|
室町時代の六波羅蜜寺の遺構が発見され、現地説明会が行われました
六波羅蜜寺に隣接する元六原小の敷地で、京都市埋蔵文化財研究所が発掘調査を行った結果、室町時代の六波羅蜜寺の門や堀の跡を発見した、ということが発表され、20日、現地説明会が行われ、大勢の人が訪れました。
●現地説明会会場と発掘現場
六波羅蜜寺本堂西側に隣接している
現地では、小中学校の校舎新築に伴い、京都市埋蔵文化財研究所が6月から発掘調査していました。
調査地は六波羅蜜寺の北と西に接しており、同寺の本堂から約30m北に四脚門の跡が見つかりました。この門は、間口は約1.5mで通用口として使われた可能性があるということです。
門の両側には東西に延びる築地塀の跡もあり、当時の寺の北限と見られています。
また本堂の西約30mでは斜面から南北に走る断面がV字形の「薬研堀(やげんぼり)」と呼ばれる堀跡が見つかりました。
今後さらに掘り進めていくとのことで、鎌倉時代の六波羅政庁の施設の遺構が発見されるのでは、と期待されるところです。
●北側 四脚門の跡と築地塀の跡
●西側 南北に走る断面がV字形の「薬研堀」と呼ばれる堀跡など
●出土した瓦や土器の破片
発掘調査の現地説明会は、いつも新しい発見と今後の調査に向けた期待について、想像力をかきたてるものがあり、とても面白く、これからも行けるところはできるだけ行ってみたいと思っています。
|
京の歴史・史跡めぐり
[ リスト | 詳細 ]
京都検定のため、必要最小限の重要事項の整理を加えました。
|
平安京の羅城門跡と矢取地蔵にある復元模型
南区の九条新千本交差点から東へ約100m、京阪国道口交差点から西へ約250mの北側に花園児童公園という小さな公園があり、ここに羅城門跡を示す石標が建っています。
羅城門は、平安京の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門で、事実上の都の正門ともいうべき門でした。
この門は、二層構造の門であったとされ、この門を境にして、洛中と洛外が区別され、羅城門を守護する東西の位置に、東寺と西寺が置かれました。
その後、弘仁7年(816)に羅城門は大風で倒壊し、いったんは再建されたものの、天元3年(980)、暴風雨により再度倒壊してからは再建されず、右京地域が寂れていくのと共にこの門も荒廃していきました。
やがて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、洛南の羅城門周辺は荒廃し、盗賊のすみかにもなり、その荒廃ぶりから羅城門に関わる様々な説話や怪談が生まれ、浮世絵や芥川龍之介の『羅生門』の小説などの題材とされ、羅城門の名を今に伝えています。
かつての羅城門の跡地に、明治28年(1895)の平安遷都千百年祭の事業の一つとして、京都市参事会の手によって石標が建立されました。
かつての羅城門の礎石もなく、小さな公園に、石標がひっそりとたたずんでいます。
2 花園児童公園と標石
・国道側からの入口
・花園児童公園と石標
②石標
③復元模型
公園のとなりにある小さなお寺(矢取地蔵)の中をのぞきこむと、まるでプラモデルのような復元模型が置いてあるのが見えます。
・矢取地蔵
・内部に置かれた復元模型
<説明板>
・門は二層からなり、瓦葺き、屋上の棟にはしびが金色に輝いていた。
正面十丈六尺(約32m)、奥行二丈六尺(約8m)、内側、外四側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。
・嘉永3年(1107)正月、山陰地方に源義親を討伐した平正盛は、京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあった。
・しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかともなり、数々の奇談を生んだ。
・その話を取材した芥川龍之介の小説を映画化した「羅生門」はこの門の名を世界的に有名にしたが、今は礎石も無く、わずかに明治28年建立の標石を残すのみである。
・付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていない。
・東寺の木造兜跋(とばつ)毘沙門天立像(国宝)、三彩鬼瓦(重文)はこの門にあったと伝えられている。
|
|
木津にある安福寺の平重衡の供養塔と伏見区日野にある平重衡の墓
JR奈良線に乗って、京都方面から奈良に向う途中、木津川の橋を渡ってすぐ左側の線路わきにお寺が見えます。
ここは安福寺という西山浄土宗の寺院で、境内には、平清盛の五男で治承4年(1181)に東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした、いわゆる「南都焼討」を行った平重衡の供養塔と伝えられている十三重石塔があります。
平重衡の南都焼討は南都の衆徒からひどく憎まれました。
寿永3年(1184)に一ノ谷の戦いで平氏は源氏軍に大敗を喫し、このとき平重衡は馬を射られて捕らえられます。その後、平氏滅亡後、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって重衡は南都へ引き渡され、木津川畔で斬首されました。
平重衡が処刑された木津川畔に安福寺があり、境内には平重衡の供養塔と伝えられている十三重石塔があります。
また、安福寺本尊の阿弥陀如来像は重衡の引導仏と伝えられています。
平重衡が処刑された後、妻の佐局(すけのつぼね)はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都の衆徒から首ももらい受けて荼毘にふし、遺骨を高野山に葬って、日野に墓を建てたと伝えられています。
現在の伏見区日野には平重衡の墓と伝える石塔があります。
2 境内のようす
①山門
②「平重衡卿之墓」と彫られた標石
山門前にある。
③山門から見た本堂
④十三重石塔
⑤境内の建物
⑥石仏
3 平重衡について
・平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室平時子。平氏の大将の一人として各地で戦い、治承4年(1181)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした、いわゆる「南都焼討」を行った。
・重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた。
・この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。
・寿永3年(1184)の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。
・一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送され、頼朝と引見した。頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出した。
・『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、思慕するようになった。
・元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の大納言佐局(すけのつぼね)は助け上げられ捕虜になった。
・平氏滅亡後、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって重衡は南都へ引き渡され、木津川畔で斬首された。
・『平家物語』には、一行が重衡の妻の佐局が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、佐局が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。
・『愚管抄』にも日野で重衡と佐局が再会したという記述がある。
・重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29。
・妻の佐局はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆から首ももらい受けて荼毘にふし、遺骨を高野山に葬って日野に墓を建てた。その後、隠棲した建礼門院に仕える。夫婦の間に子は無かった。
・重衡の死の3年後に鎌倉の千手の前は若くして死んだ。人々は亡き重衡を恋慕して憂死したのだと噂した。京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。
・東大寺盧舎那仏像は重源の大勧進によって再建され、建久6年(1195)に大仏殿の落慶法要が行われた。戦国時代に松永久秀によって再び焼亡し、現在のものは江戸時代に再建されたものである。
以上、フリー百科事典「ウィキペディア」より引用。
4 安福寺の沿革
<説明板>
・西山浄土宗の末寺。
・阿弥陀如来坐像(本尊)は、「源平盛衰記」の記述によれば、平重衡は、東大寺、興福寺を焼いた罪で木津の地で処刑される際に、重衡の引導仏となったというのが、本尊の阿弥陀如来坐像といわれる。
・十三重石塔は、重衡の供養塔と伝えられている。
・安福寺近くの木津川の河畔には、「首洗い池」や重衡が最後に食べた柿の種が成長したもので実がならないと言い伝えられている「不成柿」という柿の木があるという。
・「首洗い池」案内図
・「不成柿(ならずがき)」
重衡が最後に食べた柿の種が成長したもので、実が成りないといわれている。
5 伏見区日野にある平重衡の墓
伏見区の日野は親鸞の誕生地と伝えられ、親鸞の誕生の地を記念して昭和6年(1931)に建立された日野誕生院がある。
また、近くには法界寺や萱尾神社、鴨長明が方丈記を書いたといわれる方丈石がある。
こうした日野の一角に、平重衡の墓がある。
ここはわかりにくいところにあり、案内板などもないが、児童公園のようなところに「従三位平重衡卿墓」としるした石標と石塔が並んでいる。
①場所↓
②平重衡の墓
・説明板
この地は、平重衡の北ノ方平家没落後、身を寄せていたところと伝えられる。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆の訴えによって前年の南都焼きうちの責を問われ、文治元年(1185)鎌倉から奈良に引き渡されたが、途中、この地に立ち寄って大納言佐局(すけのつぼね)と別れを惜しんだ。
その情景は付近の合場川、琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。
木津川河原において首をはねられた重衡の遺骸は、佐局によって引き取られ、火葬後、ここ、日野の地に埋葬されたといわれている。
|
|
同志社の創設者「新島襄」の旧邸
京都御所の東側、寺町通に面して、同志社の創設者、新島襄夫妻の旧邸が当時のまま保存され、京都市の文化財に指定され、季節を限定して無料公開されています。
・寺町通に面した旧邸
2 外観
<説明板>
・新島旧邸の外観は、建物の周りをバルコニーで囲んだコロニアル様式という洋風建築様式を取り入れている。
・内装には畳敷や箱階段など伝統的な和風の建築手法が随所に見られる。
・設計者・施工者とも明らかではないが、当時の同志社教員で医師・宣教師でもあったW.テイラーの助言を得ながら、新島襄が設計したとも伝えられている。
・同志社創立者の旧居として価値が高いことなどから、昭和60年(1985)に京都市指定有形文化財に指定された。
3 内部の様子
・応接間
・オルガン
・勝海舟揮毫の六然の書の額
・書斎
4 新島襄と同志社英学校(フリー百科事典「ウィキペディア」参照)
・幕末に渡米していた新島襄は、明治7年(1874)に帰国し、翌年(1875)、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実子爵より屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けることが出来たので、ここに校舎を確保し、京都府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て同志社英学校を開校して初代社長に就任。
・山本覚馬は維新後に購入していた相国寺前の旧薩摩藩邸の敷地(6000坪)を学校用地として新島に譲渡し、同志社英学校はここに移転し、その後、同志社英学校からその後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスとなっている(なお「同志社」は覚馬の命名といわれる)。
・一方、同志社英学校が相国寺前の薩摩藩邸跡に移転したため、その仮校舎として借家していた高松保実邸の跡地を買い取り、日本の大工の手によって、アメリカ人宣教師の助言などを参考にして、洋風の私宅を建てた。なお、建築費用はボストンの友人J.M.シアーズからの寄付であるといわれる。
・新島夫妻はここで約10年間暮らした。なお、別棟の平屋の建物があり、ここには新島が出身地の安中から呼び寄せた両親や姉などが暮らしたという。
・第二次世界大戦後、無人となったが、昭和60年に調度・家具類も含めて京都市の文化財に指定され、平成2年に全面解体修理が行われて、平成4年以降、一般公開されている。
5 公開日・時間
・入場料は無料。受付で氏名を書いてパンフレットをいただき、自由に見学をする。 ・一般開放の時期は3〜7月、9〜11月の毎週水、土、日曜日と御所の一般公開日、11月29日の同志社創立記念日のみ。
・公開時間は10:00〜16:00まで。
6 新島襄の墓
新島は明治23年(1890)、群馬県の前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯で死去。葬儀は同志社前のチャペルで営まれ、東山の若王子山頂に葬られた。墓碑銘は勝海舟の筆。
|
|
巨椋池と東一口(ひがしいもあらい)の山田家長屋門
巨椋池は、かつて京都市伏見区南部(向島)、宇治市西部、久御山町にまたがる場所に存在した巨大な池で、豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより時代によって姿を変え、最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって消滅してしまい、跡地は大規模な農地に姿を変えました。
2 巨椋池
(1)かつての景勝地 万葉の古歌にも詠まれ、近世にいたるまで文人墨客たちにその水郷風景をめでられた。 (2)干拓の経過
・干拓前の巨椋池は周囲約16km、水域面積約800haであり、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。ここにはかつて、宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込み、満々と水を湛え、魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれていた。 ・中世以降、水害対策として水路の付け替えが頻繁に行われたが、そのために、池の水位は数十センチにまで低下し、水草が繁茂するようになり、人々は池の活路を干拓に求め、昭和16年干拓事業が完成し、現在は田園地帯が広がっている。
・巨椋池干拓地に広がる農地
(3)平安京造営と巨椋池
巨椋池は、平安京の造営にあたって、新京予定地が「地相」(四神相応之地)であることを占う上で、南の朱雀の地形上のシンボルである「大池」であるとされたと伝えられている。
初代の造宮大夫である藤原小黒麻呂は、「地相」を占うために視察に入り、北の玄武、東の青竜、南の朱雀、西の白虎、それぞれの地形上のシンボルについて、それぞれ、大岩(船岡山)、大池(巨椋池)、大川(鴨川)、大道(山陰道)であると判断したといわれている。
3 東一口
かつての巨椋池の島の一つだった高台に「東一口」という集落がある。
・表示板
「東一口」は、京都では難読地名の一つとして知られている。
ここは鳥羽上皇の時代以来、昭和16年に巨椋池が干拓されるまで、長い年月にわたって漁業を専業とする集落があり、その総帥であった山田家の長屋門がかつての繁栄をしのばせている。
(1)「一口」の由来 多くの説があり、かつてあった巨椋池が、三方を閉ざされ一ケ所だけ淀川に向けて開口していたから、とか、村の三方を巨椋池に囲まれ、村への入り口が一カ所しかなかったためなどといわれている。 明確ないわれは不明であるが、病気が入ってこないように村の入り口に祀った神様「いもあらい」(いも=病気の名前、漢字は疱瘡、あらう=はらう)が読み方として定着したという説がある。
(2)東一口の西には西一口(にしいもあらい)という地域もある。
4 東一口と山田家
(1)集落の立地 東一口の集落は、巨椋池にあった細長い中州に沿って古い建物の残る町並みが続き、細長い集落の両脇には、干拓で整備された排水路の前川と古川が流れる。 ・古い街並み
・お地蔵さん
・前川
地名の由来には、三方が巨椋池だったので、村への入り口が一カ所しかなかったためとの説もある。
(2)漁業とのかかわり
東一口村は後鳥羽上皇の時代に下賜された特権的な漁業権を持ち、大池の七割を占有する漁業集落であった。
(3)山田家
巨椋池の漁業権の総帥が山田家で、江戸時代後期に建てられた住宅と往時の繁栄ぶりを物語る壮大な長屋門が残っている。
<説明板>
・東一口は、昭和8年に巨椋池干拓工事が着工されるまで、漁業を専業とする集落だった。
・後鳥羽上皇より賜わったと伝える漁業権は、東一口村、小倉村、三栖村、弾正村の四ヵ郷の漁師が持っていた。
・山田家は、その漁業権としての総帥としての格式を今なお伝え、屋敷の規模は当時の三分の一程に縮小されているものの、書院の間や欄間等に往時の姿をとどめている。
・長屋門は、東西十五間、奥行き二間半。三間の入口には総欅の扉があり、両妻の張り、軒の塗籠め仕上げ、出格子やその小屋根など、いずれも雄大、大胆な造りである。
<長屋門>
(4)安養寺
山田家のすぐ近くにある寺院。十一面観音像が来年3月開帳される。
・安養寺前のようす
5 大池神社
東一口の集落の近く、干拓地にある。 ・大池の碑
|







