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京の歴史・史跡めぐり

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宇治橋から浮島十三重石塔へ
 
 
宇治は、宇治川の清流のもと、平等院をはじめとする歴史的遺産にあふれ、また自然の豊かな景勝地で、はるかな歴史の流れと四季の移ろいを感じることのできるところです。
 
また平安朝文学の最高峰とうたわれた源氏物語宇治十帖(源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋まで)の古跡が各地に点在する詩情豊かなところでもあります。
 
 梅雨時の晴れ間が見られた週末の早朝、宇治川に沿ってのんびりと歩いてみました。
 
●ゴイサギと宇治川と浮島十三重石塔
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●宇治橋
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・橋の上からの景色
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<宇治橋の歴史>
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宇治橋は大化2年(646)に初めて架けられた日本最古級の橋で、その後戦乱や災害などで被災の都度、架け替えられ、現在の橋は、平成8年に架け替えられたもの。長さ155.4m、幅25m。
 
宇治川の上流にあたる瀬田川に架かる「唐橋」(大津市)と現在の大山崎町あたりで淀川に架かって「山崎橋」(現存せず)をあわせて、日本三古橋といわれていた。
 
 
●「三の間」
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 宇治橋の中央部に上流側に突き出た部分。豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた場所と伝えられています。明治以前まではここに橋の守護神・橋姫が祀られていました。毎年10月の宇治茶まつりでは、今もここから水が汲まれます。
 
 
●宇治橋のたもとにある通圓と駿河屋
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 通圓の創業は平安時代末と伝わります。
 
 
 
●紫式部の像と夢浮橋の古蹟
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 京阪宇治駅方面から宇治橋を渡ると、宇治橋西詰で、ここから道路は大きく3つに分かれます。
 
ここでは、平等院の参道に向かいます。
 
 
●参道に建ち並ぶ宇治茶を扱う老舗
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●平等院入口
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平等院の脇から土手に出て、宇治川の左岸(西側)に沿って、「あじろぎの道」と呼ばれる小道が府道に合流する地点まで続いています。
 
 
●中の島
宇治川の中洲である「中の島」には二つの川洲があり、下流側が橘島、上流側が塔の島といい、橘島には橘橋、塔の島には喜撰橋という小さな橋が架けられています。
 
塔の島には、十三重石塔(重文)があります。
 
 
・中の島と橘橋
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・中の島と喜撰橋
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・喜撰橋のたもとにいたアオサギ
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●十三重石塔(重文)
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 高さ約15m、現存する日本最大の最古の石塔。もとは、鎌倉時代に奈良西大寺の高僧の叡尊によって、宇治川での殺生の罪を戒め、供養塔として建立されたものと伝えられています。
 
 その後、洪水のために倒壊と修復・再興を繰り返し、宝暦6年(1756)の大洪水による流失以降、約150年間、川中に埋没していたそうです。
 
 明治40(1907)より再興に向けた工事が行われ、川床の泥砂に埋もれた巨石の所在確認を第一歩に発掘に着手、工事が行われ、現在の姿が再現されました。
 
 
京の名水「芹根水」の石標
 
 
「芹根水」はかつて京の七名水の一つといわれ、茶人や文人をはじめ多くの人々に親しまれていたと伝えられています。
 
『都名所図会』巻二に描かれていることから、京の名所としても知られていたようです。
 
<『都名所図会』巻二>
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この絵の中に「芹根水」と書かれた石標が描かれていますが、現在、この石標が今、西堀川通木津屋橋下ル東側に立っています。
 
「芹根水」の石標が立つ西堀川通
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●あたりの古い民家に残る仁丹の住居表示
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「芹根水」の石標
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<説明板>
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立ち止まって眺める人もなく、忘れ去られたように立っていますが、芹根水は、もと堀川通木津屋橋下る、の堀川沿いに湧いた水で、京の七名水の一つといわれ広く知られていました。また、室町期には能阿弥によって茶の七名水の1つに数えられていたそうです。
 
芹根水は堀川と同水位だったので、川水が入らないように書家松下烏石(16991779)が寄進した井筒で囲まれていたと伝えられています。
 
この名水は文人、茶道家、商家に愛用されていましたが、大正3年の堀川改修のときに濁水が流れ込み用をなさなくなったそうです。また、井筒も失われ、現在残る石標のみが残され、昭和57(1982)の堀川暗渠工事の際に現在地に移されました。
 
また、芹根水跡碑の側には鳥石の書と伝えられる「文房四神の碑」も立っています。
 
●「文房四神の碑」
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<説明板>
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長い歴史のある京都では、普段何気なく通り過ぎている街角に、数百年の歳月を経てきたものが置かれている、ということはよくあることなので、時には立ち止まってかたわらに立つ説明板を読んでみるゆとりが欲しいものです。
高瀬川沿い木屋町通を四条通から三条通へ
 
 
木屋町通は先斗町の西側、高瀬川に沿った二条通から七条通までの通りです。
 
この通りは、慶長年間の角倉了以の高瀬川開削に伴って整備されました。
 
開通当時は、「樵木町」(こりきまち)と呼ばれていたのが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったといわれています。
 
江戸時代中頃になると、この通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、次第に娯楽の場へと姿を変えていったそうで、今でもこのあたりは京都でも屈指の歓楽街となっています。
 
また、幕末にはこの周辺で勤皇志士が密会に利用したことから、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑がこの通りの周辺にあり、大村益次郎や本間精一郎、佐久間象山などの殉難の碑もあります。
 
高瀬川の川岸に沿って桜並木が続き、桜の花見の頃は多くの観光客も訪れるところですが、冬の今頃も幕末の歴史探訪などを兼ねて散策するのにおすすめの所です。
 
 四条通から三条通まで歩いてみました。
 
①高瀬川
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②慶長年間の角倉了以の高瀬川開削の記念碑
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<説明板>
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③土佐藩邸跡と岬神社(土佐稲荷)
 
高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠小学校の辺りには、江戸時代、土佐藩の藩邸がありました。当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていました。
 
 なお、もと藩邸に鎮守社として岬神社(土佐稲荷)が置かれていましたが、廃藩後、現在地に移されました。
 
 
●土佐藩邸跡
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 土佐藩邸跡は、江戸時代初期から明治4年(1871)まで、土佐藩主 山内家の藩邸の京屋敷があったところで、高瀬川沿いの旧立誠小学校あたりから河原町通の一帯に広がっていた。

なお、土佐藩邸の北に彦根藩邸跡、更に北には長州藩邸があった。
 
 
●説明板
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藩邸が初めて置かれたのは江戸時代で、元禄3年(1690)には、京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められていた。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たっていた。
 
土佐藩は、薩摩、長州と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
 
旧藩邸跡の西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。
 
 
 
●岬神社(土佐稲荷)
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※場所
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.46.21.6N35.0.10.8&ZM=12
元 立誠小学校の北側にある。
 
・沿革
<説明板>
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④彦根藩邸跡
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 彦根藩邸は土佐藩邸の北にありました。
 
 
⑤本間精一郎遭難地
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この標石のすぐそばに説明板があり、次のように書いてあります。
 
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「文久二年閏八月二十日夜、勤王の志士本間精一郎はここで斬られた。精一郎は越後の人、江戸に出て勉強し、安政の大獄の後京都にのぼって尊王攘夷運動に身を投じた。どの藩にも属さなかったので自由に行動することができ、急進派に属した。しかし急進派の動きは伏見寺田屋の変でくじけ、精一郎はその頃から酒色に身を持ち崩して、同志からも次第に嫌われるようになった。この夜、先斗町で遊んだ帰り道を精一郎は襲われた。この南側の瓢箪路地を木屋町へ逃げようとしたが斬殺された。時に年二十九歳である。   京都市」
 
 説明板に書かれている「この南側の瓢箪路地」について、標石の南側に狭い路地があり、以前は立ち入ることも出来たのですが、今は門が新設され、路地に入ることができなくなりました。
  
 
⑤三条小橋たもとにある大村益次郎、佐久間象山遭難の碑
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実際に遭難したのは木屋町御池上ルで、碑があります。
 
三条大橋と周辺の見どころ
 
 
 三条大橋は中京区と東山区の境を流れる鴨川に架かる橋で、河原町三条方面と京阪や地下鉄の駅がある鴨川の東側を結ぶ橋として、多くの人たちに利用されています。
 
・三条大橋西詰から見た河原町方面
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 橋の東側のたもとには、待ち合わせのスポットとして関西では「土下座像」として広く知られている江戸時代の勤皇思想家、高山彦九郎の銅像もあります。また、さまざまなショップやレストランなどが入ったKYOUENなどがあり、祇園縄手方面も行くことができます。
 
 三条大橋は昔の欄干を残した京都らしい情緒のある三条大橋ですが、この橋は、かつては東海道五十三次の起点・終点であり、重要な交通上の要衝でした。
 
 今でも、欄干の擬宝珠のうち14個は天正のものといわれ、擬宝珠をよく見ると、刀傷が残っていたり、築造された頃の「天正」という文字が彫られていたり、橋のたもとに高札場跡があったりと、三条大橋周辺は見所が多いところです。
 
 
橋の情景
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・三条大橋から北方、御池大橋方面の眺め
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場所
 
 
三条大橋の変遷
 橋のたもとにある説明板には、
 
・この橋が本格的な堅固な橋となったのは天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により増田長盛を奉行として大改造を行った。
 
・擬宝珠は天正と昭和のものが混用されている。
 
・以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。
 
・元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年(1950)の改造によって今の姿に改められた。
 
・現在の橋の長さは74m、幅15.5m。
 
と書かれています。
 
なお、橋の西詰め北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されています。
 
 
●三条大橋からの景観
 比叡山や東山、北山の眺めは四季折々の京都らしい風情を醸し出しています。
 
東山三十六峰
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 京都盆地の東側に位置する南北12kmほどの山地の総称で比叡山から稲荷山までの三十六の峰々を言います。
 
 東山の景色については現在ではビルが建っているため、三条大橋からは一部しか見ることができません。
 
 
 このおだやかな山並を江戸時代の俳人で芭蕉の門下の服部嵐雪は
 
「ふとん着て寝たる姿や東山」
 
 と詠んでいます。
 
 
 
●弥次・喜多像と撫で石
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 橋の西詰めには、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんの像があります。
 
 また、道中安全を祈願するための「撫で石」が置かれています。
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●高札場跡
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 橋の西詰め北側は、高札場とされたところです。
 
 
●天正18年、日本初の石橋として架けられた時に、橋脚に使われた石柱
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●三条大橋の擬宝珠の刀傷
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 三条大橋西側から2つ目の南北擬宝珠に刀傷らしい切り傷があります。これは幕末の池田屋騒動の時についたのではないかといわれています。
 
 
<関連事項>

江戸時代の京の名所案内記、地誌
(1)中川喜雲:「京童」
ある法師が少年に案内させて京見物するというもの。
 
(2)浅井了意:「京雀」
 
(3)水雲堂孤松子:「京羽二重」
 
(4)黒川道祐:「雍州府志」
 
(5)秋里籬島:「都名所図会」、「都林泉名所図会」、「東海道名所図会」
 
<京都検定出題歴>
(1)平成19年度2
「都名所図会」に続き、庭園のガイドブック「都林泉名所図会」を著したのは(  )である。
(ア)秋里籬島 (イ)浅井了意 (ウ)水雲堂孤松子 (エ)黒川道祐
 
【正解】(ア)
 
(2)平成17年度2
三条大橋の東側にあり、御所に向かって拝礼する像の人物は(    )である。
(ア)高山彦九郎 (イ)桂小五郎 (ウ)近藤勇  (エ)十辺舎一九
 
【正解】(ア)
 
 
 
●お知らせ
今日も、ブログ「京都検定合格を目指す京都案内2」を更新していますので、ぜひこちらのほうへもお立ち寄りください。
 
URLは次のとおりです。
   ↓
 
 
 
 
地下鉄東西線の蹴上駅から南禅寺に向かう途中にある「ねじりまんぼ」
 
 
  京都市営地下鉄東西線の蹴上駅から地上に出て、南禅寺に向かう途中、赤レンガでできた古いトンネルをくぐります。
 
このトンネルは、明治時代にできた琵琶湖疏水のインクラインの傾斜した土手下をくぐるトンネルで、「まんぼ」というのは地元の方言でトンネルの意味であり、トンネルの強度を増すため、レンガをらせん状に組むトンネル工法が取られているために、積まれたレンガがねじれて見えることから「ねじりまんぼ」と呼ばれ、親しまれてきました。
 
トンネルの東西入口には第3代京都府知事であった北垣国道の揮毫で「雄観奇想」「陽気発処」と記されています。
 
●「雄観奇想」
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「雄観奇想」は、素晴らしい眺めと優れた考えという意味だそうです。
 
 
 
●「陽気発処」
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 陽気発するところ金石もまた透る(精神を集中すれば何事もなし得ないことはない)
 
『朱子語類』の中の『陽気発処、金石亦透、精神一到、何事不成』から来ているそうです。

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