌泰2年(899)に藤原時平が大成した藤原氏の菩提寺として創建した極楽寺に始まる。
 
・当初は真言宗であったが、徳冶2年(1307)、住持の良桂律師が日蓮の法孫・日像に帰依し、日蓮宗に改宗。
 
・また、日像が京都に通じる七つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の一つが、当寺の日像廟所に奉祀されたことにちなみ、寺名を宝塔寺と改称したとされる。
 
・本堂(重文)は江戸初期の1608年の創建で、本尊の十界曼荼羅、釈迦如来立像、その左右に日蓮・日像の像が祀られている。
 
・行基葺の多宝塔は永享10年(1438)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(総門)とともに、重文に指定されている。
 
・境内には、肺病治療の名医で、肺病平癒の信仰を集める宗有とその妻妙正の墓があり、夫婦塚と呼ばれている。
 
・本堂背後の七面山には、寛文6年(1666)に勧請された七福吉祥の七面大明神を祭る七面宮がある。
 
 
 
3 京都検定の出題歴
(1)平成19年度2
藤原基経が創建した極楽寺を起源とし、「行基葺」の屋根が美しい多宝塔(重文)で知られる寺院はどこか。
(ア)本法寺  (イ)妙蓮寺  (ウ)宝塔寺  (エ)常寂光寺
 
【正解】(ウ)
 
 
 
4 練習問題
(1)( 1 )宗妙顕寺派。山号「深草山」。
 
(2)沿革
・嘉祥年間(84851)に藤原基経が( 2 )を開創したのが始まり。極楽寺は源氏物語にも登場する。

・その後、住持の良桂が日像に帰依して真言宗から日蓮宗へ改宗。日像没後、廟所として鶴林院宝塔寺と改称。応仁の乱後、日銀が復興。
 
(3)本尊:釈迦如来・十界曼陀羅
左右に、日蓮、日像の像を祀る。
 
(4)本堂
慶長13年(1608)の建築。重文。日蓮宗の( 3 )としては京都最古。
 
(5)総門(四脚門)
室町時代の建築。重文。
 
(6)( 4 )
永享10年(1438)建築。重文。
 
(7)( 5 )
肺病治療の名医であった宗有・妙正の墓。肺病平癒の信仰を集める。
 
【正解】
1
日蓮
2
極楽寺
3
本堂
4
多宝塔
5
夫婦塚

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