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法住寺と境内のしだれ梅
法住寺は三十三間堂の向い、養源院の並びにある天台宗の寺院です。
このあたりは、平安時代中期(988年)に藤原為光によって建立された法住寺があり、その後、院政期にはこの寺を包み込む形で後白河上皇の離宮「法住寺殿」が営まれました。
当時は広大な敷地の中に、南殿(法住寺殿)、七条殿(西殿)、七条殿(東殿)の三つの御所が造られました。
1164年には、上皇が平清盛に命じて南殿の北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立され、新日吉(いまひえ)神社、新熊野(今熊野)神社も法住寺殿内に建立されました。
その後、1183年、木曽義仲の軍勢によって南殿に火がかけられて焼失してしまい、数年を経て後白河上皇が亡くなると、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂が造られ、上皇の御陵と定められました。そして、法住寺は後白河上皇の御陵を守る寺として江戸時代末期まで存続し、明治時代になると、御陵と寺が分離されて現在に至っています。
寺内の「身代わり不動明王」像(平安期、慈覚大師の作といわれる)は義仲の放火の際に上皇の身代りになったと伝えられています。
なお、山門の並びに竜宮門がありますが、これはかつて旧法住寺御陵正門であった頃の名残りです。
境内の十三重石塔のわきのしだれ梅が今年もきれいに咲きました。
2 境内のようす
●山門
・山門と白梅
●山門と十三重石塔としだれ梅
●本堂
●本堂と紅白咲き分けの梅の花
●阿弥陀堂
●竜宮門
・紅梅と竜宮門
●後白河天皇法住寺陵への参道
休日には、法住寺の墓地か、養源院の鐘楼から、後白河天皇法住寺陵、法華堂を見ることができる。法華堂の堂内には上皇の木像が祀られているという。
●祈願絵馬
3 沿革
・平安時代中期(988)に藤原為光によって法住寺が創建され、その後永暦元年(1161)からここを中心に後白河上皇の離宮「法住寺殿」が造営され、ここで5代の天皇34年間にわたり院政が行われた。
・法住寺殿の敷地は、北は七条通、南は八条通(今の泉涌寺道)、西は大和大路通、東は東大路通を経て東山山麓に至る東西400m、南北600mに及ぶ広大なものであった。
・広大な敷地の中に、南殿(法住寺殿)、七条殿(西殿)、七条殿(東殿)の三つの御所が造られた。
・1164年には、上皇が平清盛に命じて南殿の北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立され、新日吉(いまひえ)神社、新熊野(今熊野)神社も法住寺殿内に建立された。
・その後、1183年、木曽義仲の軍勢によって南殿に火がかけられて焼失してしまい、数年を経て後白河上皇が亡くなると、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂が造られ、上皇の御陵と定められ。そして、法住寺は後白河上皇の御陵を守る寺として江戸時代末期まで存続し、明治時代になると、御陵と寺が分離されて現在に至っている。
4 寺宝
●身代不動明王像
・平安時代、慈覚大師円仁の作と伝えられる。創建当初からの本尊。
・義仲の放火の際に、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年1月15日には不動会が営まれている。 ●阿弥陀如来像「そば喰い木像」
親鸞28歳の時の自作と伝える。親鸞が、延暦寺から六角堂に毎夜参籠した際に、親鸞の身代わりとなり留守居を勤めたという。天台座主が衆僧と共に蕎麦を供した際には、親鸞の代わりに食し、あたかも親鸞が居るように振舞ったという。木像は、1834年、東山渋谷の仏光寺旧跡に遷され、明治期に当山に遷された。以後、浄土真宗信者の内では当山を「そば喰さん」とも呼んだという。
鎌倉時代の仏師・運慶作と伝え、後白河天皇法住寺陵の法華堂に安置。法住寺の中にもその複製が祀られているという。
●四十七士木像
赤穂浪士の大石良雄が、当山の身代り不動明王を信仰し、討ち入りの成就祈願をしたことに因んだことにより造られたもので、本堂に安置。
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2012年03月29日
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