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六孫王神社とその境内
六孫王神社は、京都駅の八条口から八条通を新幹線のガードに沿って西へ進み、大宮通を越えてさらに約300mのところにあります。
JRの線路をはさんで、梅小路公園の反対側にあたります。
ここは、清和天皇の孫で清和源氏の祖と仰がれる源経基を祭神とし、「清和源氏発祥の宮」と称しています。
源経基の死後の応和3年(963)、経基の遺言により、その子満仲が経基をかつての邸宅「八条亭」があった場所に埋葬し社殿を築き、六の宮と称したことが神社の起こりと伝えています。その後、鎌倉時代には源実朝夫人の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、当社はその鎮守社とされました。
さらにその後、戦乱などによる荒廃を経て、江戸幕府により社殿の再興が進められ、5代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等の建物が再建されました。
源氏ゆかりの神社としてかつては武家の信仰が厚かったといわれ、境内石灯籠には、松平吉保などの名前を見ることができます。
しかし、江戸幕府の滅亡とともに衰微し、また、神仏分離令により大通寺と別れ、さらに明治44年、境内北部が鉄道用地となったため大通寺のみ大宮通九条下ル、へ移転しました。
境内には源満仲が産湯に使ったという、誕生水弁財天社があり、京都七ツ井の一つといわれています。
六孫王神社の境内は、桜の名所として地元では知られており、八重桜が終わる頃には、本殿前の牡丹や藤が見ごろになり、つつじ、山吹などが咲き始めます。
いまはまだ花も見られませんが、静かな境内でゆっくり散策することが出来ます。
1 場所↓
2 境内
南側(八条通側)と南東側、東側に入口があり、南側と東側に鳥居がある。
●南東側の入口
・「誕生水弁財天」の標石
「清和源氏発祥の宮」と書かれたゲートがあり、神社名の標石と「誕生水弁財天」の標石がある。こちらがメインの入口となっている。
境内への入口はここのほかに東側と南側にもあり、それぞれ鳥居がある。
●参道
参道には様々な種類の桜が植えられている。
・参道入口の狛犬
参道の北側には、神龍池という名前の池の北側に睦弥稲荷と誕生水弁財天が並んでいる。
●睦弥稲荷
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●誕生水弁財天
・扁額
・吊り燈籠
・手水
満仲誕生の際、井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと伝えられている。
弁財天像は弘法大師空海の作といわれている。
●唐門
・神龍池と唐門
・唐門
・狛犬
・扁額
●拝殿、本殿
・拝殿前の燈籠
●本殿後方にある経基の石積の神廟
通常は見ることができませんが、特別に許可を得て撮影したものです。
●大名が寄進した石灯籠
川越城主松平吉保の名がある。
3 沿革
<説明板>
・源経基を祭神とする。経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子であり、天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれた。嫡子で、当社を創建した源満仲が清和源氏の武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」を称している。
・源経基死後、応和3年(963)、その遺言により、経基の子満仲が経基をその邸宅の「八条亭」があった場所に埋葬し社殿を築き、六の宮と称したことが、当社のおこりであるといわれる。現在も、本殿後方に経基の石積の神廟がある。
・鎌倉時代、源実朝夫人の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、当社はその鎮守社とされた。
・その後、戦乱などにより社殿を失い、経基の墓所だけが残された。元禄13年(1700年)より、江戸幕府により社殿の再興が進められた。5代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。これは、徳川家が清和源氏の末裔を自称していたためといわれる。
・江戸幕府の滅亡とともに衰微し、また、神仏分離により大通寺と別れた。明治44年(1911)、国鉄の鉄道用地となったため大通寺は移転した。
4 その他
(1)「源氏三神社」
多田神社(川西市)、壺井八幡宮(羽曳野市)と共に「源氏三神社」の一つ。
(2)例祭「宝永祭」
毎年10月体育の日に行われる。
(元禄から宝永年間に再興されたことから命名されたという)
(3)小説などの舞台
昔は、六ノ宮権現とも呼ばれていた。
・今昔物語「六の宮」⇒それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」を著す。
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京都の梅
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法住寺と境内のしだれ梅
法住寺は三十三間堂の向い、養源院の並びにある天台宗の寺院です。
このあたりは、平安時代中期(988年)に藤原為光によって建立された法住寺があり、その後、院政期にはこの寺を包み込む形で後白河上皇の離宮「法住寺殿」が営まれました。
当時は広大な敷地の中に、南殿(法住寺殿)、七条殿(西殿)、七条殿(東殿)の三つの御所が造られました。
1164年には、上皇が平清盛に命じて南殿の北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立され、新日吉(いまひえ)神社、新熊野(今熊野)神社も法住寺殿内に建立されました。
その後、1183年、木曽義仲の軍勢によって南殿に火がかけられて焼失してしまい、数年を経て後白河上皇が亡くなると、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂が造られ、上皇の御陵と定められました。そして、法住寺は後白河上皇の御陵を守る寺として江戸時代末期まで存続し、明治時代になると、御陵と寺が分離されて現在に至っています。
寺内の「身代わり不動明王」像(平安期、慈覚大師の作といわれる)は義仲の放火の際に上皇の身代りになったと伝えられています。
なお、山門の並びに竜宮門がありますが、これはかつて旧法住寺御陵正門であった頃の名残りです。
境内の十三重石塔のわきのしだれ梅が今年もきれいに咲きました。
2 境内のようす
●山門
・山門と白梅
●山門と十三重石塔としだれ梅
●本堂
●本堂と紅白咲き分けの梅の花
●阿弥陀堂
●竜宮門
・紅梅と竜宮門
●後白河天皇法住寺陵への参道
休日には、法住寺の墓地か、養源院の鐘楼から、後白河天皇法住寺陵、法華堂を見ることができる。法華堂の堂内には上皇の木像が祀られているという。
●祈願絵馬
3 沿革
・平安時代中期(988)に藤原為光によって法住寺が創建され、その後永暦元年(1161)からここを中心に後白河上皇の離宮「法住寺殿」が造営され、ここで5代の天皇34年間にわたり院政が行われた。
・法住寺殿の敷地は、北は七条通、南は八条通(今の泉涌寺道)、西は大和大路通、東は東大路通を経て東山山麓に至る東西400m、南北600mに及ぶ広大なものであった。
・広大な敷地の中に、南殿(法住寺殿)、七条殿(西殿)、七条殿(東殿)の三つの御所が造られた。
・1164年には、上皇が平清盛に命じて南殿の北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立され、新日吉(いまひえ)神社、新熊野(今熊野)神社も法住寺殿内に建立された。
・その後、1183年、木曽義仲の軍勢によって南殿に火がかけられて焼失してしまい、数年を経て後白河上皇が亡くなると、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂が造られ、上皇の御陵と定められ。そして、法住寺は後白河上皇の御陵を守る寺として江戸時代末期まで存続し、明治時代になると、御陵と寺が分離されて現在に至っている。
4 寺宝
●身代不動明王像
・平安時代、慈覚大師円仁の作と伝えられる。創建当初からの本尊。
・義仲の放火の際に、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年1月15日には不動会が営まれている。 ●阿弥陀如来像「そば喰い木像」
親鸞28歳の時の自作と伝える。親鸞が、延暦寺から六角堂に毎夜参籠した際に、親鸞の身代わりとなり留守居を勤めたという。天台座主が衆僧と共に蕎麦を供した際には、親鸞の代わりに食し、あたかも親鸞が居るように振舞ったという。木像は、1834年、東山渋谷の仏光寺旧跡に遷され、明治期に当山に遷された。以後、浄土真宗信者の内では当山を「そば喰さん」とも呼んだという。
鎌倉時代の仏師・運慶作と伝え、後白河天皇法住寺陵の法華堂に安置。法住寺の中にもその複製が祀られているという。
●四十七士木像
赤穂浪士の大石良雄が、当山の身代り不動明王を信仰し、討ち入りの成就祈願をしたことに因んだことにより造られたもので、本堂に安置。
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泉涌寺雲龍院の白梅
雲龍院は、泉涌寺の大門の前を通り過ごし、道なりに奥へ100mほど行ったところにあります。
雲龍院は、北朝方の後光厳上皇の勅願によって南北朝時代の応安5年(1372)に創建され、後小松天皇、称光天皇など皇室の帰依を受けて発展したとされています。こうした勅願の寺院という皇室との縁の深さから、ここは塔頭と同じく泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられています。
伽藍は応仁の乱で焼失した後、御所の黒戸御殿を移築して再建されたものの、地震で倒壊し、その後、寛永16年(1639)に後水尾上皇の援助のもとに本堂の龍華殿をはじめ諸堂が再建されて現在に至っています。
3月18日、小雨の中、山門から庫裏へ向かう参道途中の鐘楼脇に植えられた白梅がきれいに咲いていましたが、山科の隨心院のはねず梅と同じ種類といわれる庫裏の前の紅梅は、まだつぼみでした。
※場所↓
2 境内
泉涌寺の大門の前を通り過ぎて突き当たりを左に、道なりに行くと、雲龍院の前に出ます。
正面にあるのが山門で、庫裏の前まで参道が続いています。また、山門の右手にあるのが勅使門で、本堂の前にありますが、通常は閉じられています。
●勅使門(右)と山門(左)
●勅使門
・菊の花の留蓋瓦
●山門
●山門から庫裏へ続く参道
●本堂(龍華殿)
杮葺き。重文指定。
本尊は薬師如来で、日光・月光をともなう薬師三尊であり、極めて写実的な鎌倉時代の作とされる。
ここでは後円融天皇(在位1371〜82)以来といわれる長い歴史を持つという写経の体験ができる。
●境内で見られた梅の花
・庫裏と白梅
・鐘楼と白梅
・山門と白梅
・本堂と紅梅の木
この紅梅は、山科の随心院の「はねず梅」と良く似た遅咲きの梅で、例年は3月末に満開、見頃になる。今年はまだつぼみ。
3 沿革
・真言宗泉涌寺派の別格本山
・室町時代の応安5年(1372)、後光厳法皇が竹巌聖皐律師を招いて自らの菩提所として建立したのがはじまり。
・歴代天皇の信仰があつく、たびたびこの寺に行幸しているが、特に後円融天皇は勅願として如法写経会をはじめ、現在も写経道場として知られている。
・応仁の乱の兵火によりいったん焼失したが、後柏原天皇から後土御門天皇使用の御殿の寄進を受けて本堂として再建し、江戸時代には寺領も広がり、隆盛を極めた。
・明治初年に後光厳天皇をはじめとする歴代天皇の尊牌を祀る霊明殿が完成した。
・寺宝として、当寺にゆかりの深い土佐光信筆の後円融天皇宸影(重文)をはじめ歴代天皇の宸筆など文書、絵画を多数蔵している。
・また、裏山には、仁孝天皇二皇女、孝明天皇二皇女の陵墓が営まれている。
4 練習問題
(1)泉涌寺別院。本尊:薬師如来。
(2)沿革
南北朝時代の応安5年(1372)、北朝方の( 1 )によって創建された。応 仁の乱で焼失後、文亀元年(1501)に( 2 )の御黒戸御殿を後柏原天皇から下賜され、写経道場とした。以後、地震で倒壊するなど被害にあったが、寛永16年(1639)、( 3 )の援助のもとに黒戸御殿をはじめ諸堂が再建された。 (3)本堂(重文)
正保3年(1646)に建てられたもので、( 4 )といわれる柿葺きの堂々 とした建物。 (4)霊明殿
北朝天皇の位牌が安置されている。 (5)「後円融院宸影」:( 5 )筆。
(6)「走り( 6 )像」
鎌倉時代のもの。台所にある。 (7)( 7 )の力強い筆跡の「龍淵」の書。
【正解】
1 後光厳上皇 2 土御門天皇 3 後水尾上皇 4 龍華殿 5 土佐光信 6 大黒天
7 大石良雄
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山科の隨心院と境内の梅の花
隨心院は、市営地下鉄東西線 の小野駅 から東に向かって5分くらい歩いたところにある真言宗善通寺派の大本山の寺院です。
このあたりには、かつて小野小町の住居があったという伝承があり、境内には、小町が恋文を埋めたという「文塚」、「小町化粧井戸」と名づけられた井戸、書院には深草少将の「百夜通い」の伝説のカヤの実が展示され、随心院から少し離れた所には、カヤの大木が残っています。
隨心院はまた、「はねず梅」と呼ばれる遅咲きの薄紅色の梅が集められた小野梅園が広く知られ、例年3月最終の日曜日には、寺に伝わる小野小町の伝説を主題とした「はねず踊り」が行われます。
今年は全般的に梅の開花が遅れています。3月10日と17日に訪れましたが、境内では白梅が咲き始めたところでした。
それでも総門から境内に向う参道などでは、醍醐の山並みを背景にして、絵のような美しさでした。
1 場所↓
<案内図>
2 境内
●大乗院
大乗院は駐車場から境内に向う途中、長屋門の向かいにある。
・ツバキの花
・アセビの花
●総門と境内に続く参道
●薬医門
・薬医門と醍醐の山並み
●大玄関
寛永年間(1624-1631)九条家ゆかりの天真院尼の寄進により建立。
●庫裏
ここから拝観料を払い、表書院、本堂などを見学する。
●小野小町歌碑
「花の色は移りにけりな いたづらに我が身世にふる ながめせし間に」
●小野小町化粧の井戸
●史跡 小町庭苑
この中に、文塚と清瀧権現堂がある。
●文塚
・説明板
「深草少将を始め、多くの貴公子より寄せられたる文章を埋めた塚と伝承」と書かれている。
●清瀧権現堂
≪有料拝観部分≫
・表書院
寛永年間(1624-1631)に徳川秀忠夫人天真院の寄進により建立。
・表書院「能の間」
九条家の寄進により宝暦年間(1753年-1764年)に建造され、平成3年(1991年)に改修工事が行われた。
・本堂
桃山期(1599年)の建築で寝殿造。
<説明板>
・真言宗善通寺派の大本山。弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海僧正が正暦2年(991)に創建した。山号「牛皮山」。本尊は如意輪観音。
・もとの名は牛皮山曼荼羅寺といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を捜しあてて世話をしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。
・その後、第五世増俊が曼荼羅寺の塔頭として随心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡の宣旨を受け、門跡寺院となった。
・この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や化粧の井戸などが残されている。
・梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」が披露される。
4 京都検定の出題歴
(1)平成16年度3級 【問】 はねず踊りが行われる随心院は、( )ゆかりの寺として知られている。 (ア)和泉式部 (イ)清少納言 (ウ)小野小町 (エ)式子内親王 【正解】(ウ)
(2)平成17年度3級
【問】百夜通いとは、深草少将が( )のもとに通い続けたという伝説である。 (ア)紫式部 (イ)清少納言 (ウ)小野小町 (エ)吉野太夫 【正解】(ウ)
(3)平成18年度2級
【問】 「寺院」と「ゆかりの人物」の組み合わせ 誤っているものはどれか。 (ア)清閑寺―小督局 (イ)随心院―小野小町 (ウ)滝口寺―横笛 (エ)廬山寺―和泉式部 【正解】(エ)
(4)平成19年度3級
【問】小野小町に恋して伝説「百夜通い」の主人公になったのは誰か。 (ア)頭中将 (イ)在原業平 (ウ)大友黒主 (エ)深草少将 【正解】(エ)
5 練習問題
(1)真言宗善通寺派の大本山。山号「牛皮山」。本尊は如意輪観音。
(2)通称「( 1 )」
(3)東密(真言宗)の寺相である( 2 )の発祥の寺。
(4)沿革
・正暦2年(991)に( 3 )が当地に牛皮曼荼羅を祀り、曼陀羅寺を創始。 ・5世増俊の時に「随心院」に改名し、7世親厳の時に門跡寺院に。
・承久・応仁の乱後に衰退し、慶長4年(1599)に復興。
・明治41年に独立して真言宗小野派となったが、昭和6年に善通寺を本山とする善通寺派に所属。
(5)( 4 )ゆかりの寺
小野小町の住居跡と伝える。( 5 )の「百夜通い」。小町が恋文を埋めたという「( 6 )」。「小町化粧井戸」。遅咲きの( 7 )と「はねず踊り」(3月最終土・日曜)。 【正解】
1 小野門跡 2 小野流 3 仁海 4 小野小町 5 深草少将 6 文塚 7 はねず梅 |
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京都・山科にある勧修寺(かじゅうじ)と梅の花
勧修寺は京都市営地下鉄東西線の小野駅 から西に向って山科川を渡ったところにある、真言宗の寺院です。正式名は「かんしゅうじ」ではなく、「かじゅうじ」です。
※場所↓
ここは、かつては代々法親王が入寺し、門跡寺院として格式を誇った寺院です。
境内には江戸時代に御所から移築された宸殿、書院、本堂がありますが、建物内は通常は非公開となっています。建物や庭園は門跡寺院の風格を感じさせるところです。
また、四季を通じて様々な花が見られ、早春の梅、春のしだれ桜、初夏の紫陽花、秋の菊花展、紅葉のほか、氷室池を中心とした庭園では、初夏のかきつばた、黄菖蒲、花菖蒲、睡蓮、夏の蓮などがきれいなところです。
秋には菊花展が開かれ、境内では見事な紅葉が見られることで知られています。
今年の京都の梅の花の開花は全般的に大幅に遅れています。
3月10日と17日に訪れましたが、3月17日に訪れたときには、中門わきの白梅がようやく見頃で、サンシュユが咲き始め、ボケの花はもうじき開花といったところでしたが、築地塀わきのしだれ桜のうちの一本が咲き始めていました。
3月10日と17日に写した写真を並べてみました。
<3月10日の境内>
●山門から見た中門と宸殿
●中門
●咲き始めた白梅
<3月17日の境内>
●山門に向かう参道わきの築地塀と咲いていた桜の花
●山門
山門を入って左手奥に拝観受付があり、その横に中門がある。
●中門
●中門のわきで咲いていた白梅
3 沿革
<説明板>
・天皇の祖父にあたる藤原高藤の諡号(しごう・おくりな)をとって勧修寺と名づけられ、のちに醍醐天皇の勅願寺となった。
・代々法親王が入寺する門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)に兵火で焼失し、江戸時代に徳川家と皇室の援助によって再興された。
・本堂は、霊元天皇より仮内侍所を、書院(重文)と宸殿は明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内部に本尊・千手観音像を祀っている。
・書院前の庭にある大きな傘を持つ燈籠は、水戸黄門で知られる水戸光圀の寄進と伝えられ、「勧修寺型燈籠」と呼ばれている。
・その周りには樹齢700年と伝えられるハイビャクシンが植えられている。
・氷室池を中心とした優美な池泉回遊式の庭園は、平安時代の作庭と伝えられ、夏の睡蓮や蓮で有名である。
4 勧修寺の規模の変遷
①鎌倉時代まで
鎌倉時代の後伏見天皇の皇子・寛胤法親王が第十六世として入寺してからは門跡寺院となる。宮道邸だった頃から鎌倉時代にかけて、池のある庭があったとされ、優美な庭園の様子が歌に詠まれているという。この頃の庭園は現在の大岩街道の南側に、現在の勧修寺の敷地の倍ほどの広がりがあったといわれている。
②応仁・文明の乱による焼失、荒廃と豊臣秀吉による境内の南北分断
その後、応仁・文明の乱(1467〜77年)で勧修寺は焼失し、荒廃した。さらに、豊臣秀吉が境内中央に伏見城につながる伏見道を設けたため、境内は南北に分断され、寸断された南側の地は勧修寺の境内からはずされた。
③江戸時代の復興と境内の整備
徳川家綱・綱吉の帰依を受け、伽藍の整備が進められた。皇室の援助もあり、17世紀末には、ほぼ現在の状況にまで復興した。
庭については明確な記録は見つかっていないが、境内が半減したため、池も分断されて埋め立てられ、相当縮小し、江戸時代の復興の時期に合わせて修復されたと考えられている。
※なお、分断された南側の地に、仁寿3年(853)創建と伝えられ、勧修寺の鎮守であったとされる吉利倶八幡宮があり、また、享保8年に、藤原定方の墓が建立された。
5 練習問題
(1)真言宗( 1 )派の大本山。山号「亀甲山」。本尊は千手観音。
(2)沿革
昌泰3年(900)に藤原胤子(醍醐天皇生母)の願いで、藤原定万(胤子の弟)が祖父の( 2 )の邸宅跡に開創。承俊律師を開山に迎え、のち( 3 )の勅願寺に。15世の寛胤法親王が入寺以後、明治維新までは親王が住持する格式ある門跡寺院だった。
(3)千手観音
本尊。( 4 )の等身大。
(4)書院
重文。元禄10年(1697)、( 5 )の旧殿を外賜されたもの。( 6 )作の襖絵がある。
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