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春の宮川町のようす
宮川町は、京都の五花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町)のうちの一つとされています。
歴史をたどれば、京都検定公式テキストには、江戸時代の寛文6年(1666)、祇園外六町とともに栄え、四条河原に櫓を構えた芝居小屋が宮川町の発展を促し、役者が多く住んだ、と書かれています。
以前は鴨川の河原だったところに寛文6年に宮川町の通りができ、その後、急速に宮川町の町並みが整い、当時の歌舞伎の流行とあいまって、茶屋町として発展していったといわれています。
また、宮川町の紋は三つ輪ですが、その由来について、宮川町御茶屋組合HPによれば、次のように書かれています。
「三つ輪の由来は、芸妓育成機関の女紅場(にょこうば)が府立となったおり、社寺・町家・花街の三者が合流して学校施設とした記念とされています。
明治中期から使用されており、一説には、宮川の故事から三体の神輿を象徴したとも、宮川の「みや」を語呂の合う三つ輪として考案されたとも言われています。」 宮川町の町並みを探訪してみると、昔のお茶屋さんの建物がそのまま食事処や舞妓変身のお店にかわっていたり、これから夏になれば涼しげな風鈴が下がっていたり、いろいろ発見できて楽しいものです。
※場所↓
1 春の宮川町のようす
・歌舞練場
・京おどり
3 花街について(京都検定のための要点のまとめ)
(1)花街のをどり
①趣旨 芸舞妓が、日頃研鑚に努める芸事を春と秋に披露するもの。 ②始まり
明治5年、京都で開かれた「第1回( 1 )」の附博覧として、槇村正直京都府参事、京舞井上流家元井上八千代らの発案で「( 2 )」を開催。 ≪正解≫
1京都博覧会 2都をどり (2)都の賑い
①趣旨 京都の( 1 )の芸舞妓による年1度の歌舞講演会。 ②始まり
平成6年、( 2 )を記念して、「五花街合同伝統芸能特別公演」として開催 したこと。
③「( 3 )」
第4回公演から名称変更。以来、毎年6月第三土曜・日曜日の2日間、開催されている。 ≪正解≫
1 五花街 2 平安建都1200年 3 都の賑い (3)花街の始業式
①趣旨 新年を迎えて( 1 )が一堂に会して精進を誓う行事。 ②日にち
1月( 2 )日 祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町 1月( 3 )日 上七軒 ③祇園甲部の始業式
・歌舞練場に、黒紋付に( 4 )の花簪を髪に挿した芸舞妓が集まり、新年の挨拶を交わした後、「芸妓・舞妓の誓い」五ヶ条を唱和。 ・1年間の売花の多かった芸舞妓に売花奨励賞、お茶屋にも奨励賞を贈呈。 ・井上流五世家元が「( 5 )」を舞い、めでたく納める。 ≪正解≫
1 芸舞妓 2 7 3 9 4稲穂 5倭文 (4)初寄り
①趣旨 京舞井上流の( 1 )の日。 ②日 毎年( 2 )日 ③内容 ( 3 )流の舞を学ぶ祇園の芸舞妓、一般の子女たちが打ち揃って家元宅(新門前大和大路東入る)を訪ね、お雑煮を祝い初舞いで新年を寿ぐ。 ≪正解≫
1 稽古始め 2 1月13 3 井上 (5)八朔
①趣旨 旧暦8月1日のこと。古来「田の実の節」といい、「頼み」に通じることから、商家などではこの日、日頃お世話になっている本家、得意先には感謝と更なる贔屓を願って、挨拶回りをする。お中元も八朔から始まる。 ②花街
( 1 )日、芸舞妓が正装の( 2 )で、研鑚を積む芸事の師匠や御茶屋 などに挨拶回りをする。
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建仁寺と法堂の周りで咲いていた牡丹の花
建仁寺は、祇園の花見小路通を四条通から南に下がっていくと、つきあたりに北門があり、境内に入ると北から南に、方丈・法堂・三門・勅使門が並び、その両側に塔頭が立ち並んでいます。
<境内案内図>
建仁寺は建仁2年(1202)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。
室町時代の最盛期には塔頭は60余りありましたが、応仁・文明の兵火などによって荒廃し、現存の大部分は江戸時代以降に復興されたもので、現在の塔頭は14か寺とされています。
境内は桜が綺麗なことで知られていますが、ゴールデンウィークの頃は、法堂の周りに植えられた牡丹がきれいな花を咲かせます。
今年の牡丹のようすです。
1 場所↓
2 境内
●北門
●北門を入ったところから見た境内
●本坊
●工事中の方丈(重文)
・慶長4年(1599)に、恵瓊(えけい)が安芸の安国寺から移建した。
・本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。
●法堂
法堂は境内中心部にあり、その南に、三門と方丈池があり、方丈池の向かいに浴室がある。
法堂天井に小泉淳作氏による「双龍図」が描かれている。
<法堂の周りで咲いていた牡丹>
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上賀茂神社から明神川に沿って続く上賀茂重要伝統的建造物群保存地区
上賀茂神社を出て東へ行くと明神川が流れている。この川に沿って土塀に囲われた社家(上賀茂神社の神官の屋敷)が並んでいます。
どの家も門に至る小さな橋が架けられ、歴史を感じさせる門構えを見せています。
社家が並ぶこの地域は、現在、京都市指定文化財(名勝)及び国の「上賀茂重要伝統的建造物群保存地区」となっています。
このうち、西村家は社家の中で唯一公開していて、井関家では、手作りの香袋、におい袋などを販売しています。
※場所↓
1 上賀茂重要伝統的建造物群保存地区(通称、伝建地区)について
<説明板> ・室町時代から上賀茂神社の神官の屋敷町として町並みが形成された。
・昭和63年に伝建地区となった。 2 明神川と社家の街並みのようす
●西村家入口
●藤木社(上賀茂神社の境外社)
・祭神は瀬織津姫神
・明神川の守護神として信仰されてきた。
・上賀茂神社の末社で、葵祭には南大路町の氏子により神輿渡御が行われる。
・藤木社の楠は推定樹齢500年といわれ、この地のシンボルとして崇められてきた。
3 「重要伝統的建造物群保存地区」
(1)発足の経緯 昭和50(1975)年の文化財保護法の改正によって発足。 (2)目的
日本の各地に残る歴史的な集落や町並みの保存を図ること。 (3)運用
地方自治体の市町村は,伝統的建造物群保存地区を定め,国はその中から価値の高いものを重要伝統的建造物群保存地区として選定し,保存事業への財政的援助や必要な指導・助言を行っている。 (4)京都市内の伝建地区
≪祇園新橋伝建地区(昭和51年選定)≫ 祇園の茶屋町。規模の大きな町家が通りに面して軒を並べて建つ。二階軒先にすだれを下げた独特の景観をもつ。 ≪上賀茂伝建地区(昭和63年選定)≫
上賀茂神社前の明神川沿いの社家町一帯 ≪産寧坂伝建地区:(昭和51年選定)石塀小路含む≫
円山公園〜高台寺下。八坂五重塔、二年坂を経て三寧坂に至る範囲 ≪嵯峨鳥居本伝建地区(昭和54年選定)≫
愛宕神社一の鳥居の前に形成された町並 |
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石像寺 (通称「釘抜地蔵」)
石像寺は通称「釘抜地蔵」として広く知られ、千本寺之内の交差点から千本通を南は100mほどのところにあり、通りに面した西側に山門があります。
間口の狭い入口を入ると、山門を経て、参道がまっすぐ地蔵堂まで続いています。
ここは、弘仁10年(819)、弘法大師が地蔵菩薩立像を彫り、人びとを苦しみから救おうと「苦抜(くぬき)地蔵」と名づけられたといい、後年になって「釘抜(くぎぬき)地蔵」と呼ばれるようになったと伝えています。
お堂の周りには、2本の釘と釘抜をくくりつけた絵馬がびっしり貼られています。
ここでは、地蔵堂背後の阿弥陀三尊像も必見です。鎌倉初期の傑作といわれています。
※場所↓
1 境内
●千本通に面した入口
●山
門を経て、地蔵堂まで続く参道
●地蔵堂
●地蔵堂の前にある大きな釘抜き
●手水舎
●観音堂
●絵馬
●石仏と奉納された釘抜きと釘の絵馬
●地蔵堂背後の阿弥陀三尊像
鎌倉初期の傑作で天仁元年(1224)に伊勢守・佐伯朝臣為家によって彫られたものと伝え、寺号である石像寺は、地蔵堂の背後にあるこの阿弥陀三尊像(重要文化財)から命名された。
2 沿革
・正しくは光明遍照院石像寺といい「釘抜地蔵」「くぎぬきさん」として親しまれている。
・弘法大師(空海)の開基と伝え、もとは真言宗であったが、重源上人が中興してから浄土宗となった。
・地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩立像は弘法大師の作と伝えられ、もとはもろもろの苦しみを抜き取るという信仰から苦抜地蔵と呼ばれていたが、それがなまって釘抜地蔵となった。
・一説には、手の病気に苦しむ商人の妻に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の恨みの釘を抜いて救ったことから苦抜地蔵と呼ばれるようになったとも伝えられる。
・地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(重文)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は、高さ1.2m、天仁元年(1224)に伊勢守・佐伯朝臣為家によって彫られ、翌年開眼供養した銘がある。
・観音堂には行基の作と伝えられる観世音菩薩を祀っている。
・境内には、弘法大師三井の一つという加持水がある。
・また、この地は鎌倉時代初期の歌人・藤原定家、家隆が住んだところとも言われており、定家らの墓と伝えるものがある。
(現地の説明板より転記)
3 京都検定の出題歴
●平成16年度2級 「寺院」と「その通称名」の組み合わせのうち、誤っているものを選びなさい。 (ア)曼殊院・椿寺 (イ)華厳寺・鈴虫寺 (ウ)勝持寺・花の寺 (エ)石像寺・釘抜き地蔵 【正解】(ア)
4 練習問題
(1)正式名「( 1 )」、通称「釘抜地蔵」 (2)本尊:阿弥陀如来。
(3)弘仁10年(819)に( 2 )が建立、のち、俊乗坊( 3 )が浄土宗に改めた。
(4)通称名は、地蔵堂の石造地蔵菩薩立像に由来。「( 4 )地蔵」から「( 5 )地蔵」に転じた。
(5)2本の釘と釘抜を貼り付けたお礼絵馬が多数奉納されている。
【正解】
1光明遍照院石像寺 2空海 3重源 4苦抜き 5釘抜 |
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祇園白川で咲き始めたツツジや山吹と吉井勇の歌碑
先日、祇園の暴走車による痛ましい事故が起きた現場からほど近いところに、祇園新橋と呼ばれている地区があります。
このあたりには、江戸時代から明治初期にかけて建てられたお茶屋を中心とした京町家が軒を並べ、京都らしい風情ある町並みが続いています。
ここは昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
白川沿いでツツジや山吹などの花が咲き始めています。
写真は都をどりが終わる頃の4月末に撮影したものです。
※場所↓
●祇園新橋のお茶屋さんの街並み
●祇園白川の通りと人力車
●料理旅館「白梅」
この建物はもとは江戸時代末期の創業と伝える「大柳」という屋号のお茶屋でした。
●シャクナゲ
●咲き始めたツツジ
●山吹
●吉井勇歌碑
「かにかくに祇園はこひし 寝るときも枕の下を水のながるる」
この歌碑は歌人であり、劇作家でもあった吉井勇の古稀を記念して、彼と親しかった谷崎潤一郎や堂本印象、湯川秀樹博士等が発起人となって、昭和30年11月8日に建立された。
なお、この場所は文芸芸妓として知られ、また吉井勇と親交のあった磯田多佳女が女将を務めていたお茶屋「大友」の跡。
吉井勇は、京都を愛し、昭和13年から昭和35年に肺癌のため京大病院で亡くなるまで京都で暮らした。また、都おどりの復興など祇園のために力を尽くしたといわれる。
●アオサギ
アオサギやゴイサギは、祇園白川ではよく見かけます。
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