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歴史上の有名人の墓

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中宮定子の鳥戸野陵と泉涌寺の清少納言歌碑
 
 
 泉涌寺の塔頭が建ち並ぶ丘から北東側に谷を一つ隔てて木々の生い茂る丘があります。この丘に中宮定子の鳥戸野陵があります。
 
ここは、参道の入口がちょっとわかりにくいところにありますが、今熊野の方から剣神社の前を通り、この先を少し行くと、右手に小さな谷を渡る橋があり、ここには大きなしだれ桜がありますが、この橋を渡って道なりに歩くととまもなく鳥戸野陵の石段下に出ます。
 
・小さな谷を渡る橋としだれ桜
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 春、しだれ桜が咲く頃、ぜひ訪れたいものです。
 
 泉涌寺の即成院のわきの坂道を下って剣神社近くに出る道もあり、即成院から歩いても10分くらいのところにあります。
 
 
 中宮定子は正暦元年(990年)数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内し、その後中宮となりましたが、清少納言は定子の一族が輝かしい栄華を謳歌していた頃から、定子の死去にいたるまで、定子に仕え、「枕草子」を著しました。
 
 その「枕草子」の作者として有名な清少納言の歌碑が、中宮定子の鳥戸野陵から谷を一つ隔てた丘の上にある泉涌寺の仏殿の脇にあります。
 
 清少納言は晩年を現在の泉涌寺のあたりで暮らし、定子の眠る鳥戸野の御陵を拝しながら生涯を終えたと伝えられています。
 
 泉涌寺と鳥戸野陵の間は、実際に歩いてみると、その距離の近いことに驚きます。
 
 清少納言が枕草子で「春はあけぼの ようよう白くなりゆく山際 少し明かりて」と書いているのは東山を描いた文章だとされ、はるか平安の昔から人々に親しまれてきたところであり、清少納言が晩年を暮らしたといわれるこのあたりを散策するのも楽しいものです。
 
 
1 定子の鳥戸野陵
 定子は第二皇女を出産した直後に亡くなり、生前の希望から鳥辺野の南のあたりに葬られたとされ、陵墓は東山区今熊野泉山町にある鳥戸野陵(とりべののみささぎ)とされています。
 
●場所
 
 
●御陵のようす
 
・上り口
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・参道
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 路面が歩きにくいので注意するように、という看板
 
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・御陵
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・御陵近くから見える京都タワー
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・谷を隔てた丘の上に見える泉涌寺の戒光寺の伽藍
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・南天とサザンカがきれいでした
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2 泉涌寺の清少納言歌碑
 
 仏殿のとなりに、清少納言の次の歌碑が立てられています。
 
・仏殿
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 清少納言の歌碑は写真右側端あたりにあります。
 
 
<歌碑>
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「夜をこめて鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
 
 ある日、清少納言のもとに藤原行成がやってきて、遅くまでいて帰った後で、中国の故事にならって、鶏の鳴き声で函谷関が開いたように、追い立てられて帰ったという手紙をよこし、その返歌とし清少納言が書いたもの。
 
 中国の函谷関ではなくて、京都郊外にある逢坂の関に置き換えて、夜のまだ明けないうちに、鶏の鳴き声をまねてだまそうとしても私には通じない、というような意味
 
 これは清少納言の有名な歌で、百人一首にも掲載されています。
 
 
 
3 清少納言と中宮定子について
・清少納言は正暦4年(993)、28歳のときに、一条天皇に入内していた中宮定子(当時17歳)の後宮に出仕しました。
 
・清少納言は教養深く、機知にあふれる女性たちの中でも後宮の花形となって活躍します。
 
・やがて中宮定子の兄の伊周が花山院に対して弓を引いたことから太宰府に流され、定子は落飾。
 
・定子は一条天皇の第一皇子を出産すると藤原道長は彰子を入内させ、前代未聞の一帝二后ということになり、定子は第二皇女を出産すると、24歳の若さで死去します。
 
・定子が死去した時に清少納言は35歳で、このとき宮仕えも終わったのではないかといわれています。
 
・定子が没した翌年に宮仕えをやめて、晩年は現在の泉涌寺の辺りで、定子の眠る御陵を拝しながら生涯を終えたと伝えています。
 
・なお、このあたりに清原元輔清少納言の父)の山荘があったようです。
 
 
崩御に臨んで定子が書き残した遺詠
「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」
 
※参考
・夜もすがら:一晩中
・忘れずは:お忘れでないなら、
・こひむ涙の色ぞゆかしき
私の死んだ後、あなたが恋しがって流す涙の色がどんなでしょう。それが知りたいのです、というような意味。
・後拾遺和歌集に収録

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かつて栄華を極めた藤原氏一門の陵墓と「藤原氏塋域」の碑
 
 
京都の南東の郊外、宇治市木幡の丘陵地には、藤原道長をはじめ、基経や時平、頼通など、かつて栄華を極めた藤原氏一門の陵墓が数多く点在しています。
  
宮内庁は、藤原氏出身の皇室関係者の37か所の陵墓について、「宇治陵」として管理しています。
 
木幡駅近くにある1号陵は総遙拝所とされ、ここに「藤原氏塋域」と彫られた石碑があります。
 
今では丘陵地の奥まで宅地開発が進み、住宅街の中に、雑木林のように残って柵で囲まれている所も、近寄ってみると、こうした陵墓だったりします。
 
こうした宇治陵について、地元の人たちもあまり知られていないようですが、こうした丘陵地に点在するどこかの陵墓に、藤原冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実といった歴史に名を残した人たちが眠っているのです。
 
 
   
 
2 宇治陵(1号陵。総遙拝所)
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JR木幡駅の北側にあります。
 
 
 
●「藤原氏塋域」の碑
総遙拝所のそばに「藤原氏塋域」の碑が建てられています。
 
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 「塋域」は、辞書で調べると、「えいいき」と読み、墓地、墓所という意味です。
 
この碑には、藤原冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実の8人の名前が刻まれています。
 
  JR奈良線・京阪宇治線 木幡駅 付近から北東に広がる丘陵は、かつて栄華を極めた藤原氏摂関家の墓地が造られたところです。
 
 このあたりは明治10年(1877)、当時の宮内省によって調査が行われ、藤原氏出身の皇室関係者17陵3墓を「宇治陵」とし、塚は1号から37号まであり、1号陵を宇治陵全37か所のすべてを束ねた総遙拝所としています。
 
 個々の被葬者の陵墓への参拝は、丘陵に点在するそれぞれの陵墓に出向かなければなりません。
 
 どの陵墓がだれのものか、については、37号墓は光孝天皇の在位時の関白藤原基経の墳墓、35号墓は醍醐天皇の在位時の左大臣藤原時平の墳墓と伝えられ、北に少し離れた丘陵を登りつめた32号墓か33号墓が道長墓と伝承されているそうです。  
 
●丘陵に広がる住宅地の中にある陵墓(右側)
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 このあたりでは、住宅が広がる中、林のまわりにフェンスがあるところは、良く見ると「宇治陵」の一つだったりします。
 
 点在する「宇治陵」の中に、道長の墓と考えられている陵墓もあり、今度、時間がある時にじっくり探索してみたいものです。
 
 
縁結びの祈願で人気の知恩院の濡髪大明神と千姫の墓と作家佐藤春夫の墓
 
 
知恩院は、国宝の三門から急な石段の男坂、あるいはスロープの女坂を上がっていくと、国宝の御影堂(本堂)や阿弥陀堂、経蔵などの中心伽藍のあるところに出ます。
 
しかし、これらの大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたもので、開創当初の寺域は、知恩院の御影堂の東側にある石段を上ったところにある勢至堂、法然廟などのある地域でした。
 
経蔵横の「智慧の道」と書かれた標石のところから、長い石段を上っていくと、法然上人廟や勢至堂(重文)があります。
 
勢至堂の後方に墓地が広がっており、墓地の奥に、知る人ぞ知る、縁結びの祈願スポットになっている濡髪大明神があります。
 
また、濡髪大明神の前に広がる墓地の中でひときわ目立つのが千姫の墓です。
 
この墓地の中に、小説家でありまた詩人としても知られた佐藤春夫(明治25-昭和39年)の墓があります。場所は濡髪大明神に向かって左手です。
 
 
 
 
 
 
2 濡髪大明神(濡髪堂)
 
勢至堂の背後に墓地が広がり、奥に濡髪大明神があり、その前に千姫の墓がある。
 
濡髪大明神(濡髪堂) は、知恩院を火災から守る守護神として濡髪童子を祀っている。
 
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 鳥居
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 鳥居の扁額「濡髪祠」
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 社殿
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島原の司太夫さんの名前を発見。
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●縁結びで有名
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元々は江戸時代の寛永年間に、住職の霊厳上人が白狐のために建てた祠であったのが、「濡髪」という言葉が男女の情事と結びつけられ、やがて縁結び祈願の祠となったといわれている。
 
昔から舞妓さんたちの信仰を集め、縁結びの明神として参詣者が後を絶たないといわれ、隠れた縁結びスポットとして穴場的な人気がある。
 
 
●起源
 寛永10年(1633)、失火により知恩院の諸堂が焼失し、家光の命により、伽藍の再建が行われた。
 
 もともと御影堂のある場所に白狐が棲んでいたが、この狐は御影堂建設のために棲み処を失ったことを恨みに思い、いつか仕返しをしてやりたいと考えていたという。
 
 ある大雨の日、霊厳上人が信者を集めて説法をしている中に、ずぶ濡れになりながら童子の姿に化けた白狐が紛れ込み、熱心に耳を傾けていたのを上人が見つけてその童子に声をかけたところ、自ら狐であることを明かし、上人の話に胸を打たれたと申し出て、そこで上人がのために祠を建てたのが濡髪大明神のはじまり。
 
 
 
3 千姫の墓
 
縁結びで知る人ぞ知る、濡髪大明神の前方にある。
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●墓石
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●千姫について
・慶長2年(1597)、徳川秀忠と正室の江の長女として伏見城内の徳川屋敷で誕生。
 
・慶長8年(16037歳で秀頼と結婚し大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、夫婦仲睦まじかったという。
 
・慶長20年(161519歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
・元和2年(1616)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。
 
・その後、本多家が播磨姫路に移封になった時には姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになった。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじかったという。
 
・寛永3年(1626)、夫・忠刻はじめ身内の不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号した。
 
・寛文6年(1666)、江戸で死去。享年70歳。
 
・千姫の葬儀は、亡くなった夜に祖父家康の母の菩提寺である小石川伝通院で行なわれた。
 
・墓所は東京小石川の伝通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあるが、徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院に分骨され宝塔に納められた。
 
・なお、伝通院墓地には、佐藤春夫の墓もある。
 
 
 
4 佐藤春夫の墓
 
●場所
「勢至堂」の墓所の奥、中央に千姫のお墓と、縁結びで有名な濡髪堂が建ち、その左側にある。
 
●墓石
白い御影石で、陣笠の変形の棹石を有している。
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 後ろは、濡髪大明神
 
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京都府の最南端、木津川市にある和泉式部の墓と伝える五輪塔
 
 
京都府の最南端、奈良県境を流れる木津川の近くのJR学研都市線の線路近く、木津殿城という地区に、古そうなお寺があり、その境内の奥に、平安時代中期の歌人、和泉式部の墓と伝える五輪塔があります。
 
五輪塔は鎌倉時代前期のものと推定され、高さは約130cmあります。
 
どうしてこのような所に和泉式部の墓が、と不思議に思うのですが、かたわらに立つ説明板には、「伝承によれば、式部は木津の生まれであり、宮仕えの後、再び木津に戻り余生を過ごしたといわれている」と書かれています。
 
 
 京都で和泉式部ゆかりのお寺といえば、真如堂と吉田山の間にある東北院と、新京極通沿いにある誠心院があります。
 
東北院は、かつて、藤原道長が創建した法成寺の東北に娘の一条天皇中宮彰子の住いのために建てられた常行三昧堂を起源とし、後年、彰子に仕えた和泉式部に与え、その後、その法成寺の一堂を、元禄5年(1692)に移して再興したと伝えています。境内には軒端の梅が毎年白い花を咲かせています。
 
また、誠心院は和泉式部が初代住職であったと伝え、境内には高さ4mもの大きな宝筐印塔があり、これは和泉式部の供養塔あるいは和泉式部の墓ともいわれていることは、広く知られています。
  
これに対して、奈良県境の木津にある和泉式部の墓と伝える五輪塔は、和泉式部の出身地であり、余生を過ごしたという伝説によりどころがあるだけですが、ここからそれほど遠くない木津川の河原近くに平重衡の供養塔と伝える十三重塔があったりして、一千年に渡る遥かな時の流れが木津川の流れと重ねられて、京都の歴史のロマンを感じるところです。
 
 
1 場所↓
 
 
2 和泉式部の墓と周囲のようす
 
①和泉式部の墓のあるお寺
・入口
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 お寺の名前はどこにもなく、地図などにも寺の記載もないところで、ネットで調べてみると、無住のようだ、という記載も見られます。
 
・本堂
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②伝・和泉式部の墓
 
・入口
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・和泉式部の墓と伝える五輪塔
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・説明板
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③境内のようす
 
・古い石仏
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・震災供養塔
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 無住のお寺のようですが 、境内はよく掃除されています。
 
 石仏などを見ていると、長い時の流れを感じます。
 
 
3 和泉式部について
 
三十六歌仙の一人で、一条天皇の中宮彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部集」などの歌集を残した。
 
幼少の頃より詩歌に親しみ、和泉守橘道貞という人物と結婚し、夫の官名をとって「和泉式部」と呼ばれるようになったといわれている。その夫と離別した後、何人かの人物と付き合ったが、みな若くして亡くなってしまう。その後、中宮彰子のもとに仕えたことが縁となって、丹後守藤原保昌に嫁入りし、夫の地方への赴任についていったという。
 
岩手県北上市、岐阜県可児郡御嵩町、兵庫県伊丹市などに和泉式部の墓と称するものがあり、なかでも京都市中京区誠心院のものが有名。
(フリー百科事典「ウィキペディア」)
豊国廟(豊臣秀吉の墓)
 
 
京都に豊臣秀吉の墓があることを知っていますか。
 
秀吉の墓は、「豊国廟」と呼ばれ、東山七条にある智積院とその北側にある妙法院の間の豊国廟参道を上がっていきます。
 
豊国廟参道は、途中に京都女子学園のキャンパスがあることから、昔から、通称「女坂」とも呼ばれています。
 
坂道を上がった突き当りに、鳥居のある石段があり、ここを上がると、「太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる平坦地があります。
 
ここには中央に拝殿があり、拝殿の奥から秀吉の墓の大五輪塔が立つ阿弥陀ヶ峰山頂まで、485段もの長くて急な石段が続いています。
 
485段という長い急な石段を上らなければならないため、休日でも地元の大学の体育会系の学生がトレーニングをする風景が見られるほかは、あまり訪れる人もいないところですが、話しのタネとして、一度は上がって見られたらいかがでしょうか。
 
なお、太閤坦のあたりは、春は桜の名所として知られています。
 
 
 
 
2 豊国廟への参道
 
①豊国廟参道
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 智積院と妙法院の間の坂道で、途中に京女などの京都女子学園があることから、通称「女坂」と呼ばれている。
 
 
②鳥居のある石段
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 京都女子学園や新日吉神社の間の坂道の突き当りの駐車場を抜けて、鳥居のある石段を上がると平坦な場所に出る。
 
ここは太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれ、徳川幕府により破壊される以前に豊国神社の社殿があったところといわれる。
 
 
③太閤坦 
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・拝殿
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・手水舎
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 広々とした平坦地で、正面に拝殿があり、その奥に、秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峯への長くて急な石段がある。
 
秀吉は1598年に伏見城で死去(享年63歳)。秀吉の遺体は遺言により東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬し、墓所とした。翌年、中腹を切り開き「太閤坦(たいこうだいら)」を造成し、ここに豊国廟、豊国神社等が造成された。
 
ところが、その後、大坂夏の陣により豊臣家が滅亡し、徳川政権下になると、豊国廟、豊国神社は幕府によって徹底的に破却された。
 
 
秀吉墓所のある阿弥陀ヶ峰山頂への長い石段
 
・上り口
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・登拝券(大人50円)購入の注意書き
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長く急な石段
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頂上にある巨大な五輪石塔に向けて、うっそうとした木立の間に、長い石段が伸びている。中門までは313段ある。
 
   
⑤石段の途中にある平坦な場所と中門
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⑥最後の石段(172段)
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⑦展望
 石段の両わきには大きな木々が茂り、眺望はよくないが、木々の間から、祇園コーナーや清水寺、御所から京都ホテルオークラが見える。
 
・木々の間から見える御所から京都ホテルオークラ方面
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・石段わきの斜面の木々
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⑧阿弥陀ヶ峰山頂の巨大な五輪石塔(秀吉の墓所)  
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長い石段を上った阿弥陀ヶ峰山頂に、秀吉の墓である高さ約10mという巨大な五輪石塔がある。
 
阿弥陀ヶ峰山頂の表示
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 阿弥陀ヶ峰山頂は標高196mで、東山三十六峰のひとつ。

 
⑨石段の数について
 
 拝殿から中門まで313段、中門から大五輪塔まで172段の合計485段ある。
 
 石段は、途中数箇所の踊り場をはさんで、63段ずつ設けられていることから、その設計にあたり、秀吉の死去した63歳を意識して63段ずつとしたのではないかともいわれている。
 
 
 
3 沿革
<説明板>
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①秀吉の死去と廟、社殿の造営
・慶長3年(1598)8月18日、秀吉が伏見城にて63歳で死去。

・遺体は、遺命により、阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓に社殿を建立。

・後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が行われた。
 
②豊臣氏の滅亡と社殿、廟の破壊
 元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、社殿、廟は破壊された。
 
③社殿と廟の再建
 明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として社殿を再建。

 明治30年(1897)、秀吉の300年忌に際し、廟宇を再建。墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。

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