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京の名水と「左女牛井」(醒ヶ井)
1 京都の地下水と「名水」
京都盆地の地下には琵琶湖の水量に匹敵する211億tもの地下水が貯えられていて、その規模は東西12km、南北33kmにおよび、南部に行くほど深く、最深部はかつての巨椋池の下で約800mにもなるそうです。
※関西大学の楠見晴重教授の発表された「古都1200年の雅を支えた地下水の解明」
この調査結果を見ると、
・平安京造営当時の大内裏の場所は粘土分が多く、水を得にくい所にあったが、一方、現在の御所のある場所には高級官吏の館があり、庭にあった池には地下水が使われていたと考えられ、平安中期の現在地への御所移転には、地下水が関係していると思われること。
・また、茶道の三千家、美しい庭園のある二条城、神泉苑、伏見の酒蔵、京友禅、とうふ、湯葉など、京都盆地の地下水が京都の文化を今も支えていること
などと書かれており、京都の地下水は京都の文化の発展にとって密接に関連し、現在に伝えられてきました。
中には「名水」として保存、継承されてきたものも京都には数多くあります。
代表的なものとしては、
①京都三名水
・染井、左女牛井(醒ヶ井)、縣井
②御所三名水
・染井、縣井、祐井
③西陣五水
・染殿井、桜井、安居井、千代野井、鹿子井
のほか、伏見八名水、宇治七名水などがあり、まだほかにも「名水」と呼ばれているものは数多くあります。
2 「左女牛井」について
古来より、染井、縣井とともに、京都三名水の一つといわれてきた「左女牛井」についてまとめてみました。
①場所↓
地図を見ると、六条通が堀川通と接する北側に、左女牛井町という町名が残っています。
②現状
堀川通を西本願寺の駐車場東端に沿って歩いて行くと、「左女牛井」の標柱が立っています。
このあたりは、第二次大戦末期の空襲に備えて建物疎開が行われたため、かつてあった「左女牛井」の井筒も薮内宗堅の銘文を刻した石碑も全て失われてしまいました。
<標柱>
・側面に彫られた標柱の由来
「源義経堀川御所用水と称えられ、足利時代既に名あり
元和二年在銘の井戸枠、第二次世界大戦に際し、昭和二十年疎開のために 撤去・・・・」
③説明板
・京の名水として平安時代より知られ、源氏の邸いわゆる六条堀川館の中に取り入れられていた。
・室町時代には南都の僧村田珠光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したという。
・江戸初期元和二年五月、織田有楽斎はこれを改修した。
・内径二尺四寸の丸井戸であった。
・その後天明の大火で埋もれたが、寛政二年、薮内家六世によって修補され、その碑が七世によって建てられていたが、丸井戸碑とともに、第二次大戦末期の民家の強制疎開とともに撤去された。
3 亀屋良長本店角の「醒ヶ井」の井戸
・場所↓
四条堀川から少し東へ歩いた醒ヶ井通の角に亀屋良長本店があります。
・亀屋良長本店
わきの通は、醒ヶ井通
亀屋良長本店の角に、「醒ヶ井」の井戸があります。
・説明板
六条堀川にあった「左女牛井」とは少し離れたところにありますが、お店のわきに醒ヶ井通という同じ呼び名の通に接していることもあり、平成3年に社屋を新築したおり、昭和37年の阪急地下鉄工事の影響で枯れていた井戸を掘り直し、「醒ヶ井」と名付けて再び菓子づくりに用いるようになったそうです。
この店の和菓子は地下80mから汲み上げる「醒ヶ井」の水が使われています。
4 醒ヶ井通(さめがいどおり)
京都市内の南北の通りの一つで、北は六角通から南は五条通まで。途中蛸薬師通と錦小路通の間で堀川高校敷地により分断されている。五条通以南では、西隣の堀川通が東よりに拡張されたためにこれと重なり消滅した。
平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りである。堀川五条にあり名水として知られた井戸「佐女牛井」(さめがい)が通り名の由来である。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
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2010年06月13日
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