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宇治橋の近く、「橋寺」と呼ばれている放生院
京都には鹿苑寺を通称「金閣寺」、慈照寺を通称「銀閣寺」、蓮華王院を通称「三十三間堂」と呼ぶように、「通称寺」と呼ばれる寺院が各地にあります。
宇治橋から宇治川の東岸(北側)を川に沿って歩きはじめてすぐ左側に、通称「橋寺」と呼ばれる放生院常光寺という真言律宗の寺院があります。
放生院は、推古天皇12年(604)に聖徳太子の発願により、秦河勝が建立した地蔵院が始まりとされる古い歴史を持ち、鎌倉時代後期の弘安4年(1281)、大和西大寺の僧、叡尊が現在地に再興したと伝えています。
叡尊は、宇治川で亡くなった人馬などの霊を慰めるため、中洲(浮島)に高さ約15mの十三重石塔を建立し、また、盛大な放生会を営んだことから寺名を「放生院」と称するようになったといい、後宇多天皇は叡尊のこうした行いを褒め、寺領を与えるとともに宇治橋の管理を任せたことから、放生院は、以後「橋寺」と称されるようになったと伝えられています。
・宇治橋
・浮島にある十三重石塔
・十三重石塔とゴイサギ
放生院の山門をくぐって石段を上がると境内が広がり、ここには「宇治橋断碑」という、宇治橋創建の経緯が記されたという有名な石碑があり、日本三古碑の一つとして大変価値の高いものとされ、重文に指定されています。
境内には橋懸観音と十二支・守本尊、「橋寺」と彫られた標石などとともに、織部灯籠が立っています。
6月半ばの週末に訪れてみると、境内ではあじさいがきれいでした。
※場所↓
1 境内
●山門
山門くぐって石段を上がると、境内が広がり、左手に宇治橋断碑(重文)があり、奥に本堂が見える。
・山門脇のあじさい
●宇治橋断碑(重文)
・もとは橋畔にあったが、その後流出して行方がわからなくなっていた。1791年に付近の土中から断片(石碑の上から1/3くらいのところ)が発見され、「帝王編年記」という書物に収められていた碑文の全文により、欠如していた石碑の下の部分を補って再建されたという。
・碑文の内容から宇治橋は大化2年(646年)に初めて架けられたとされる。
・見学できるのは、3月、4月、5月、9月、10月、11月の午前9時から午後4時まで。
拝観料200円。
※日本三古碑
①多賀城碑(宮城)
②多胡碑(群馬)
③宇治橋断碑
●本堂
・本尊:地蔵菩薩(鎌倉中期、重文)
●橋寺の古い標石と織部灯籠
●十二支・守本尊
●橋懸観音
3 沿革
・推古天皇12年(604)、聖徳太子の発願により、秦河勝が建立した地蔵院が始まりとされる。
・その後、宇治川橋が架けられたが、大雨のたびに洪水が起き度々流失し、地蔵院も次第に衰退していく。
・鎌倉時代後期の弘安4年(1281)、大和西大寺の僧、叡尊が現在地に再興。
・叡尊は、宇治川で亡くなった人馬などの霊を慰めるため、中洲(浮島)に高さ約15mの十三重石塔を建立。(現在の十三重の石塔はその後の再建) ・叡尊は、寺で盛大な放生会を営んだ。このことから寺名を「放生院」と称するようになったという。
・後宇多天皇は叡尊のこうした行いを褒め、寺領を与えるとともに宇治橋の管理を任せた。以後「橋寺」と称されるようになったと伝えられている。
・宇治橋はその後も織田信長や徳川家康などによって架け替えられている。
4 練習問題
①正式名:雨宝山常光寺。本尊:地蔵菩薩。
②通称「( 1 )」。ここで大放生会を営んだことから、「( 2 )」ともよばれる。
③沿革
推古天皇12年(604)に、( 3 )の発願で、( 4 )が開創。その後、宇治橋の管理寺となり、弘安9年(1286)、西大寺の( 5 )が宇治橋の架け替えにあたり、当寺を修復。寛永8年火災で被災後復興。
④( 6 )(重文)
646年に宇治橋が初めて架けられたことを記念する石碑。 ⑤( 7 )
宇治川の中洲。高さ15m。日本最大の石塔。弘安9年の宇治橋再興の時に、( 8 )が建立。
【正解】
1 橋寺 2 放生院 3 聖徳太子 4 秦河勝 5 叡尊 6 宇治橋断碑 7 浮島十三重塔 8 叡尊 |
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2012年07月10日
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宇治橋から浮島十三重石塔へ
宇治は、宇治川の清流のもと、平等院をはじめとする歴史的遺産にあふれ、また自然の豊かな景勝地で、はるかな歴史の流れと四季の移ろいを感じることのできるところです。
また平安朝文学の最高峰とうたわれた源氏物語宇治十帖(源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋まで)の古跡が各地に点在する詩情豊かなところでもあります。
梅雨時の晴れ間が見られた週末の早朝、宇治川に沿ってのんびりと歩いてみました。
●ゴイサギと宇治川と浮島十三重石塔
●宇治橋
・橋の上からの景色
<宇治橋の歴史>
宇治橋は大化2年(646)に初めて架けられた日本最古級の橋で、その後戦乱や災害などで被災の都度、架け替えられ、現在の橋は、平成8年に架け替えられたもの。長さ155.4m、幅25m。
宇治川の上流にあたる瀬田川に架かる「唐橋」(大津市)と現在の大山崎町あたりで淀川に架かって「山崎橋」(現存せず)をあわせて、日本三古橋といわれていた。
●「三の間」
宇治橋の中央部に上流側に突き出た部分。豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた場所と伝えられています。明治以前まではここに橋の守護神・橋姫が祀られていました。毎年10月の宇治茶まつりでは、今もここから水が汲まれます。
●宇治橋のたもとにある通圓と駿河屋
通圓の創業は平安時代末と伝わります。
●紫式部の像と夢浮橋の古蹟
京阪宇治駅方面から宇治橋を渡ると、宇治橋西詰で、ここから道路は大きく3つに分かれます。
ここでは、平等院の参道に向かいます。
●参道に建ち並ぶ宇治茶を扱う老舗
●平等院入口
平等院の脇から土手に出て、宇治川の左岸(西側)に沿って、「あじろぎの道」と呼ばれる小道が府道に合流する地点まで続いています。
●中の島
宇治川の中洲である「中の島」には二つの川洲があり、下流側が橘島、上流側が塔の島といい、橘島には橘橋、塔の島には喜撰橋という小さな橋が架けられています。
塔の島には、十三重石塔(重文)があります。
・中の島と橘橋
・中の島と喜撰橋
・喜撰橋のたもとにいたアオサギ
●十三重石塔(重文)
高さ約15m、現存する日本最大の最古の石塔。もとは、鎌倉時代に奈良西大寺の高僧の叡尊によって、宇治川での殺生の罪を戒め、供養塔として建立されたものと伝えられています。
その後、洪水のために倒壊と修復・再興を繰り返し、宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間、川中に埋没していたそうです。
明治40年(1907年)より再興に向けた工事が行われ、川床の泥砂に埋もれた巨石の所在確認を第一歩に発掘に着手、工事が行われ、現在の姿が再現されました。
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梅雨の晴れ間の宇治、恵心院と境内の花
恵心院は、宇治神社のすぐ近く、朝日焼の窯元の横の道を入ったところにあります
ここは、歴史をさかのぼれば弘仁13年(822)、弘法大師の開基による真言宗智山派の寺院で、その後、種々の戦火にあい、寛弘2年(1005)、比叡山横川の恵心僧都(源信)が再興し、寺号を「朝日山恵心院」と改名しました。
江戸時代に入り、淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍の整備がなされ、豊臣秀吉、徳川家康らの庇護を受け繁栄しましたが、今では永禄2年(1559)造営の本堂及び楼門を残すのみとなっています。
ここは、境内に四季折々の花がいたるところに咲き乱れ、その種類も多く、花の名前の書かれた札のある木も多く、ここで花の名前を覚えて帰ることができるので、宇治の散歩には欠かせないお寺です。
※場所↓
1 境内
●参道
春は水仙や山吹の花がきれいなことで知られる。
・弘法大師像と半夏生
半夏生はドクダミ科の多年性植物で、夏至を過ぎた頃に長さ10〜15cmほどの穂状花序を葉のつけ根につける。また、花のすぐ下に位置する葉の表面が白く変化する。
名前の由来は、半夏生(太陽の黄経が100°になる日)の頃に花を咲かせることに由来する説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説がある。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
●表門と「恵心僧都説法の遺場」と書かれた標石
●本堂
本尊の木造十一面観音立像は平安時代の作で、宇治市指定文化財。
2 境内で見られた花
・のうぜんかつら
・アガパンサス
・シモツケソウ
・さまざまなアジサイ
3 沿革
<説明板>
恵心院は弘仁13年(822)、弘法大師が開基した龍泉寺を源とするという古い歴史を持ち、真言宗智山派に属する古刹で、戦火による荒廃の後、寛弘2年(1005)、比叡山の恵心僧都(源信)によって再興されたと伝えられています。恵心院という名はそれにちなんでいます。
江戸時代には淀藩主永井氏の庇護を受けて伽藍が整備され、徳川家康らの庇護を受け繁栄したと伝えられています。
現在では永禄2年(1559)造営の表門と本堂だけが残っています。
●本尊の木造十一面観音立像について
<説明板>
平安時代の作で、宇治市指定文化財になっています。
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