|
梅雨時の宇治上神社へ
宇治上神社は、宇治川をはさんで平等院の向かい側にあり、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。
祭神は宇治神社の祭神でもある皇子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこのみこと)のほか、父の応神天皇、兄の仁徳天皇を祀っています。かつては平等院の鎮守社とされていました。
本殿は平安時代後期の、神社建築としては現存最古とされる建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけてあり、覆屋の正面の格子の間から、三棟の内殿を見ることが出来ます。
なお、ここでは内殿の蛙股が必見です。
また、拝殿は鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したものといわれ、寝殿造の趣きを伝えています。
なお、境内に湧き出ている「桐原水」は、現在唯一残っている宇治七名水の一つとされています。
本殿と拝殿は国宝に指定され、宇治上神社は世界文化遺産に登録されています。
梅雨時の朝早く訪れると、宇治上神社に向かう、「さわらびの道」と呼ばれる散策路に沿ってあじさいがきれいに咲いていました。
1 境内
宇治神社のわきから「さわらびの道」を宇治上神社に向かって歩いていくと、朱塗りの大きな鳥居があり、正面に宇治上神社の社殿が見えます。
●朱塗りの大きな鳥居
●参道から見る社殿
●参道周辺のあじさい
さらに歩くと、宇治上神社の入口の石橋と門があります。
●境内の入口にある門
池に架かる石橋を渡ると小さな門があり、ここから拝殿と「清め砂」と呼ばれる円錐形の盛り砂が見えます。
●拝殿(国宝)
<説明板>
鎌倉時代の初めに建てられたもの。寝殿造り風で、現存する最古の拝殿とされています。
拝殿造営に使われた桧は、年輪年代測定による調査の結果、建保3年(1215年)頃伐採されたことがわかったそうです。
当時の住宅建築を類推することが出来る建造物だともいわれています。
・拝殿前にある砂盛
●本殿(国宝)
▲「中殿」:中央の内殿
祭神は応神天皇
▲「左殿」:向かって右側
祭神は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ:応神天皇の末の皇子)
▲「右殿」(向かって左側)
祭神は、仁徳天皇(応神天皇の皇子)
・「右殿」の蛙股の特徴
輪郭だけのくりぬき式で、平等院鳳凰堂のものに似ているといわれ、神社建築に取り入れられた初の例として重要だとされています。
また、ここの蛙股は構造材としての役割から、装飾用としての役割に変わっていった時期のものと考えられ、宇治上神社の蛙股はその装飾用蛙股の発生を示す重要な実例といわれています。
●摂社
・春日神社(重文)
・住吉社(左)と香椎社(右)
●桐原水:宇治七名水の一つ。
宇治七名水のうち、「桐原水」は唯一現存している。
≪宇治七名水≫
・桐原水(きりはらすい)
・公文水(くもんすい)
・法華水(ほっけすい)
・阿弥陀水(あみだすい)
・百夜月井(ももよづきい)
・泉殿(いずみどの)
・高浄水(こうじょうすい)
このうち、標石だけが残っているところもある。
4 沿革
・応神天皇の宇治離宮があったと伝えられている地に立つ。
・祭神
宇治神社の祭神である菟道稚郎子のほか、父の応神天皇、兄の仁徳天皇を祀る。
・明治維新までは宇治離宮明神上社(宇治神社は「下社」)と呼ばれていた。
・平安時代に藤原氏が平等院を建立した後は、宇治神社と合わせて、その鎮守社として崇敬された。
・世界文化遺産に登録。
5 京都検定の出題歴
①平成16年3級
本殿が神社建築の最古の社殿とされる世界遺産に登録されている神社はどこか。
(ア)上御霊神社 (イ)宇治上神社 (ウ)上賀茂神社 (エ)下鴨神社 【正解】(イ)
②平成17年2級
宇治上神社に湧き出ている宇治七名水の一つは何か。
(ア)御香水 (イ)延命水 (ウ)善気水 (エ)桐原水
【正解】(エ)
6 練習問題
(1)祭神:菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、応神天皇、仁徳天皇を祀る。
(2)沿革
・明治維新までは( 1 )明神(八幡宮)上社と呼ばれていた。 ・宇治神社と合わせて、平安時代に藤原氏が( 2 )を建立したのち、その鎮守社として崇敬された。 (3)( 3 )(国宝)
鎌倉時代の寝殿造り風の優れた建物遺構。
(4)( 4 )(国宝)
平安時代後期に伐採された木材が使われ、覆屋の中に一間社流造りの小さな社が3棟並ぶ。平安時代後期に建てられた、現存するわが国最古の神社建築で国宝。
(5)春日神社(重文)などの摂社
(6)「( 5 )」:宇治七名水のひとつ。
(7)世界遺産に登録。
【正解】
1 宇治離宮 2 平等院 3 拝殿 4 本殿 5 桐原水 |
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
今宮神社とあぶり餅
今宮神社は平安時代の創建以来、疫神を祀る神社として信仰を集めてきました。
毎年4月の第2日曜日に行われる「やすらい祭」は、桜の花が散るころに疫神が分散して人を悩ますのを鎮めるための病鎮めの祭事で、10月の鞍馬の火祭、太秦の牛祭(現在は行われていない)と並び京の三大奇祭の一つといわれています。
境内の東側の門前に、「かざりや」と「一和」の二軒のあぶり餅のお店があり、厄除けのご利益があるとして、いつも賑わっています。
※場所↓
1 境内
南側にある楼門から境内に入り、神楽殿の横から本殿の前に進む。
●楼門
・扁額
●神楽殿
●本殿・拝殿
社殿は明治29年に焼失し、同35年(1902)の再建。
●疫神社
本殿に向かって左隣(西側)に疫神社がある。本社が鎮座される以前からあったといわれ、素盞嗚尊を祀る。
●今宮の奇石「阿呆賢さん」
この「阿呆賢さん」は古くから神占石ともいわれ、病弱な者はこの石に心をこめて病気平癒を祈り、軽く手のひらで石を撫で身体の悪いところをなでれば健康回復を早める。
また、「重軽石」ともいわれ、まず軽く手のひらで三度石を叩いて持ち上げると重くなり、次に願いを込めて三度撫でて持ち上げ、軽くなると願いがかなうといわれている。
●東門と神橋
・東門は元禄時代の遺構。
・神橋は元禄7年の遺構。
●織姫社
江戸時代に西陣の機織家が堀川の東西に織物の神としてまつられていた女神を、おまつりしたもの。
七夕伝説の織女に機織をお教えになられた神とも言われ、織物の祖神とされている。
毎年11月11日は「西陣の日」として、織姫社で式典が行われる。
2 沿革
①本社には大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)摂社、疫神社には素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る神社で、紫野神社ともいわれている。
②正暦5年(994)、都で疫病が流行した折に、船岡山で疫病の退散を祈った。これが紫野御霊会であり、今宮祭の起源とされる。この時、京中の老若男女は神輿に供をして船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて歌い、踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれる。これが夜須礼(やすらい祭)の起源とされる。
③長保3年(1001)に現在の地に遷座し、「新たに設ける宮」という意味から今宮神社と称し、以後、疫病が流行るごとに御霊会が行われ、疫神を祀る神社として信仰を集めてきた。
④徳川綱吉の生母桂昌院は、荒廃していた社殿の造り替えや寄進、途絶えていたやすらい祭の復興などに尽力をし、神社は再び活況を取り戻したと伝えられている。
3 桂昌院と「玉の輿守」
・桂昌院の像
桂昌院は、徳川3代将軍・家光の側室で、5代将軍綱吉の生母。名を「玉」と称した。
西陣の八百屋の次女として生まれたと伝えられ、寛永16年(1639)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となり、正保3年(1646)に綱吉を産んだ。
桂昌院は京都の多くの社寺の復興に貢献しているが、西陣の産土神であるこの今宮神社の復興にも大きく尽力した。
今宮神社では、桂昌院の碑のほか、「桂昌院のように玉の輿にのれますように」という願いを込めた「玉の輿守」というここでしか買えないお守りも売られている。
<玉の輿守>
4 「やすらい(安良居)祭」(4月第2日曜日)
御霊会を現代に伝えて、毎年桜の開花のころに行われてきた病鎮めの行事。行列の花傘の下に入ると病気にかからないといわれている。
この祭りは、太秦の牛祭・鞍馬の火祭 とともに京都三奇祭の一つ。
5 あぶり餅
東門を出た所に、名物「あぶり餅」を売る2軒の店、「かざりや」と「一和」が向かい合って、昔ながらの神社の参道の風景を今に伝えている。
・かざりや
・一和
日本最古の和菓子屋とされ、今宮神社参道で応仁の乱や飢饉のとき庶民に振舞ったといういわれがある。
●「あぶり餅」
きな粉をまぶした小さなお餅を、竹串に刺して炭火であぶった後、白味噌の甘だれをかけた餅菓子。
竹串は、今宮神社に奉納された斎串をもちい、病気平癒や厄除けの御利益があると伝えられている。
6 京都検定の出題歴
(1)平成16年度3級 今宮神社のやすらい祭の名物として古くから知られ、今でも門前で売られて疫病を祓うといわれる餅はなにか。 (ア)うぶ餅 (イ)稚児餅 (ウ)あぶり餅 (エ)鎌餅 【正解】(ウ)
(2)平成18年度3級
平安時代から疫病退散の神として信仰され、「やすらい祭」で知られる神社はどこか。 (ア)今宮神社 (イ)晴明神社 (ウ)護王神社 (エ)八坂神社 【正解】(ア)
(3)平成19年度3級
桜の散る頃に疫病が流行したため、花の霊を鎮め無病息災を祈願したことに始まる今宮神社の祭はどれか。 (ア)八朔祭 (イ)やすらい祭 (ウ)五月満月祭 (エ)幸在祭 【正解】(イ)
7 練習問題
①祭神:「事代主命」ほか。摂社の「疫社」にスサノオノミコトを祀る。
平安初期に疫病を払うために京中の人々が( 1 )を祀ったのに由来する。紫野社、今宮社と呼ばれる。 ②「( 2 )」:門前で売られている。古くから祭りの名物として知られ、これを食べれば疫病が祓えると伝えられる。 ③( 3 )祭:疫神を鎮める鎮花祭として始まった。行列の花傘の下に入ると病気にかからないといわれている。( 4 )の牛祭(現在は中止)、鞍馬の( 5 )とともに京都三大奇祭の一つで、毎年4月の第二日曜に行われる。「( 6 )」と呼ばれる。 ④多数の摂末社:境内には疫社、若宮社などがある。西陣織業者が祀った( 7 )神社もある。 ⑤「( 8 )」:不思議な石。この石は手のひらで軽く三度たたいて持ち上げると大変重くなり、次に願いを込めて三度なでて持ち上げ、軽くなれば願いがかなうといわれている。 【正解】
1 疫神 2 あぶり餅 3 やすらい 4 広隆寺 5 火祭 6 やすらい花 7 織姫 8 阿呆賢さん |
|
梅雨時の錦天満宮の境内
錦天満宮は新京極通と錦市場のある錦小路通が交差するところにあり、通称「錦の天神さん」と呼ばれて親しまれています。
・新京極通
ここは菅原道真を祭神とし、知恵・学問・商才と招福・厄除け・災難除けのご利益があるとして信仰され、多くの参拝客が訪れるところです。
6月には修学旅行の生徒さんたちの姿も見られ、梅雨時の境内ではあじさいなどが雨に濡れて、落ち着いた雰囲気でした。
※場所↓
●一の鳥居
ここは、門前の錦小路通と新京極通の間にある一の鳥居の両端が、建物の中に突っ込んでいるのが有名です。これは、一の鳥居が参道に立てられた後で両側にビルが建てられたため、このようなことになったのだそうです。
●新京極通に面した入口
●拝殿
・内部
古い狛犬や随神さんがいます。
●ご神水「錦の水」
境内には、京の名水「にしきの水」が湧き出し、水を汲みに来る人訪れます。
●手水
●牛の像
●祈願絵馬
●錦天満宮の末社
豊臣秀吉の都市計画による移転の際に、他の諸神社もここに移転されている。このため、小さいながらも由緒ある複数の神社が祀られている。
また、境内末社として安産の塩竈神社、商売繁盛の日の出稲荷神社、白太夫神社、七社などの由緒ある末社が祀られています。
①塩竈神社
「六条河原院」が寺とされたとき、源融を弔うため創祀られたもの。秀吉の都市改造で移転したときに天満天神と共に移されたという。安産のご利益があるとして信仰されている。
②日の出稲荷神社
③白太夫神社
④七社
「八幡神社・床浦神社・市杵島神社・熊野神社・事比良神社・竈神社・恵美須神社」
※末社「床浦社」
痘瘡よけの神として少彦名命を祀っている。
●梅雨時の境内で見られた花と木の実
●沿革
<説明板>
①平安時代の長保5年(1003)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を嵯峨天皇の皇子である源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。
②天正15年(1587)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。
③その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。
④明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。
なお、歓喜寺は、近年、山科区大宅に再び移転した。
錦天満宮は、もとは現在の下立売御門の向かい側にある菅原院天満宮神社の地にあったとされる菅家邸「菅原院」からはじまり、さらに現在の本覚寺から渉成園あたりにあったとされる源融の「六条河原院」に移して歓喜寺とその鎮守社としての天満天神の創建へつながり、その後、「六条河原院」が寺とされたとき、源融を弔うため塩竈社が創祀られ、さらに時を経て、秀吉による都市改造による移転の時に一緒に現在地に移ってきたとされています。
菅原道真と源融、さらに秀吉が結びつくスケールの大きな話になっています。
●練習問題
(1)祭神は菅原道真。通称「錦の天神さん」
(2)沿革
長保年間(999〜1004)に( ① )の鎮守として創建。知恵、文学、商売繁盛の神として信仰される。天正15年(1587)、( ② )により、現在地の錦小路東端に移されたとされる。
(3)( ③ )(末社)
疱瘡除けの神として信仰される。
【正解】
①歓喜寺
②豊臣秀吉
③床浦社
|
|
正面通りと正面橋
正面通りは、現在の豊国神社前から西に向かって伸びている道で、その名前の由来は豊国神社の地にかつて方広寺の大仏があり、その正面につながる通りであることに由来するものと伝えられています。
・豊国神社前の石段
かつては方広寺の大仏があり、ここから西へ正面通りが続きます。
正面通りは渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断し、渉成園と不明門通の間では中珠数屋町通とも呼ばれています。
●正面通り
正面橋から見たところ
●正面橋
鴨川にかかる五条大橋と七条大橋の間にあります。
・正面橋から見た七条大橋
・正面橋から見た五条大橋
●高瀬川にかかる正面橋
●任天堂旧本社
鴨川と高瀬川にはさまれた、正面橋通りから少し西に向かって歩いたところに、レトロな建物があり、プレートを見るとあの世界企業の任天堂がまだトランプ屋さんだったころの本社の建物が残っています。
※場所↓
・竣工 昭和5〜8年(1930年)
・設計者 増岡熊三・田中義光
・プレート
文字が時代を感じさせている。
<任天堂の生い立ち>
・明治22年(1889)
山内房治郎によって下京区正面通木屋町東入ルの地で、「任天堂骨牌」として創業。主な事業は花札の製造であった。
・明治35年(1902)
日本で初めてトランプの製造を行う。
・昭和8年(1933)
「合名会社山内任天堂」設立 。この時の建物が現存する旧本社社屋。
・昭和26年(1951)
「任天堂骨牌株式会社」に社名変更
・昭和28年(1953)
プラスチック素材を取り入れたトランプを開発、販売
・昭和43年(1963)
「任天堂株式会社」に社名変更
・現在の本社は、京都市南区の大きなビルにある。
|
|
梅雨時の石峰寺境内で咲いていた花々
石峰寺は伏見稲荷大社の南に続く深草の丘陵の中腹にある、黄檗宗の寺院です。伏見稲荷の千本鳥居の途中から行くこともできますし、宝塔寺とあわせて訪れることもできます。
ここは伊藤若冲が晩年を過ごしたところであり、本堂の裏には若冲が下絵を書いて石工に彫らせたという五百羅漢石仏があることで知られ、若冲の墓と筆塚もあります。
最近ではこちらの奥様が丹精して育てられた数多くの植物が、境内で四季折々に花を咲かせていて、花を見るためにここを訪れる人も多いそうです。つい最近は、写真家の水野克比古さんが京鹿の子や柏葉あじさいなどの写真を写していかれたそうです。
このブログの管理人もお気に入りのお寺で、ここに行くと、五百羅漢を見に行くよりも、さまざまな花の名前を伺ったりして、時間のたつのを忘れてしまいます。
先日訪れた際、客殿の前ではコスモスが見ごろで、女郎花や紫式部、彼岸花などもきれいでした。もうすこしすると、ギボウシなどが咲き始めるそうです。
(今回は五百羅漢や伊藤若冲の墓の説明は省略します)
1 境内
●参道の石段
・竜宮造の総門(竜宮門)に向かう石段と石段脇の南天の花
●竜宮造の総門(竜宮門)
・扁額
参道の石段を登っていくと、丹塗で竜宮造の総門がある。ここに、「高着眼」と書かれた即非(黄檗の三筆の一人)の扁額がかかっている。
竜宮門をくぐると、正面の本堂に向かって平石の参道が続く。この平石は禅宗寺院でよく見られ、龍の背のうろこを表すという。
・竜宮門から本堂に向かって続く平石の参道
・あじさいと竜宮門
●本堂
本尊の薬師如来像を祀っています。
2 境内で見られた花
<境内>
竜宮門を入って左手に客殿があり、その前に花畑が広がっている。
●白蝶草
・竜宮門と白蝶草
●ききょう
●やまあじさい
●あじさい
●柏葉あじさい
●ひょうたんの木
●オカトラノオ
●ホタルブクロ
●紫ツユクサ
●京鹿の子
花は終わってました
3 石峰寺の沿革
・百丈山と号し、黄檗宗に属する。
・宝永年間(1704〜11)、万福寺の千呆和尚の創建と伝えられ、当初は
諸堂を有する大寺であったが、度重なる火災で堂宇を焼失し、現在の本堂は昭和60年に再建されたもの。 ・本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは江戸時代の画家伊藤若沖(1716〜1800)が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。
・境内には、若冲の墓と筆塚がある。
・門前より少し西へ行ったところにある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶碗子の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。
・創建当時は大きな寺院であったが、2度火災にあい、現在は客殿と庫裏が創建当初の面影を伝えている。
4 京都検定の出題歴
●平成18年度2級 (問)江戸中期の画家、伊藤若冲が下絵を描いたと伝えられる五百羅漢などの石仏群がある寺院はどこか。 (ア)海宝寺 (イ)瑞光寺 (ウ)石峰寺 (エ)仏国寺 【正解】(ウ)
|



