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斑鳩の法輪寺
法輪寺は、斑鳩町の中宮寺の北、約500mのところに位置する法隆寺を本山とした聖徳宗の寺院で、かつて三つの井戸があったことから別名「三井寺(みいでら)」とも呼ばれています。
創建については、聖徳太子の子の山背大兄王が太子の病気平癒を祈って、子の由義王とともに建立した、と伝えています。
また、昭和の発掘調査の結果、創建当時は東に金堂、西に塔が建つ、法隆寺式の伽藍配置で、平面規模は法隆寺の3分の2であったことがわかりました。
法輪寺には三重塔があり、法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔と並び、飛鳥時代から奈良時代以前に建立された聖徳太子とその一族ゆかりの仏塔として古くから「斑鳩三塔」と呼ばれて親しまれてきましたが、昭和19年に落雷により焼失し、作家の幸田文さんらの尽力で寄金を集め、昭和50年に西岡常一棟梁により現在の塔が再建されました。
法起寺は世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」に含まれていますが、ここ法輪寺は、世界遺産には含まれておらず、国宝もありませんが、講堂の中に安置された仏像は見ごたえがありました。
※場所↓
<周辺地図>
1 境内
●山門前
●駐車場わきの公衆電話ボックス
●講堂(収蔵庫)
山門を入ると、正面に講堂(収蔵庫)、右に金堂、左に三重塔が見える。
●金堂
●三重塔
2 主な仏像について
●木造薬師如来坐像(重文)
●木造虚空蔵菩薩立像
●木造十一面観音菩薩立像
講堂本尊で像高3.5メートルを超える巨像。以下の諸仏とともに平安時代の作。
●そのほか
・木造地蔵菩薩立像
・木造吉祥天立像
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
3 沿革
<説明板>
・昭和の発掘調査の結果、創建当時は東に金堂、西に塔が建つ、法隆寺式の伽藍配置で、平面規模は法隆寺の3分の2であったことが明らかになった。
・平安仏を多く伝えることから、平安時代には寺勢なお盛んであったようだが、次第に衰退し、江戸時代初期には境内に三重塔を残すのみとなった。
・江戸時代の享保年間に再興が始まり、長い年月をかけて現在に至っている。
・「斑鳩三塔」と呼ばれて親しまれていた国宝三重塔は、昭和19年に落雷により焼失し、作家の幸田文さんらの尽力で寄金を集め、昭和50年に西岡常一棟梁により現在の塔が再建された。
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奈良
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斑鳩(いかるが)にある法起寺と三重塔
JR法隆寺駅から北東へ約2.5kmのところに法起寺(ほうきじ、ほっきじ)があります。
ここは法隆寺東院の北東方の山裾の岡本地区にあり、この地は聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地と言われ、太子の遺言により子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられています。
古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)とも呼ばれ、現在は聖徳宗の寺院で、創建当時の建築で現存するものは三重塔のみです。
法起寺のある斑鳩町には飛鳥時代から奈良時代以前に建立された斑鳩町にある聖徳太子とその一族ゆかりの仏塔が残り、法隆寺の五重塔と法輪寺の三重塔(1944年落雷により焼失後1975年再建)と、ここ、法起寺の三重塔をあわせて「斑鳩三塔」と呼ばれています。
・周辺地図
法起寺の三重塔は706年頃の完成とみられ、高さは24mで、三重塔としては日本最古であり、特異な形式の三重塔である薬師寺東塔を除けば、日本最大の三重塔と言われています。
ここは、近くにある法隆寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されています。
※場所↓
1 境内
・境内図
●三重塔(国宝)
・池と三重塔
三重塔としては日本最古とされる。また、高さ24mであり、特異な形式の三重塔である薬師寺東塔を除けば、日本最大の三重塔と言われている。
日本の木造塔は方三間(正側面のいずれにも柱が4本並び、柱間の数が3つになるという意味)が原則だが、この塔は初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間という特殊な形式になっている。
この塔は江戸時代の延宝年間の修理で大きく改造され、この時、三重の柱間も2間から3間に変更されていたが、1970年〜1975年の解体修理の際、部材に残る痕跡を元に、創建当時の形に復元された。
●講堂
元禄7年(1694)の再建
・扁額「法起寺」
●西門
●聖天堂
金堂跡に1863年再建
※「法起寺式伽藍配置」
境内の発掘調査によって、創建当時の伽藍配置が判明した。旧伽藍は、金堂と塔が左右(東西)に並び、法隆寺西院の伽藍配置と似るが、法隆寺とは逆に金堂が西、塔が東に建つもので、このような形式を「法起寺式伽藍配置」と称している。
≪仏像≫
・木造十一面観音立像(重文)
収蔵庫に安置。像高3.5m。10世紀後半の作とされる。
・銅造菩薩立像(重文)
像高20cm。7世紀後半の作とされる。奈良国立博物館に寄託。
2 沿革
・法起寺は、法隆寺東院の北東方の山裾の岡本地区にある聖徳宗の寺院。古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)とも呼ばれた。
・ここはこの地は聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地と言われ、太子の遺言により子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられている。
・本尊は十一面観音。聖徳太子建立七大寺の一つに数えられることもある。
・「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されている。
・三重塔は建築様式の点からも706年頃の建立と見られ、三重塔としては日本最古とされる。
・境内は国の史跡に指定されている。
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春日大社と境内
奈良市街地の東部に広大な境内のある春日大社は、藤原氏の氏神であり、また平城京の守護神でした。
猿沢の池と興福寺の間を通る三条通を東へ進むと一の鳥居があり、御蓋山の麓に広がる原始林を見ながら参道を歩いて行きます。
参道の両側には全国各地から奉納された石灯籠が並び、昔から神の使いとされ、保護されてきた数多くの鹿があちこちにいます。
南門を入ると幣殿・舞殿があり、その奥に中門(重文)があります。
春日大社は奈良時代の神護景雲2年(768)、藤原氏の血を引く女帝、称徳天皇の勅命により、左大臣藤原永手らが鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもってはじまりとしています。
中門の奥に春日造の本社本殿が4棟並び、国宝に指定されています。
なお、奈良の鹿、境内のナギの樹林は国の天然記念物に指定され、境内全域が国指定史跡となっています。
また、春日大社と春日山原始林は、平成10年に世界遺産に登録された「古都奈良の文化財」を構成する資産とされています。
※場所↓
●一の鳥居
●参道入口
●春日大社境内のイチイガシ巨樹群(市指定文化財)
●参道の石灯籠と鹿
●二の鳥居
●伏鹿の手水所
●南門
●参拝所
●中門
●本殿
・藤原氏の守護神である鹿島の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を第一殿に、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)を第二殿に、枚岡神社に祀られていた祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を第三殿に、比売神を第四殿に祀っている。四神をもって藤原氏の氏神とし、春日神と総称されている。
●砂ずりの藤
●桂昌殿
●酒殿・竈殿
●一言主神社
●水谷神社
≪沿革≫
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飛鳥寺と飛鳥大仏
飛鳥寺は明日香村の甘樫丘の東方にあります。
※場所↓
飛鳥寺の前身は法興寺といい、日本書紀によると、用明天皇2年(587)に蘇我馬子が建立を発願し、蘇我氏の氏寺として造営されたとされ、同じ明日香村にある豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び日本最古の本格的仏教寺院とされています。
蘇我氏は仏教を熱心に信仰し、百済の技術者を招いたといわれています。
飛鳥寺の本尊は釈迦如来で、通称「飛鳥大仏」として広く知られ、現在の宗派は真言宗豊山派です。
昭和31〜32年の発掘調査の結果によれば、当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の壮大な伽藍でした。
・創建時の伽藍配置図
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて朝廷の保護を受けるようになりました。
平城遷都以後、法興寺も現在の奈良市に移転し元興寺となりましたが、飛鳥の法興寺も存続し本元興寺と称されました。その後、建久7年(1196)の火災による焼失後、中世以降の衰退は著しく江戸時代には仮堂一宇を残すのみとなりました。
現在の本堂は江戸末期の文政8年(1825)に大坂の篤志家の援助で再建されたものです。
●銅造釈迦如来坐像(通称 飛鳥大仏)・重文
飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られる。7世紀初頭、鞍作鳥の作とされる。当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみといわれる。
頬の辺りに修復の跡が生々しい。ここは珍しく写真撮影OK。
●そのほかの仏像
・聖徳太子孝養像(室町時代)、阿弥陀如来坐像(藤原時代)
●本堂から見た創建当初の金堂の礎石
●本堂から見た鐘楼方面
●飛鳥寺の中庭
・飛鳥寺形石灯籠
・宝篋印塔
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奈良の宇陀市にある八咫烏(やたがらす)神社
八咫烏神社は、宇陀市榛原区にある宇陀市役所から芳野川沿いに続く県道31号線を菟田野方面に向う途中の田園地帯にあります。31号線沿いに参道入口の鳥居が立ち、参道を進むと境内が広がっています。
境内中央に拝殿があり、拝殿の奥にある急な石段を上がると、本殿が建っています。
神社の由緒について、『続日本紀』には文武天皇の時代、慶雲2年(705)に八咫烏社を祭るとの記述があり、これが当社の創祀とされ、延喜式神名帳の式内社であり、祭神は建角身命(たけつぬみのみこと)です。
寺伝によると、後の神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中が険しく道を失ったときに、建角身命が八咫烏となり、停滞する一行を大和へと導いたとされています。
京都の鴨県主は八咫烏の子孫であるとの伝承があり、下鴨神社の祭神も賀茂建角身命です。
なお、境内に日本サッカー協会のシンボルマークである八咫烏のモニュメントがあります。
大雨の日の週末に訪れたときのようすです。
※場所↓
1 境内
●県道に面した参道入口の鳥居
●境内入口の鳥居
●鳥居越しに見た山並み
●手水舎
●拝殿
●八咫烏のモニュメント
●石段と中門
・中門
●本殿
2 八咫烏神社の沿革
<説明板>
武角身命たけつぬみのみこと(建角身命)を祭神とする八咫烏神社は、『続日本紀しょくにほんぎ』に慶雲2年(705年)9月、八咫烏の社を大倭(おおやまと)国宇太郡に置いて祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代(文政年間・1818〜1830)には、これまで石神殿であったものが春日造りの社殿となりました。その後、紀元二千六百年を記念して社域を拡張・整備し、現在に至っています。
『古事記』、『日本書紀』によると神武天皇が熊野から大和へ入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地士族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主(かものあがたぬし)が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです。
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