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京都・山科にある勧修寺(かじゅうじ)と梅の花
勧修寺は京都市営地下鉄東西線の小野駅 から西に向って山科川を渡ったところにある、真言宗の寺院です。正式名は「かんしゅうじ」ではなく、「かじゅうじ」です。
※場所↓
ここは、かつては代々法親王が入寺し、門跡寺院として格式を誇った寺院です。
境内には江戸時代に御所から移築された宸殿、書院、本堂がありますが、建物内は通常は非公開となっています。建物や庭園は門跡寺院の風格を感じさせるところです。
また、四季を通じて様々な花が見られ、早春の梅、春のしだれ桜、初夏の紫陽花、秋の菊花展、紅葉のほか、氷室池を中心とした庭園では、初夏のかきつばた、黄菖蒲、花菖蒲、睡蓮、夏の蓮などがきれいなところです。
秋には菊花展が開かれ、境内では見事な紅葉が見られることで知られています。
今年の京都の梅の花の開花は全般的に大幅に遅れています。
3月10日と17日に訪れましたが、3月17日に訪れたときには、中門わきの白梅がようやく見頃で、サンシュユが咲き始め、ボケの花はもうじき開花といったところでしたが、築地塀わきのしだれ桜のうちの一本が咲き始めていました。
3月10日と17日に写した写真を並べてみました。
<3月10日の境内>
●山門から見た中門と宸殿
●中門
●咲き始めた白梅
<3月17日の境内>
●山門に向かう参道わきの築地塀と咲いていた桜の花
●山門
山門を入って左手奥に拝観受付があり、その横に中門がある。
●中門
●中門のわきで咲いていた白梅
3 沿革
<説明板>
・天皇の祖父にあたる藤原高藤の諡号(しごう・おくりな)をとって勧修寺と名づけられ、のちに醍醐天皇の勅願寺となった。
・代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助によって再興された。
・本堂は、霊元天皇より仮内侍所を、書院(重文)と宸殿は明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。
・書院前の庭にある大きな傘を持つ燈籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。
・その周りには樹齢700年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。
・氷室池を中心とした優美な池泉回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である。
4 勧修寺の規模の変遷
①鎌倉時代まで
鎌倉時代の後伏見天皇の皇子・寛胤法親王が第十六世として入寺してからは門跡寺院となる。宮道邸だった頃から鎌倉時代にかけて、池のある庭があったとされ、優美な庭園の様子が歌に詠まれているという。この頃の庭園は現在の大岩街道の南側に、現在の勧修寺の敷地の倍ほどの広がりがあったといわれている。
②応仁・文明の乱による焼失、荒廃と豊臣秀吉による境内の南北分断
その後、応仁・文明の乱(1467〜77年)で勧修寺は焼失し、荒廃した。さらに、豊臣秀吉が境内中央に伏見城につながる伏見道を設けたため、境内は南北に分断され、寸断された南側の地は勧修寺の境内からはずされた。
③江戸時代の復興と境内の整備
徳川家綱・綱吉の帰依を受け、伽藍の整備が進められた。皇室の援助もあり、17世紀末には、ほぼ現在の状況にまで復興した。
庭については明確な記録は見つかっていないが、境内が半減したため、池も分断されて埋め立てられ、相当縮小し、江戸時代の復興の時期に合わせて修復されたと考えられている。
※なお、分断された南側の地に、仁寿3年(853)創建と伝えられ、勧修寺の鎮守であったとされる吉利倶八幡宮があり、また、享保8年に、藤原定方の墓が建立された。
5 練習問題
(1)真言宗( 1 )派の大本山。山号「亀甲山」。本尊は千手観音。
(2)沿革
昌泰3年(900)に藤原胤子(醍醐天皇生母)の願いで、藤原定万(胤子の弟)が祖父の( 2 )の邸宅跡に開創。承俊律師を開山に迎え、のち( 3 )の勅願寺に。15世の寛胤法親王が入寺以後、明治維新までは親王が住持する格式ある門跡寺院だった。
(3)千手観音
本尊。( 4 )の等身大。
(4)書院
重文。元禄10年(1697)、( 5 )の旧殿を外賜されたもの。( 6 )作の襖絵がある。
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2012年03月21日
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