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縁結びの祈願で人気の知恩院の濡髪大明神と千姫の墓と作家佐藤春夫の墓
知恩院は、国宝の三門から急な石段の男坂、あるいはスロープの女坂を上がっていくと、国宝の御影堂(本堂)や阿弥陀堂、経蔵などの中心伽藍のあるところに出ます。
しかし、これらの大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたもので、開創当初の寺域は、知恩院の御影堂の東側にある石段を上ったところにある勢至堂、法然廟などのある地域でした。
経蔵横の「智慧の道」と書かれた標石のところから、長い石段を上っていくと、法然上人廟や勢至堂(重文)があります。
勢至堂の後方に墓地が広がっており、墓地の奥に、知る人ぞ知る、縁結びの祈願スポットになっている濡髪大明神があります。
また、濡髪大明神の前に広がる墓地の中でひときわ目立つのが千姫の墓です。
この墓地の中に、小説家でありまた詩人としても知られた佐藤春夫(明治25年-昭和39年)の墓があります。場所は濡髪大明神に向かって左手です。
2 濡髪大明神(濡髪堂)
勢至堂の背後に墓地が広がり、奥に濡髪大明神があり、その前に千姫の墓がある。
濡髪大明神(濡髪堂) は、知恩院を火災から守る守護神として濡髪童子を祀っている。
鳥居
鳥居の扁額「濡髪祠」
社殿
島原の司太夫さんの名前を発見。
●縁結びで有名
元々は江戸時代の寛永年間に、住職の霊厳上人が白狐のために建てた祠であったのが、「濡髪」という言葉が男女の情事と結びつけられ、やがて縁結び祈願の祠となったといわれている。
昔から舞妓さんたちの信仰を集め、縁結びの明神として参詣者が後を絶たないといわれ、隠れた縁結びスポットとして穴場的な人気がある。
●起源
寛永10年(1633)、失火により知恩院の諸堂が焼失し、家光の命により、伽藍の再建が行われた。
もともと御影堂のある場所に白狐が棲んでいたが、この狐は御影堂建設のために棲み処を失ったことを恨みに思い、いつか仕返しをしてやりたいと考えていたという。
ある大雨の日、霊厳上人が信者を集めて説法をしている中に、ずぶ濡れになりながら童子の姿に化けた白狐が紛れ込み、熱心に耳を傾けていたのを上人が見つけてその童子に声をかけたところ、自ら狐であることを明かし、上人の話に胸を打たれたと申し出て、そこで上人が狐のために祠を建てたのが濡髪大明神のはじまり。
3 千姫の墓
縁結びで知る人ぞ知る、濡髪大明神の前方にある。
●墓石
●千姫について
・慶長2年(1597)、徳川秀忠と正室の江の長女として伏見城内の徳川屋敷で誕生。
・慶長8年(1603)7歳で秀頼と結婚し大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、夫婦仲睦まじかったという。
・慶長20年(1615)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
・元和2年(1616)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。
・その後、本多家が播磨姫路に移封になった時には姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになった。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじかったという。
・寛永3年(1626)、夫・忠刻はじめ身内の不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号した。
・寛文6年(1666)、江戸で死去。享年70歳。
・千姫の葬儀は、亡くなった夜に祖父家康の母の菩提寺である小石川伝通院で行なわれた。
・墓所は東京小石川の伝通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあるが、徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院に分骨され宝塔に納められた。
・なお、伝通院墓地には、佐藤春夫の墓もある。
4 佐藤春夫の墓
●場所
「勢至堂」の墓所の奥、中央に千姫のお墓と、縁結びで有名な濡髪堂が建ち、その左側にある。
●墓石
白い御影石で、陣笠の変形の棹石を有している。
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2011年08月09日
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