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泉涌寺(泉山)七福神めぐりと雲龍院の大黒天
先週、1月9日の成人の日に、泉涌寺山内で行われた泉涌寺(泉山)七福神めぐりに行きました。
泉涌寺の大門の境内側から、案内表示に従って、普段は通行禁止になっている道を行くと、雲龍院の前に出ました。
・泉涌寺の大門の境内側から雲龍院へ向かう道
普段は泉涌寺の大門の前を通り過ごし、道なりに奥へ100mほど行ったところに雲龍院の山門があります。
雲龍院は、北朝方の後光厳上皇の勅願によって竹巌聖皐を開山として南北朝時代の応安5年(1372)に創建され、後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展したと伝えています。こうした勅願の寺院という皇室との縁の深さから、ここは塔頭と同じく泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられています。
伽藍は応仁の乱で焼失した後、御所の黒戸御殿を移築して再建されたものの、地震で倒壊し、その後、寛永16年(1639)に後水尾上皇の援助のもとに本堂の龍華殿をはじめ諸堂が再建されて現在に至っています。
ここは、奥まったところにあるため、意外に知られていないので、観光客も少なく、じっくり楽しむことが出来ます。
七福神めぐりの日には、普段は閉められている勅使門が開けられ、突き当たりの本堂(龍華殿)に大黒様が祀られていました。
《七福神めぐりの日の雲龍院》
●勅使門
●本堂(龍華殿)
●大黒天
《沿革》
室町時代の康応元年(1389)に後円融天皇により建立されたが焼失。寛永16年(1639)、後水尾上皇の援助のもとに再建され、「龍華殿」と称している。
杮葺き。重文指定。
本尊は薬師如来で、日光・月光をともなう薬師三尊であり、極めて写実的な鎌倉時代の作とされる。
ここでは後円融天皇(在位1371〜82)以来といわれる長い歴史を持つという写経の体験ができる。
※京の冬の旅で特別公開中
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2012年01月18日
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智積院の紅梅がほころび始めています。
京都で暮らしていると、年中行事や社寺などで咲く花の移り変わりから四季の移りかわりを実感することが多く、今年も早いもので正月三ヶ日が過ぎ、泉涌寺の七福神めぐりも過ぎ、三十三間堂では通し矢が行われました。
三十三間堂に行ったついでに、近くの智積院に立ち寄りました。
《智積院》
ここには例年早咲きの紅梅の木があり、よく見ると、つぼみがふくらみ、たった一輪ですが咲いていました。
一年があっという間に過ぎていくような気がします。
●ほころび始めているの紅梅
●智積院の沿革
・真言宗智山派の総本山で全国に3000余の末寺がある。
・智積院は、もとは、紀州根来山の大伝法院の塔頭で学問所であった。近世に入って根来山の大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)秀吉の根来攻めで全山炎上した。
・慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの翌年、家康は東山にある豊国神社(秀吉が「豊国大明神」として祀られている神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。
・さらに、元和元年(1615)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を「五百佛山」とした。
・祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。
・現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
※収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)
収蔵庫では、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、かつて祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画をみることができる。
●国宝に指定されている長谷川等伯・久蔵父子による襖絵
・「楓図」: ・「桜図」: ・「松と葵の図」 ・「松に秋草図」 等 ・「桜図」は等伯の長男、久蔵の遺作とされている。
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