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智恵光院としだれ梅
京都市内の南北の通りの一つに「智恵光院通」があります。
この智恵光院通と今出川通の交差点から南へしばらく歩いていくと、「智恵光院通」という通り名のもとになった智恵光院があります。
智恵光院は、鎌倉時代に関白鷹司兼平が自家の菩提寺として創建したという、古い歴史を持つ浄土宗の寺院です。
しかし亨保15年と天明8年の2度の大火によって伽藍を焼失し、その都度再建されましたが、第二次大戦中に、防災のために道路を拡張するという、いわゆる「強制疎開」のため、寺地の縮小を余儀なくされ、塔頭4院が廃寺になり、現在に至っています。
現在、山門前の通りが広くなっているのは「強制疎開」によるものであり、また、京都でも西陣と東山の馬町の2か所にB29による空襲があり、西陣の空襲の際には、このすぐ近くに焼夷弾が落とされ、多くの犠牲者が出たそうです。ここの近くにある山中油店の店先には爆弾の破片が展示されています。
現在、智恵光院には地蔵堂に小野篁作と伝えられる六臂地蔵像が安置され、本堂には本尊の快慶作と伝えられる阿弥陀如来像などが伝わっています。
また、智恵光院の境内はしだれ梅、しだれ桜、サルスベリ、ノウゼンカズラ、芙蓉、酔芙蓉など四季折々の花がとてもきれいです。
ちょうど今、見事なしだれ梅が見頃になっています。
※場所↓
1 境内
智恵光院通に面した新しい山門を入ると正面に本堂があり、左側には、山門側から鐘楼、智徳弁才天、小野篁作と伝えられる六臂(ろっぴ)地蔵像を安置する地蔵堂が並び、右側奥には、智恵姫稲荷があります。
●本堂
<本堂としだれ梅>
本堂に向かって正面にしだれ梅が植えられていて、3月15日に訪れた時には、たくさんの花をつけていて、あまりの見事さに感動しました。
ここは祐正寺と同様、知る人ぞ知る京都人たちの秘蔵の花見スポットで、管理人も毎年忘れずに訪れる、大のお気に入りのしだれ梅です。
●地蔵堂
ここは小野篁作と伝えられる六臂(ろっぴ)地蔵像を安置しています。
もともと六臂地蔵尊は烏丸今出川辺りにあった神宮寺に奉安されていて、その後、ここに遷されたと伝えられています。
六臂地蔵尊は、仏教で死後いずれかに転生するとされる地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の全てを救う力を一体の像に込めて、小野篁が彫り上げた6本の腕を持つ地蔵尊とされ、この六臂地蔵尊を拝めば、京都の全ての六地蔵尊に巡礼するのと同じ功徳があるといわれています。
<地蔵堂としだれ梅>
●智恵姫稲荷
●獅子頭守護岩
●本堂(左)と玄関
●鐘楼
2 沿革
<説明板>
・「称念山平等寺」と号する浄土宗の寺院。
・永仁元年(1293)鷹司家の始祖、関白鷹司兼平が自家の菩提寺院として、如一国師を開山に請じ創建したのが当院の起り。
・その後、聞益上人により院内に要終院、芳秀院、智福院、吟松院の4院を建立し、京師七光院の一つとして隆盛を極めた。
・その後、享保15年(1730)年の西陣焼けや天明8年(1788)の両大火で被災し、漸次再興された。
・第二次世界大戦中、強制疎開により塔頭4院が廃寺になり、現在の規模に縮小された。
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京都の梅
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北野天満宮と境内の梅の花と「三光門」
北野天満宮は、菅原道真を祭神とする全国的に有名な学問の神様です。年間を通じて参拝客が多く、特に修学旅行の時期のほか、毎月25日の「天神市」や、梅の花の見頃の時期には、大勢の寒梅客で賑います。
今年は例年より大幅に遅れて、ようやく見ごろになっています。
3月15日に撮影した写真をアップします。
この週末、京都は雨模様の予報ですが、受験のお礼まいりの人たちで混雑しそうです。
1 社殿
●楼門
●楼門を入ったところの牛の像と白梅
●宝物館と紅梅・白梅
●中門(重文)
・扁額
「天満宮」の文字は後西天皇によるものと伝える。
中門は別名「三光門」とよばれ、太陽、月、星の彫刻があるといわれている。
しかし、
門に施された彫刻には、太陽と思われる彫刻が2箇所あり、本殿側に、三日月の彫刻があるが、星は見つからない。
・太陽
・月
このため「星欠けの三光門」ともいわれ、「北野天満宮の七不思議」の一つといわれる。
一説によると、これは平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあったため、旧大極殿が天満宮の南方位に位置し、帝が天満宮を遥拝される際に、この三光門の真上に北極星が瞬いていたので星は刻まれていないのだと伝えられている。
●本殿・拝殿
本殿と拝殿は、その間に石の間、楽の間が置かれ、一体となった造りになっており、国宝に指定されている。
本殿と石の間・楽の間(国宝)は、慶長12年(1607)、豊臣秀頼が片桐且元を奉行に再興したもので、権現造の代表的遺構といわれる。
≪権現造(ごんげんづくり)≫
日本の神社建築様式の1つ。北野天満宮のほか、日光の東照宮などのように、本殿と拝殿を相の間(あいのま)で連結したものをいう。屋根は本殿、相の間、拝殿とエの字形に連なる。相の間の床が、本殿、拝殿より低く石敷きとなるものを石の間という。一般には相の間は拝殿と同じ高さの板敷きになり、幣殿(へいでん)として利用される。
※立牛・・・「北野天満宮の七不思議」の一つ
境内に数多く置かれている牛は全て横たわった牛ばかりなのに、唯一、立っている牛の姿がある。場所は拝殿欄間の彫刻の中にあり、何故一頭だけ立像の牛があるのかは謎だと言われている。
どこにあるか、探してみましょう。
・本殿前の紅梅
2 境内の梅の花(3月15日)
3 沿革
・延喜3年(903)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。
・そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
・永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった
・中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。
・天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。
・江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
4 境内の見所・ポイント
境内には見どころが沢山ありますから、探してみましょう。
① 大狛犬は昭和9年に奉納された青銅製のもので、京都府内で最大。 ②北野大茶会関係
・北野大茶会の石碑。 ・「太閤井戸」
駐車場の中央にある。 ・茶室「松向軒」
内部拝観はできないが、垣根越しに建物が見える。 ③慶長8年(1603)、出雲の阿国が初めて歌舞伎を興行したとされている。
④キリシタン燈籠
⑤渡邉綱奉納の石灯籠
⑥伴氏社(境内末社)の鳥居
鎌倉時代に建てられ、京都三珍鳥居の一つとされている。 ※京都三珍鳥居
・京都御苑内にある厳島神社の唐破風鳥居 ・北野天満宮伴氏社の鳥居 ・蚕の社、元糺の池の三鳥居 ⑦御土居
・秀吉による京都全体の都市改造の一環として、建設されたもの。 ・「京廻りの堤」と呼ばれた全長約23kmの土塁。 ・目的は軍事的に、鴨川の氾濫から京の都を守ること。 ・境内の梅林の中にあり、梅林の梅の見ごろになる頃に有料で公開される。 ⑧露の五郎兵衛の碑
・江戸時代前期の噺家で、上方落語の祖といわれる。 ・2代目 露の五郎兵衛(1932〜)は、2005年に約300年ぶりに「露の五郎兵衛」を襲名。 ⑨「長五郎餅」
・北野商店街にあり、北野大茶湯の時に、秀吉が絶賛したといわれている。
4 宝物
●紙本著色北野天神縁起絵巻(国宝)などがある。 宝物館は必見です。
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西陣の祐正寺と境内のしだれ梅
祐正寺は、丸太町七本松から七本松通を約200m北に向かい、最初の信号から下立売通りを東へ向かうと、左側にあります。
ここは正式名を大応山慈光院祐正寺といい、浄土宗大本山百万遍知恩寺の末寺です。
通称「娶妻結(つまとり)地蔵」として親しまれ、男性用の良縁祈願スポットとして古くから信仰を集めてきました。
・山門と標石
ここは境内奥の地蔵堂近くにしだれ梅の古木があり、早春に見事な花を咲かせます。
西陣のしだれ梅としては、智恵光院のしだれ梅とここのしだれ梅は、特に素晴らしく、遠方からここの梅を見に来る価値は十分あります。
この冬は特に寒かったためか、ようやく、3月15日になって見ごろを迎えました。 ※場所↓
2 境内のしだれ梅
●本堂
●地蔵堂
地蔵堂の中に祀られる娶妻結(つまとり)地蔵菩薩像は、縁結びのお地蔵さんとして信仰を集めている。
●満開のしだれ梅
小さなお寺ですが、とても手入れの行き届いたお庭で、こんどは、初夏に境内を彩る半夏生を見に来たいと思います。
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真如堂近くにある東北院と咲き始めた「軒端の梅」
東北院は、真如堂総門を出て北に向かい、突き当りの「萩の寺」として知られる迎称寺の並びにある時宗の寺院です。
ここは、山号を雲水山と称し、かつて、藤原道長が創建した法成寺の東北に娘の一条天皇中宮彰子の住いのために建てられた常行三昧堂を起源とし、後年、彰子に仕えた和泉式部に与えものと伝えられています。
その法成寺の一堂を、元禄5年(1692)当地に移して再興したものと伝え、現在に至っています。
法成寺にあった頃に和泉式部が東北院に植えたと伝わる「軒端の梅」ゆかりの白梅の老木が境内にあり、ようやく咲き始めました。
これまで東北院は2度移転しているので、現在の「軒端の梅」は和泉式部が植えたものではなく、境内に立てられている説明板には、謡曲の『東北』に因んで植えられたものと書いてあります。
「軒端の梅」は今では老木となり、わざわざ見に来る人もいないようですが、小さなお寺の境内の片隅で、人知れずひっそりと咲くようすはとても好ましく、このブログの管理人のお気に入りの京都の梅の花の一つです。
今年も会いに行くことができて、感謝です。
1 境内
本堂と弁財天堂が並んで建ち、それぞれの前に門がある。
・本堂の前の門
この門を入って正面が本堂、左側が弁財天堂。
本堂前の両側に梅の木があり、左側、弁財天堂との間に、軒端の梅がある。
●土塀の脇にある弁財天堂の標石
●弁財天堂
・まだつぼみの沈丁花
白梅の花が散る頃、境内・外にたくさん植えられている沈丁花の花が一斉に咲き誇り、あたりには沈丁花の芳香が満ち溢れます。
●本堂
説明板によれば、現在の建物は、明和7年(1770)安津宮御所を移築したものとされる。
<咲き始めた軒端の梅>
白梅は本堂に向かって両側に植えられ、左側が老木「軒端の梅」で、右側が若木ではないものの樹勢は盛んで花つきが良い。
●井戸
2 能・謡曲の『東北』
この梅に関する伝説は、能・謡曲の『東北』として今日まで伝えられています。 <概要>
ある僧侶が行脚の途中にこの東北院を訪れた。
梅の花が美しく咲いていたのに魅了され、その由来を尋ねてみると、その昔、和泉式部が自ら植え、寵愛した軒端の梅であると聞いて、感激する。
僧侶が木陰に坐って法華経を唱えていると、朧月夜の闇の合間から和泉式部の霊が現れて昔の東北院での生活の様子を語り、舞を舞って消える。
僧侶は目覚めると梅の香が漂っていた。
3 沿革
<説明板>
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のような記載があります。
・藤原道長の没後、道長の娘である上東門院の発願によって道長建立の法成寺東北の一郭に常行三昧堂として建立された。法成寺の区域の東北にあったことなどから、「東北院」と称せられた。
・その後、上東門院はここに居住したが、天喜6年の法成寺の火災で東北院も全焼し、法成寺の敷地内から同寺の北側の新たな土地に移転・再建された。
上東門院は御堂流摂関家の後見人的存在であり、摂関家から手厚い保護を受けた。
・しかし、その後ふたたび火災によりほぼ全焼し、同年中に再建された。
・室町時代には七福神信仰の高まりとともに桓武天皇の時代に最澄が作ったと言われていた同寺所蔵の2尺3寸の弁財天像が人々の崇敬を集めたという。
・だが、応仁の乱によって再び焼失し、以後は荒廃して千手堂など一部施設を残したまま廃寺同然となってしまう。
・永禄2年(1559年)に弥阿と呼ばれる時宗の僧が残されていた弁才天を本尊として時宗の寺院に改めて再建に務めるが、元亀元年(1570年)の戦火で再度焼失、正親町天皇の勅命により再建されたとされる。
・江戸時代初期には既に時宗寺院になっていた。
・その後、元禄5年の火災で再度焼失し、その際真如堂などとともに移転を命ぜられて現在地に移った。
・現在、本堂には後西院宸筆の額が掲げられ、本尊とともに藤原道長の衣冠束帯姿の像が安置されている。
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智積院の紅梅がほころび始めています。
京都で暮らしていると、年中行事や社寺などで咲く花の移り変わりから四季の移りかわりを実感することが多く、今年も早いもので正月三ヶ日が過ぎ、泉涌寺の七福神めぐりも過ぎ、三十三間堂では通し矢が行われました。
三十三間堂に行ったついでに、近くの智積院に立ち寄りました。
《智積院》
ここには例年早咲きの紅梅の木があり、よく見ると、つぼみがふくらみ、たった一輪ですが咲いていました。
一年があっという間に過ぎていくような気がします。
●ほころび始めているの紅梅
●智積院の沿革
・真言宗智山派の総本山で全国に3000余の末寺がある。
・智積院は、もとは、紀州根来山の大伝法院の塔頭で学問所であった。近世に入って根来山の大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)秀吉の根来攻めで全山炎上した。
・慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの翌年、家康は東山にある豊国神社(秀吉が「豊国大明神」として祀られている神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。
・さらに、元和元年(1615)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を「五百佛山」とした。
・祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。
・現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)
※収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)
収蔵庫では、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、かつて祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画をみることができる。
●国宝に指定されている長谷川等伯・久蔵父子による襖絵
・「楓図」: ・「桜図」: ・「松と葵の図」 ・「松に秋草図」 等 ・「桜図」は等伯の長男、久蔵の遺作とされている。
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