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京都御苑内にある厳島神社と京都三珍鳥居の一つ、唐破風鳥居
現在「京都御苑」とされる地域には、かつて、御所を中心として、公家町があり、大きな公家の屋敷には鎮守社がまつられていました。
明治に入って公家屋敷が撤去されましたが、かつての鎮守社に起源を持つ次の神社が現在まで残っています。
・厳島神社(かつての九條邸内の鎮守社)
・白雲神社(西園寺家の鎮守社)
・宗像神社(花山院家の鎮守社)
かつての九條邸の鎮守社に起源を持つ厳島神社は、丸太町通から堺町御門を入って左手、旧九條家の庭園跡の勾玉池(拾翠池、九条池ともいわれる)の島中にあります。
また、厳島神社は京都三珍鳥居の一つ、「唐破風鳥居」があることで知られています。
・勾玉池(拾翠池、九条池とも)と厳島神社
(1)場所↓
(2)厳島神社と唐破風鳥居
①厳島神社
・入口
神社がある島へ、橋を渡ります。
・橋と社殿と鳥居
②唐破風鳥居
・2本の柱の上に架かる島木と笠木が湾曲した唐破風の形をしており、唐破風鳥居と呼ばれている。
・もとは、平清盛が安芸の厳島の大神を祀ったもので、 それを後世この九條家邸内の拾翠池の島中に移し九條家の鎮守としたという。
・重要美術品となっている。
③弁財天の額
(3)沿革
<由緒>
・後世、五摂家の一つ、九條家の邸宅内の勾玉池(拾翠池、九条池ともいう)の中の島に遷座し、九条家の鎮守社となった。
・広島の厳島神社の分社の一つ。
(4)京都三珍鳥居、あと2つについて
●伴氏社(ともうじしゃ)の鳥居
<場所>↓
<特徴>
・北野天満宮の境内末社で、菅原道真の母伴氏を祀った神社。
・伴氏社の神前に石の鳥居がある。
・柱の下の蓮座が珍しい 。
⇒単弁、反花座(そりばなざ) ●蚕の社、元糺の池の三鳥居
<場所>↓
<特徴>
・正式名:木嶋坐天照御魂神社
・もともと平安遷都以前に、この地で織物、養蚕などに優れた技術を持っていた秦氏ゆかりの社 ・明神鳥居を正三角形に組み合わせたもので、真ん中に御幣が立てられ、三方から拝むことができるようになっている。
・三柱鳥居の前には元糺の池があり、夏の土用の丑の日に手足を浸すと、しもやけや脚気にならないといわれている。
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2011年05月21日
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旧九條邸跡に建つ拾翠亭と九条池(勾玉池)
京都御苑の南西部、堺町御門から入って左手に九条池(勾玉池)があります。
このあたりは、かつては五摂家の一つであった九條家の屋敷があり、九条池は、屋敷内に安永7年(1778)頃につくられた庭園の遺構です。
この庭園は、東山を借景とし、拾翠亭からの眺めを第一に造られたと伝えています。
また、拾翠亭は江戸時代後期(寛政年間)に九條家の屋敷内に茶室として建てられたもので、主に茶会や歌会など、貴族や公家、文化人の社交の場として利用されていました。
この建物は数奇屋風の建築で五摂家の名残を伝える貴重なものといわれています。
池の周辺には百日紅が植えられ、真夏は特に池の周りの風景を際立たせていますが、初夏のフジやツツジもまたきれいです。
1 場所↓
2 旧九條邸跡
<説明板>
・九條家は五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子(さだこ)もその一人です。
・江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。
・折りしも京都市内では、幕府と朝廷とのさまざまな交渉が行われ、時の関白九條尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。
・広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭と九條邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。
●標柱
3 拾翠亭と九条池(勾玉池)
①拾翠亭入口
②拾翠亭と池を彩る花
・拾翠亭と霧島ツツジとフジの花
・拾翠亭とフジの花
・ツツジと新緑
●拾翠亭
・江戸時代後期(寛政年間)に茶室として建てられたもの。
・主に茶会や歌会など、貴族や公家、文化人の社交の場として利用されていた。
・数奇屋風の建築で二層の外回りには、縁高欄(えんこうらん)と言う手すりが施されており、また屋根の形も「切妻造」「入母屋造」が組み合わされて、簡素な中にも貴族的な優美な外観を呈している。
・春から秋にかけての毎週金・土曜日に一般公開されている。
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