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千本えんま堂と「普賢象桜」
 
 
 千本えんま堂は、千本通に沿った千本寺之内と千本鞍馬口の間の西側にあります。
 
 正式には「引接寺」という真言宗の寺院ですが、仏師定勢作と伝える閻魔王(本尊)をまつり、古くから「千本えんま堂」と呼ばれてきました。
 
 このお寺を開いたのは、小野篁(802853)で、あの世とこの世を往来する神通力を持ち、昼は宮中で仕え、夜は閻魔庁に仕えていたと伝えられています。
 
 また、お寺の始まりについては、平安京の朱雀大路の起点であるこの地に閻魔王が安置されたことが始まりと言われ、その後、寛仁元年(1017)に定覚上人がこの地に引接寺を開山したと伝えています。
 
 かつて、この地は京の葬送の地の一つ、蓮台野に接し、死者を弔うために鐘をついていたのが、いつしか死者をこの世に迎えるためにお盆に境内の迎え鐘を撞くようになりました。
 
 今でも87日〜15日のお精霊迎えは、境内の迎え鐘を撞きに大勢の人が訪れます。
 
 境内の奥には紫式部供養塔と伝える十層の石塔があり、国の重文の指定を受けています。最近補修工事が行われ、かたわらには紫式部の像が建てられました。
 
年中行事としては、毎年51日〜5日に行われる大念仏狂言が有名で、京の3大念仏狂言の一つとされていますが、ほとんどの演目にセリフがあるのが特徴です。
 
 ここの境内の奥に「普賢象桜」と名づけられた八重桜があり、424日に訪れた時には満開でした。
 
 
 ※場所
 
 
1 境内
 
●千本通に面した入口から見た境内
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 左側に本堂、右側に鐘楼、中央奥に「普賢象桜」などの八重桜が咲いている。
 
 
●本堂
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 長亨2年(1488)に定勢によって造られたという閻魔王坐像を本尊とし、脇侍を左に司命、右に司録を安置。
 
 
鐘楼
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 87日〜15日のお精霊迎えは、境内の迎え鐘を撞きに大勢の人が訪れます。
 
 
 十重石塔(重文)と紫式部像
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 十重石塔は至徳3年(1386)の銘を持つ。紫式部の供養塔とされている。
 
 
2 境内で咲いていた桜
 
●普賢象桜
遅咲きの八重桜。咲いた時に双葉を持ち、散る時にはひらひらと落ちるのではなく、花冠のままぼとりと落ちる。 
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●関山桜
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「普賢像桜」の名の由来は、花の中央に見える葉化した雌しべが、普賢菩薩の乗る象の牙に似ている事からこの名で呼ばれているそうです。
 
足利義満の時代に後小松天皇がその美しさを激賞したと伝えられ、以来この地で咲き続けています。
 
また、この花は椿の様に花ごと落ちる事でも知られ、むしろその落花の風情にこそ真価があるとまで言われます。
 
 
 
3 沿革
<説明板>
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・正式名称は、光明山歓喜院引接寺という。
 
・本尊に閻魔王をまつり、一般に「千本えんま堂」と呼ばれている。
 
・開基は小野篁(802853)で、平安京の朱雀大路の起点であるこの地に閻魔王が安置されたことが始まりと言われている。
 
・その後、寛仁元年(1017年)に定覚上人がこの地に引接寺を開山した。
 
 
 
4 年中行事
千本えんま堂大念仏狂言
・毎年51日〜4日に行われる。
 
・京の三大念仏狂言の一つ。
 
・能・狂言の影響を強く受ける環境にあり、念仏狂言の中にセリフがはいる特殊な形態をとるようになった。
 
・京都市の無形民俗文化財に指定。
 
 
 
5 練習問題
(1)通称「( 1 )」
 
(2)高野山真言宗、本尊は閻魔王。開基は( 2 )。
 
(3)お精霊迎えの行事。(87日〜15日)
( 3 )鐘。かつて、葬送の地である( 4 )に死者を葬るときに撞いた。
 
(4)( 5 ):51日〜4
京都の三大念仏狂言の一つ。室町時代は民衆の町堂だった。
 
(5)( 6 )桜
後小松天皇ゆかりの名木。現在の桜は佐野藤右衛門の寄進。
 
(6)閻魔王
仏師の( 7 )の作。応仁の乱以後。
 
【正解】
1
千本閻魔堂
2
小野篁
3
迎え
4
蓮台野
5
閻魔堂大念仏狂言
6
普賢象
7
定勢
 

随心院と境内の桜

随心院と境内の桜
 
 
 随心院は、市営地下鉄東西線 の小野駅 から東に向かって5分くらい歩いたところにある真言宗善通寺派の大本山の寺院です。
 
 このあたりには、かつて小野小町の住居があったという伝承があり、境内には、小町が恋文を埋めたという「文塚」、「小町化粧井戸」と名づけられた井戸、書院には深草少将の「百夜通い」の伝説のカヤの実が展示され、随心院から少し離れた所には、カヤの大木が残っています。
 
 随心院はまた、「はねず梅」と呼ばれる遅咲きの薄紅色の梅のある小野梅園が広く知られていますが、梅が終わると桜、さらにシャクナゲ、ツツジ、サツキと境内の花が咲き継いで行きます。
 
 4月半ばの週末に訪れたときは、境内の大きなソメイヨシノの花が終わりかけでしたが、薬医門から中を見ると、しだれ桜がとてもきれいでした。
 
 また、シャクナゲが咲き始めていました。
 
 今年は梅や桜の開花が遅れましたが、もともと初夏の花は例年同様の時期に咲くことになりそうです。
 
 
※場所
 
 
 
1 境内の桜
●小野梅園わきの大きな桜と薬医門と醍醐の山並み
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・散り敷いた桜の花びら
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●薬医門から門の内側、大玄関方面を見たところ
・しゃくなげ
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・しだれ桜
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 薬医門は、江戸時代の寛永年間に、徳川秀忠夫人天真院尼の寄進によって建造さ
 
・大玄関は寛永年間(1624-1631)九条家ゆかりの天真院尼の寄進により建立。
 
●庫裏とその前の小野小町歌碑
 庫裏は宝暦3(1753)、二条家からの移築。同家の政所御殿であったもの。
 
 ここから拝観料を払い、表書院、本堂などを拝観する。
 
・咲き始めたしゃくなげ
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・小野小町歌碑
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 庫裏の前庭にある。
 
「花の色は移りにけりな いたづらに我が身世にふる ながめせし間に」
 
 
 
≪有料拝観部分≫
・表書院
寛永年間(1624-1631)に徳川秀忠夫人天真院の寄進により建立。
・表書院「能の間」
九条家の寄進により宝暦年間(1753-1764)に建造され、平成3(1991)に改修工事が行われた。
 
・本堂
桃山期(1599)の建築で寝殿造。
 
 
 
2 沿革
・真言宗善通寺派の大本山。弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海僧正が正暦2年(991)に創建した。山号「牛皮山」。本尊は如意輪観音。
 
・もとの名は牛皮山曼荼羅寺といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を捜しあてて世話をしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。
 
・その後、第五世増俊が曼荼羅寺の塔頭として随心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡の宣旨を受け、門跡寺院となった。
 
・この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や化粧の井戸などが残されている。
 
・梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」が披露される。
 
泉涌寺新善光寺のしだれ桜
 
 
 泉涌寺塔頭の新善光寺は、東大路通から泉涌寺道を上がっていくと、戒光寺と今熊野観音寺の間の左側に幼稚園があり、そのわきの道をまっすぐ下っていくと山門が見えるお寺です。
  
●山門
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・標石
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・山門から泉涌寺道方面を見る
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 ここは、泉涌寺道からは坂の下にある山門の内側のようすが分かりません。
 
 でも、思い切って坂を下り、山門をくぐってみると、中門までの間に見事なしだれ桜があります。
 
また、中門の奥には観光客にはあまり知られていない新善光寺の境内がひろがっています。
 
本堂、書院と池のある庭園などがあり、庭園の一角に愛染明王堂があります。
 
ここに安置された愛染明王が泉山七福神の番外とされていることから、毎年成人の日に行われる泉山七福神めぐりのときには大勢の参拝客でにぎわいます。
 
 なお、新善光寺は、後嵯峨天皇が信濃の善光寺の阿弥陀如来像を模刻鋳造させ宮中で祀っておられたのを、都の人々が遠い信濃まで参詣に行くのが大変であろうと、これを本尊として、一条大宮に寺院を建立したのが始まりと伝え、その後、応仁の乱で焼失後、泉涌寺の山内に再建され、現在に至っています。
 
 ご利益は「除災招福」、「家庭円満」。現在では「恋愛成就」の祈願も多いそうです。
 
 
 
●場所
 
 
●しだれ桜のようす
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 早朝だったこともあり、他に誰も見に来ている人もなく、しだれ桜を独り占めして堪能することができました。
宇治の放生院(通称「橋寺」)と境内の桜
 
 
 宇治川沿いの桜はとても美しく、この時期は観光客もいない早朝に訪れて、この景色を楽しんでいます。
 
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 宇治橋から宇治川の東岸(北側)を川に沿って歩きはじめてすぐ左側に、通称「橋寺」と呼ばれている放生院という真言律宗の寺院があります。
 
 放生院は、推古天皇12(604)に聖徳太子の発願により、秦河勝が建立した地蔵院が始まりとされる古い歴史を持ち、鎌倉時代後期の弘安4(1281)、大和西大寺の僧、叡尊が現在地に再興したと伝えています。
 
 叡尊は、宇治川で亡くなった人馬などの霊を慰めるため、中洲(浮島)に高さ約15mの十三重石塔を建立し、また、盛大な放生会を営んだことから寺名を「放生院」と称するようになったといい、後宇多天皇は叡尊のこうした行いを褒め、寺領を与えるとともに宇治橋の管理を任せたことから、放生院は、以後「橋寺」と称されるようになったと伝えられています。
 
 放生院の山門をくぐって石段を上がると境内が広がり、ここには「宇治橋断碑」という、宇治橋創建の経緯が記されたという有名な石碑があり、日本三古碑の一つとして大変価値の高いものとされ、重文に指定されています。
 
 境内には橋懸観音と十二支・守本尊、「橋寺」と彫られた標石などとともに、織部灯籠が立っています。
 
4月半ばの週末に訪れてみると、境内は桜がきれいで、しだれ桜も咲いていました。
 
 
場所
 
 
1 境内のようす
山門
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 石段を上がると境内が広がり、左手に宇治橋断碑(重文)があり、奥に本堂が見える。
 
 
境内の桜の古木と宇治橋断碑(重文)
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・宇治橋断碑(重文)
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 宇治橋創建の経緯が記された石碑。
 
・もとは橋畔にあったが、その後流出して行方がわからなくなっていた。1791年に付近の土中から断片(石碑の上から1/3くらいのところ)が発見され、「帝王編年記」という書物に収められていた碑文の全文により、欠如していた石碑の下の部分を補って再建されたという。
 
・碑文の内容から宇治橋は大化2(646)に初めて架けられたとされる。
 
・見学できるのは、3月、4月、5月、9月、10月、11月の午前9時から午後4時まで。
 拝観料200円。
 
※日本三古碑
①多賀城碑(宮城)
②多胡碑(群馬)
③宇治橋断碑
 
 
本堂
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橋寺の古い標石と織部灯籠
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十二支・守本尊
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●橋懸観音
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しだれ桜 とあたりに散り敷いた桜の花
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3 沿革など
①真言律宗の寺院。寺名は放生院常光寺。
・本尊:地蔵菩薩(鎌倉中期、重文)
・不動明王像(重文)
 
②由来
・推古天皇12(604)、聖徳太子の発願により、秦河勝が建立した地蔵院が始まりとされる。
 
・その後、宇治川橋が架けられたが、大雨のたびに洪水が起き度々流失し、地蔵院も次第に衰退していく。
 
・鎌倉時代後期の弘安4(1281)、大和西大寺の僧、叡尊が現在地に再興。

・叡尊は、宇治川で亡くなった人馬などの霊を慰めるため、中洲(浮島)に高さ約15mの十三重石塔を建立。(現在の十三重の石塔はその後の再建)
 
・叡尊は、寺で盛大な放生会を営んだ。このことから寺名を「放生院」と称するようになったという。
 
・後宇多天皇は叡尊のこうした行いを褒め、寺領を与えるとともに宇治橋の管理を任せた。以後「橋寺」と称されるようになったと伝えられている。
・宇治橋はその後も織田信長や徳川家康などによって架け替えられている。
 
 
 
4 練習問題
①正式名:雨宝山常光寺。本尊:地蔵菩薩。
 
②通称「( 1 )」。ここで大放生会を営んだことから、「( 2 )」ともよばれる。
 
③沿革
推古天皇12年(604)に、( 3 )の発願で、( 4 )が開創。その後、宇治橋の管理寺となり、弘安9年(1286)、西大寺の( 5 )が宇治橋の架け替えにあたり、当寺を修復。寛永8年火災で被災後復興。
 
④( 6 )(重文)
646
年に宇治橋が初めて架けられたことを記念する石碑。
 
⑤( 7 )
宇治川の中洲。高さ15m。日本最大の石塔。弘安9年の宇治橋再興の時に、( 8 )が建立。
 
【正解】
1
橋寺
2
放生院
3
聖徳太子
4
秦河勝
5
叡尊
6
宇治橋断碑
7
浮島十三重塔
8
叡尊
 
養源院と境内のしだれ桜
 
 
養源院は、蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する浄土真宗遣迎院派の寺院です。
 
文禄3年(1594)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の供養のために秀吉に願って成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建し、その後、火災による焼失を経て、元和7年(1621)、淀殿の妹である徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興され、以後は徳川氏の菩提所となりました。
 
本堂は、元和5年(1619)に破却された秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされ、左右と正面の廊下の天井は血天井として知られています。
 
また、俵屋宗達筆の襖絵や獅子麒麟、白象の杉戸絵があり、重文に指定されています。
 
 本堂内はすべて写真撮影禁止です。
 
ここを訪れる大半の人たちは、参道をまっすぐに上がって本堂に入って、その後はまたまっすぐ参道を戻っていきますが、参道の脇の方や鐘楼、ヤマモモの木など、ぜひ周りをみていただきたいところです。
 
こちらの境内は、とりわけ春のしだれ桜の頃が素晴らしく、そのほか、参道のカエデの新緑や紅葉の頃、初夏のヤマモモ、夏の百日紅、秋の彼岸花など、四季折々の花が訪れる人を癒してくれます。
 
 4月半ば、本堂前の大きなしだれ桜が咲いているのを今年も見ることが出来ました。ただ今年の花は去年よりもボリュームが小さかったのが少し残念でした。
 
 
※場所
 
 
1 境内
 
●本堂への参道と参道脇に咲いていた桜
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●本堂と本堂前の大きなしだれ桜
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●境内としだれ桜
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養源院の南隣は後白河天皇法住寺陵ですが、休日は御綾の参拝はできません。そんなときには、養源院の鐘楼から塀越しに隣を見てみましょう。
 
鐘楼から後白河天皇法住寺陵のお堂が見えます。
 
 
●境内社
 山門から参道を入って右側に白衣弁才天があり、参道途中の左側に毘沙門天を祀ったお堂がある。
 
・白衣弁財天
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2 沿革
 
・元和5年(1619)に破却された秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされる。左右と正面の廊下の天井は血天井として知られる。
 
・血天井とは、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し,最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。同じ血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもあるが、生々しさでは養源院が一番といわれる。
 
・鶯張廊下は、日光東照宮の眠り猫で有名な江戸初期の大工・彫刻師である左甚五郎が造ったものと伝わる。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より抜粋)
 
 
 
3 重文
・金地着色松図(襖8面、戸襖4面)12面、
 
・着色杉戸絵(表獅子・裏波に麒麟図、表獅子・裏白象図)4枚(8面)、俵屋宗達筆
 
 
 
4 庭園
小堀遠州の作庭で東山連峯の阿弥陀ケ峯を遠景とし、水が北の池より南の池へ注ぐ風景を造作したもので、築山部分の涸滝石組のすばらしさ、南の池には海辺の奇石を多く用いた珍しい庭園で都林泉名勝図会に見られる。園内の一文字、十文字の手洗鉢は有名である。(お寺のパンフレットより)
 
 
 
5 沿革
・豊臣秀吉の側室淀殿が、父、浅井長政の追善のため、文禄3年(1594)に成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として建立した寺で、長政の法号「養源院」を寺号とした。
 
・建立後、まもなく火災遭ったため、元和7年(1621)に、淀殿の妹で徳川秀忠夫人の崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建し、以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。
 
・本堂の廊下の上の天井は、関ヶ原の合戦の前、家康の命を受けて伏見城を死守した鳥居元忠以下の武士が自刃した時の廊下の板を天井に上げ、その霊を弔ったもので、俗に「血天井」として知られている。
 
・本堂の杉戸および襖の絵(ともに重文)は、俵屋宗達の筆によるもので、杉戸には唐獅子、白像、麒麟等の珍しい行動が描かれており、奇抜で新鮮味にあふれ、中学、高校の美術の教科書にも用いられている。
 
 
 
6 京都検定の出題歴
【問】平成16年度2
 文禄3年(1594)、淀君が父の浅井長政の菩提を弔うために建立し火災による焼失後、淀君の妹の崇源院が再建した寺院はどこか。
(ア)智積院  (イ)養源院  (ウ)妙法院  (エ)即成院
 
【正解】(イ)
 
 
 
7 練習問題
(1)沿革
①文禄3年(1594)に、豊臣秀吉の側室淀君が父の( 1 )の菩提を弔うために、成伯法印を開山として建立。

②焼亡後、元和7年(1621)、淀君の妹の崇源院が、夫である( 2 )に願い、( 3 )の中御殿の遺構を移して再建。以後、将軍家の位牌所、皇室の祈願所に。
 
(2)本尊「阿弥陀如来」
 
(3)「( 4 )」
伏見城落城時に自刃した家康の家臣( 5 )らの血で染められた廊下の板を、供養のために天井板に用いたもの。
 
(4)( 6 )の杉戸絵:重文。
「獅子図」「麒麟図」「白像図」8面。
鳥居元忠らの慰霊のために描いたもの。
 
(5)襖絵:重文
「松図」12
 
(6)庭園
( 7 )によるもの。
 
【正解】
1
浅井長政
2
徳川秀忠
3
伏見城
4
血天井
5
鳥居元忠
6
俵屋宗達
7
小堀遠州
 

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