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仁和寺で御室流華道全国挿花大会が開催されました
仁和寺は、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」として世界遺産に指定された社寺のうちの一つで、右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院です。
ここは皇室とゆかりの深い、高い格式を誇る寺院で、「門跡寺院」の一つとして現在に伝わっています。「門跡寺院」とは皇族や摂家が出家する特定の位の高い寺院のことで、仁和寺は特に「宮門跡(親王門跡)」と称され、親王、法親王が住職として居住する寺院の一つでもありました。
また「御室御所」とも呼ばれていますが、その由来は平安時代に宇多法皇が出家後に住まわれたことから、そのように呼ばれてきたもので、明治維新以降は仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになりました。
仁和寺の境内には「御室桜」と呼ばれる高さが3mほどと他の種類の桜と比べて背の低い遅咲きの桜が200株ほどあり、ここの桜は「日本の桜100選」に選ばれ、桜の名所として広く知られ、花の咲く4月半ば頃には多くの参拝者が訪れます。
仁和寺はまた、華道では宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもあります。
5月13日、14日の2日間に渡って、境内で御室流華道全国挿花大会が開催されました。
※場所↓
1 御室流華道全国挿花大会
「きぬかけの路」に面した二王門の前に屋外席として展示があり、御殿の入り口の薬医門を入って、大玄関、白書院、宸殿、黒書院、大内の間、瑞雲・瑞祥の間、回廊に200点近くの挿花が展示されていました。
なかでも黒書院に展示された家元の作品は、究極の枯淡の境地とでもいうべき、素晴らしいもので、しばらく見入ってしまいました。
●駐車場に近い東門
●勅使門
●二王門と門前の作品
●薬医門といけばな展の案内
●大玄関
●大玄関内の作品
●黒書院に展示された家元の作品
●宸殿
●庭園
2 沿革
・真言宗御室派総本山。正式名称を旧御室御所跡仁和寺という。山号は大内山。本尊は阿弥陀三尊。
・仁和4年(888)、宇多天皇が前年に崩御した父の光孝天皇の遺志をついで創建。宇多天皇は退位後、この寺で出家し、住居である御室を造られたので、別名御室御所とも呼ばれた。
・代々の法親王が門跡となり、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。
・その後、応仁の乱で衰退し、寛永年間に徳川家光の援助を受けて再興した。
・寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築された。(現在の金堂は旧紫宸殿)。
・明治33年、真言宗御室派として独立したが、大正14年、大覚寺、高野山と合同して古義真言宗となり、さらに昭和21年、分派して御室派の総本山となった。明治維新の際、純仁法親王が還俗して以来、皇族出身の門跡は断絶した。
3 京都検定の出題歴
(1)平成16年度2級
「歌人」と「その歌人が詠んだ歌碑の建っている場所」の組み合わせのうち、誤っているものを選びなさい。
(ア)上田秋成・梨木神社 (イ)大田垣蓮月尼・神光院 (ウ)吉田兼好・仁和寺 (エ)与謝野鉄幹/晶子夫妻・鞍馬寺
【正解】(ウ)
(2)平成17年度2級
仁和寺の通称「御室」は、創建した天皇が後に出家し、寺内に自らの御室(僧房)を建立したことに由来するといわれるが、その天皇は誰か。
(ア)嵯峨天皇 (イ)宇多天皇 (ウ)醍醐天皇 (エ)白河天皇
【正解】(イ)
(3)平成18年度2級
仁和寺の金堂(国宝)は、寛永年間に内裏の建物を移築したものである。その建物はどれか。
(ア)清涼殿 (イ)温明殿 (ウ)宜陽殿 (エ)紫宸殿
【正解】(エ)
(4)平成18年度3級
次の「寺院」と「茶室」の組み合わせで、誤っているものはどれか。
(ア)西芳寺−湘南亭 (イ)等持院−清漣亭 (ウ)高台寺−夕佳亭
(エ)仁和寺−飛濤亭
【正解】(ウ)
(5)平成19年度2級
次の「寺院」と「茶室」の組み合わせで、誤っているものはどれか。
(ア)等持院−清漣亭 (イ)仁和寺−飛濤亭 (ウ)青蓮院−好文亭
(エ)西芳寺−松琴亭
【正解】(エ)
4 練習問題
(1)真言宗( 1 )派総本山。山号は大内山。本尊は( 2 )。
(2)沿革
①仁和4年(888)、( 3 )が前年に崩御した父の( 4 )の遺志をついで創建。宇多上皇は昌泰2年(899)に東寺の益信を戒師として出家し、御室(僧房)を建てた。これが御室の地名の由来で、寺名は創建時の年号に因む。 ②日本最古の門跡寺院
代々の法親王が門跡となり、諸宗の本山を統轄する最高位についた。( 5 )は、白河天皇の皇子で最初の法親王とされる。平安から鎌倉時代には真言宗広沢流の正系として隆盛したが応仁の乱で衰退し、寛永年間に( 6 )の援助を受けて再興した。
③明治33年、真言宗御室派として独立したが、大正14年、大覚寺、高野山と合同して( 7 )真言宗となり、さらに昭和21年、分派して御室派の総本山となった。明治維新の際、純仁法親王が還俗して以来、皇族出身の門跡は断絶した。
(3)仁和寺の建造物
①( 8 ) 慶長18年造営の内裏紫宸殿を寛永年間の復興時に移築したもの。国宝。
なお、慶長年間に造営された内裏の遺構としては、御影堂が清涼殿の古材を用いており、本坊表門が台所門を移築したもので、ともに重文。 ②五重塔
寛永21年建立。重文。 京都市 に現存する国宝、重要文化財の五重塔5基の中では( 9 )五重塔と建立時期が近く新しい。 ③この他の重文指定の建造物
仁王門:寛永年間の建築。また、観音堂・中門・鐘楼・経蔵・御影堂中門・九所明神本殿など。 ④著名な茶室:遼廓亭、飛涛亭
(4)彫刻
①( 10 ) 金堂の本尊と伝えられ、もと金堂に安置され、現在は寺内の霊宝館に移されている。仁和4年(888年)創建時の本尊とするのが通説だが、和様化の進んだ作風等から見て、仁和寺創建当時のものではなく、10世紀頃の作とする見方もある。
②( 11 )
本坊北側にある霊明殿(仁和寺の歴代門跡の位牌をまつる堂)の秘仏本尊。1990年、国宝に指定された。
③( 12 )
平安時代前期の漆工芸品。蒔絵の初期の遺品として貴重。
④( 13 )・宝相華迦陵頻伽蒔絵ソク冊子箱(ソク=土へんに「塞」)
「三十帖冊子」は、空海が唐から持ち帰った写経の小冊子(サイズは縦横とも十数センチ)30冊で、一部に空海自筆を含む。古来、真言宗の重宝として尊重されている。付属の箱は朝廷から下賜されたもので、平安時代の漆工芸品として貴重である。
(5)( 14 )霊場
北西の成就山にある。四国の霊場を縮小したもの。 (6)「( 15 )」(名勝):境内(史跡)の背丈の低い桜。
(7)徒然草:「仁和寺にある法師」の話は著名。「方丈記」などにも登場する。
(8)世界遺産に登録。 【正解】
1 御室
2 阿弥陀三尊
3 宇多天皇
4 光孝天皇
5 覚行
6 徳川家光
7 古義
8 金堂
9 東寺
10 木造阿弥陀三尊像
11 木造薬師如来坐像
12 宝相華蒔絵宝珠箱
13 三十帖冊子
14 成就山八十八ヶ所
15 御室桜
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京の年中行事・祭・イベント
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京都検定のため、必要最小限の重要事項の整理を加えました。
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泉涌寺(泉山)七福神めぐりと法音院
泉涌寺に向かって塔頭が立ち並ぶ中を上がっていく途中、右手に泉涌寺七福神のうちの寿老人を安置している法音院があります。
法音院は泉涌寺の塔頭で、寺伝によれば、鎌倉時代に創建され、その後江戸時代に現在地に再建されたと伝えています。
また、不空羂索観音を本尊とし、現在の本堂は英照皇太后ゆかりの建物を賜わったもので、書院は伏見城の遺構ともいわれています。
ここはまた、泉涌寺(泉山)七福神めぐりばかりでなく、洛陽三十三観音霊場の第25番札所として広く信仰を集めています。
先日、1月9日に行われた泉涌寺(泉山)七福神めぐりの時のようすをご紹介します。
《泉涌寺(泉山)七福神めぐり》
※場所↓
1 境内と「泉涌寺七福神めぐり」のようす
●山門
山門を入ると右側に寿老人を祀るお堂があり、その奥に不空羂索観音を本尊として祀っている本堂があります。
●寿老人堂と参拝者の行列
●本堂
書院は伏見城の遺構と伝えていますが、どこにあるかわかりませんでした。
本多正重の石碑もわかりません。
2 沿革
・寺伝によれば鎌倉時代末の嘉暦元年(1326)無人如導によって山内に創建されたという。
・江戸時代の初め泉涌寺再興とあい前後して諸塔頭もその威容を整えたが、当院は寛文4・5年(1664・1665)幕府及び駿州田中城主本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂の手により、現在地に移し再建された。
・本尊は不空羂索観音で、現在の本堂は英照皇太后の御須屋を賜わったもの。洛陽三十三観音霊場、第25番札所でもある。泉山七福神の内、寿老人を安置する寺としても衆庶の信仰をうけている。
(法音院公式ホームページより引用)
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泉涌寺(泉山)七福神めぐりと悲田院からの眺望
悲田院は泉涌寺の塔頭の一つで、月輪中学の西側、高台の端に位置する真言宗泉涌寺派の寺院です。
悲田院は、泉涌寺の塔頭のなかで少し離れたところにあるため、観光客にはあまり知られていないようですが、こちらの毘沙門天は除災招福の仏として広く信仰され、泉涌寺七福神めぐりの一つとして大勢の参拝者が訪れるところです。また、ここでは例年甘酒の接待が行われます。
ここには快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐像や通称「逆手の阿弥陀如来立像」と呼ばれる仏像などが伝わりますが、宿坊もやっておられるので、宿泊すれば拝観可能と思います。
また、境内からの京都の市街地の眺めは絶景といっても過言ではなく、京都の市街地中心部から西山、北山方面がよく見えます。
先日、1月9日に行われた泉涌寺(泉山)七福神めぐりの時のようすと、境内からの眺望をご紹介します。
《泉涌寺(泉山)七福神めぐり》
1 境内と「泉涌寺七福神めぐり」のようす
●参道入口に立つ標石
●山門
●境内
●毘沙門天堂
●魔除けの虎
●甘酒の接待
2 境内からの京都市街地の眺望
京都市内の絶景が広がります。
●悲田院の展望台
●京都タワーと工事中の東本願寺と愛宕山
●三十三間堂と新熊野神社の大きなクスノキと左大文字
●三十三間堂と新熊野神社の大きなクスノキ
●智積院方面
●比叡山山頂
3 沿革
《説明板》
聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院の始まりといわれる。延慶元年(1308)無人和尚がこれを一条安居院に再興し、四宗兼学の寺とした。
後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、崩御の時には当寺で御葬儀や荼毘が行なわれた。これより当寺住職は代々天皇の綸旨を賜わり紫衣参内が許された。正保3年(1646)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院である。その後、明治18年(1885)、塔頭寿命院と合併再興され、本尊は阿弥陀如来である。 寺宝としては快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐禅像や逆手の阿弥陀如来立像があり、また土佐光起・光成などの土佐派と、橋本関雪の襖絵がある。なお当院の毘沙門天は除災招福の仏として広く信仰されている。 (悲田院について、公式ホームページより引用)
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泉涌寺(泉山)七福神めぐりと雲龍院の大黒天
先週、1月9日の成人の日に、泉涌寺山内で行われた泉涌寺(泉山)七福神めぐりに行きました。
泉涌寺の大門の境内側から、案内表示に従って、普段は通行禁止になっている道を行くと、雲龍院の前に出ました。
・泉涌寺の大門の境内側から雲龍院へ向かう道
普段は泉涌寺の大門の前を通り過ごし、道なりに奥へ100mほど行ったところに雲龍院の山門があります。
雲龍院は、北朝方の後光厳上皇の勅願によって竹巌聖皐を開山として南北朝時代の応安5年(1372)に創建され、後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展したと伝えています。こうした勅願の寺院という皇室との縁の深さから、ここは塔頭と同じく泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられています。
伽藍は応仁の乱で焼失した後、御所の黒戸御殿を移築して再建されたものの、地震で倒壊し、その後、寛永16年(1639)に後水尾上皇の援助のもとに本堂の龍華殿をはじめ諸堂が再建されて現在に至っています。
ここは、奥まったところにあるため、意外に知られていないので、観光客も少なく、じっくり楽しむことが出来ます。
七福神めぐりの日には、普段は閉められている勅使門が開けられ、突き当たりの本堂(龍華殿)に大黒様が祀られていました。
《七福神めぐりの日の雲龍院》
●勅使門
●本堂(龍華殿)
●大黒天
《沿革》
室町時代の康応元年(1389)に後円融天皇により建立されたが焼失。寛永16年(1639)、後水尾上皇の援助のもとに再建され、「龍華殿」と称している。
杮葺き。重文指定。
本尊は薬師如来で、日光・月光をともなう薬師三尊であり、極めて写実的な鎌倉時代の作とされる。
ここでは後円融天皇(在位1371〜82)以来といわれる長い歴史を持つという写経の体験ができる。
※京の冬の旅で特別公開中
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泉涌寺(泉山)七福神めぐりと泉涌寺の楊貴妃観音像
先週、1月9日の成人の日に、泉涌寺山内で恒例の泉涌寺(泉山)七福神めぐりがありました。
・泉涌寺(泉山)七福神めぐりのポスター
スタートは即成院(福禄寿)で、二番の戒光寺(弁財天)、番外の新善光寺(愛染明王)、西国札所になっている観音寺(恵美須神)、来迎院をまわり、泉涌寺の北側にある入口から境内に入ります。
この日は拝観無料になっていました。
七福神めぐりの番外の楊貴妃観音は大門の近くにありますが、せっかくですから、楊貴妃観音だけでなく、重文の仏殿や舎利殿、霊明殿、月輪陵など、一通りまわってきました。
東山にある泉涌寺は、皇室の菩提所で御寺(みてら)と尊称される、真言宗泉涌寺派総本山の寺院です。
境内は西に大門があり、幅の広いスロープを下ったところに仏殿、舎利殿、その奥に本坊、御座所、霊明殿が並んでいます。
・舎利殿(左)と仏殿(右)
●仏殿(重文)
寛文8年(1668)、徳川家綱により再建されたもの。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。本尊は運慶作と伝える過去・現在・来世を表わす釈迦・阿弥陀・弥勒の三尊を安置。
天井の龍の図と本尊背後の白衣観音図は狩野探幽の筆によるもの。
●舎利殿
仏殿の背後に建つ。もと御所にあった御殿を重層に改装したもので、仏舎利を安置する。天井には狩野山雪による龍の図がある。
●御座所
仏殿・舎利殿の背後に建つ。安政年間に建立され、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を移築したもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。
●海会堂(かいえどう)
御座所に接して建つ土蔵造の仏堂。屋根は宝形造。もとは宮中にあり、「黒戸」と呼ばれていた仏堂を明治元年(1868年)の神仏分離令を機に泉涌寺に移築したもの。かつての天皇、皇后、親王らの念持仏(守り本尊)20数体が安置されている。
●霊明殿
霊明殿のわきを回り込んで進むと、月輪陵がある。
ここには、四条天皇以来14代の天皇陵をはじめ、皇妃、親王陵墓など39の陵墓がある。
●月輪陵・後月輪陵(25陵、5灰塚、9墓)
ここには第87代四条天皇をはじめ第108代の後水尾天皇以降、第120代の仁孝天皇に至る天皇・皇妃・親王の陵墓があります。
なお、天皇は仏式の九重の石塔、后妃は無縫塔、親王は宝篋印塔で、少し離れてみると、九重の石塔の上のほうが見えます。泉涌寺が皇室の菩提寺であることが、ここに来るとよくわかります。
次は、霊明殿の前から、舎利殿と仏殿の南側にある池に沿って進むと、寺名の由来と伝えられる泉涌水の水屋形がある。
●泉涌水の水屋形
泉涌水の水屋形の隣には、清少納言の有名な歌の碑がある。
●清少納言歌碑
「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よにあふさかの関はゆるさじ」
ある日、清少納言のもとに藤原行成がやってきて、遅くまでいて帰った後で、中国の故事にならって、鶏の鳴き声で函谷関が開いたように、追い立てられて帰ったという手紙をよこし、その返歌とし清少納言が書いたもの。
中国の函谷関ではなくて、京都郊外にある逢坂の関に置き換えて、夜のまだ明けないうちに、鶏の鳴き声をまねてだまそうとしても私には通じない、というような意味
清少納言は「枕草子」の作者として有名ですが、清少納言は晩年を現在の泉涌寺のあたりで暮らし、かつて仕えた中宮定子の眠る鳥辺野の御陵を拝しながら生涯を終えたと伝えられています。
次に、スロープを大門に向かって歩いていくと左手に浴室がある。
●浴室
さらにスロープを上がっていくと大門がある。
●大門(重文)
・扁額
・大門から見た仏殿
大門の手前に、楊貴妃観音堂への入口がある。奥まったところに楊貴妃観音堂がある。
堂内に、中国・南宋時代の作である聖観音像(重文)を安置しています。
この像は、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造らせたものと伝え、通称「楊貴妃観音」と呼ばれています。
なお、楊貴妃観音には、美人祈願のご利益があると言われています。
ここが、七福神めぐりの番外になっています。
●七福神めぐりの日の楊貴妃観音堂
※木造観音菩薩坐像(楊貴妃観音):重文
《沿革》
・楊貴妃観音堂に安置される。建長7年(1255)俊芿の弟子湛海が仏舎利とともに中国・南宋から請来したものとされる。
・長らく100年に一度だけ公開する秘仏であったが、請来から700年目の昭和30年(1955)から一般公開されている。作風、材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられている。
・なお、舎利殿に安置される木造韋駄天立像と木造伝・月蓋長者(がつがいちょうじゃ)立像も南宋時代の作であり、楊貴妃観音像とともに1997年、重要文化財に指定されている。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用) なお、泉涌寺には泉涌寺勧縁疏(国宝)など多くの文化財を所蔵し、国内最大の涅槃図は、3月の涅槃会にあわせて公開される。
《京都検定の出題歴》
(1)平成16年度2級
泉涌寺の仏殿わきには百人一首で有名な「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌碑がたっているが、この歌の作者は誰か。 (ア)和泉式部 (イ)赤染衛門 (ウ)清少納言 (エ)紫式部 【正解】(ウ)
(2)平成16年度3級
皇室とゆかりが深く、「御寺」と呼ばれ、皇室の香華院(菩提所)として知られている寺院はどこか。 (ア)仁和寺 (イ)泉涌寺 (ウ)東福寺 (エ)東本願寺 【正解】(イ)
(3)平成17年度2級
泉涌寺は、皇室の香華院(菩提所)として知られるが、最初に御陵が造られた天皇は誰か。 (ア)二条天皇 (イ)四条天皇 (ウ)後光厳天皇 (エ)後小松天皇 【正解】(イ)
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