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京の天皇・皇族の墓

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山科陵(天智天皇陵)

京の天皇陵

20 山科陵(天智天皇陵)

第38代 天智天皇  /中大兄皇子

(1)生年、没年
推古34年(626) 〜 天智10年(671)

(2)在位期間
天智天皇7年(668)〜 天智10年(671)

(3)親族関係
舒明天皇の第1皇子。母は皇極天皇、斉明天皇。

(4)特記事項
・「大化の改新」:皇極4年(645年)
中大兄皇子時代に中臣(藤原)鎌足と協力して蘇我入鹿を滅ぼし「大化の改新」を行った。
・天智7年(668)、近江大津宮で即位。山科に領地を持っていた中臣(藤原)鎌足の勧めと、鎌足への配慮があったとされる。
・天智10年(671)、57才で大津京に没した。
・大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。

<実績>
・天智9年(670 年)日本最初の全国的な戸籍、
庚午年籍を作成。
・班田収受の法を実施するなど、朝廷による中央集権の体制を確立した。
陵墓名称 山科陵



1 アクセス
・三条通に面した参道入口から陵までは約500mほどあり、かなり遠く感じる。地下鉄御陵(みささぎ)駅からは20分位歩くことになる。

<写真>
(1)看板
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(2)参道(すごく遠く感じる)
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(3)天智天皇陵(山科陵)

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(4)参道入口の日時計
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2 参考
(1)天智天皇陵は学術的には御廟野古墳と呼ばれている。古代の天皇陵の治定はほとんどが誤りといわれているが、この御廟野古墳(天智陵)は、まず正しいと考えられている。

(2)山科に墓を造った由来
・伝承によると、天智天皇が馬で山科に行った時に行方不明になり、そのまま戻らなくなり、沓だけがここで見つかったので墓を造ったという。

(3)参道入口西脇の日時計
高さ1700×幅95cm。天智天皇が「漏刻」という水時計を日本で最初に作らせたという史実に因み、昭和13年(1938)に京都時計商組合が建立したもの。なお、6月10日は天智天皇が初めて漏刻を行った日にあたり、大正9年(1920)に「時の記念日」として制定された。

(4)御陵(みささぎ)の町名、市営地下鉄東西線の駅名もこの天皇陵にちなんでいる。
京の天皇陵

19 香隆寺陵(二条天皇陵)

第78代 二条天皇  /守仁

(1)生年、没年
康治2年(1143)- 永万元年(1165)

(2)在位期間
保元3年(1158)- 永万元年(1165)

(3)親族関係
後白河天皇の第一皇子。

(4)特記事項
・祖父である鳥羽法皇の寵愛を受けて育てられ、皇后藤原得子(美福門院)に養育された。
・当時、皇位には叔父である近衛天皇が即位しており、更に同じく美福門院(鳥羽法皇の皇后藤原得子)の養子として先に入っていた重仁親王(崇徳上皇の長男)がいた。このため、伯父である覚性法親王のいる仁和寺に預けられた。
・久寿2年(1155年)、近衛天皇が死去し、重仁親王も鳥羽法皇と崇徳上皇の不仲が原因で即位が絶望的になると、鳥羽法皇の強い意向によって皇位継承者とされた。
・鳥羽法皇の意向でまず父である後白河天皇が即位し、これに伴い親王宣下を受け、次いで立太子となった。
・これが叔父崇徳上皇らの怒りを買って1156年の保元の乱の原因ともなった。
・保元3年(1158年)後白河天皇から譲位を受けて即位し、第78代二条天皇となった。
・平治元年(1159年)、平清盛の熊野詣のために京都を離れると、親政派と結んだ院近臣の藤原信頼、源氏の源義朝らが挙兵して平治の乱が起こる。
・応保元年(1161年)には後白河院政を停止して親政を開始。
・病弱だったため、長寛2年(1165年)には前年に生まれた実子の順仁親王(六条天皇)に譲位し、同年、23歳の若さで死去。

(5)陵墓名称:香隆寺陵



1 アクセス
平野神社前の交差点から西へ200mほどのところにある。

<写真>
(1)看板
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(2)参道
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(3)二条天皇陵(香隆寺陵)
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2 参考
周囲は閑静な住宅街に取り囲まれている。
京の天皇陵

18 成菩提院陵(白河天皇陵)

第72代 白河天皇  /貞仁

(1)生年、没年
天喜元年(1053)〜 大治4年(1129)

(2)在位期間
延久4年(1073)〜 応徳3年(1087)

(3)親族関係
後三条天皇の第一皇子。母は藤原茂子(しげこ:閑院権中納言公成の娘)

(4)特記事項
・治暦4年(1068年)、父後三条天皇即位とともに親王宣下を受け貞仁親王となる。
・延久4年(1073年)立太子、同、20歳で即位。
・延久5年(1074年)、上皇の病没。その後、父同様に親政を目指した。
・応徳2年(1085)後三条院が譲位時に皇太弟と定めていた白河天皇の異母弟の実仁親王が病没した。
・応徳3年(1086)、白河天皇は8歳のわが子の善仁親王(堀河天皇)を皇太子として譲位、自らは白河上皇となった。
・白河上皇は、譲位後も息子の第73代「堀河」、孫の第74代「鳥羽」、曾孫の(実際は息子と言う説がある)第75代「崇徳」天皇と、三代43年間に渡って「院政」をしき、自ら政治の実権を握り続けた。これを「治天の君」という。
・平安京の真南に離宮(鳥羽離宮)を造営。
その豪壮さは当時の日記によると「さながら遷都(みやこうつり)のごとし」と表現されている。
・熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096)には皇女の病没を機に出家し法名を融観とし、法皇となった。
・七堂伽藍をもつ大寺院法勝寺を建立するなど仏教を手厚く保護した。
・院の護衛として「北面の武士」を創設。
・崇徳天皇の御代に77歳で没した。

≪白河法皇の「天下の三不如意」の故事≫
白河法皇が「天下の三不如意―賀茂川(鴨川)の水(鴨川の流れとそれによる水害)・双六の賽(さいころ、当時の双六は賭博の手段として盛んに用いられて、さいころの目の動きが勝敗を分けた)・山法師(比叡山延暦寺の僧衆〔僧兵〕)」だけはどうしようもないと嘆いたという故事は、裏を返せば彼がそれ以外のものであれば思い通りにならない事はないという絶大な権力を誇っていたことを示している。

(5)陵墓名称 成菩提院陵



1 アクセス
近鉄竹田駅からほど近く、平安時代後期の「院政時代」といわれる、白河、鳥羽、近衛の天皇陵がほとんど隣接している。あたりはかつて鳥羽離宮があったところで、「白河・鳥羽法皇院政の地」の碑など、歴史をしのばせるものもある。

<写真>
(1)看板
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(2)白河天皇陵(成菩提院陵)
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(4)「白河・鳥羽法皇院政の地」の碑
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2 参考
(1)あたりはかつて鳥羽離宮があったところで、「白河・鳥羽法皇院政の地」の碑などがある。見どころは鳥羽離宮跡公園のほか、城南宮、安楽寿院など鳥羽離宮ゆかりの社寺がある。

(2)鳥羽離宮跡公園の周辺は、幕末の鳥羽伏見の戦いが勃発したところで、説明板なども置かれている。

(3)この陵墓の近所には、別に同陵の有力な比定候補地が存在し、ここは陵墓参考地として、宮内庁の管轄地となっている。
京の天皇陵

17 安楽寿院陵(鳥羽天皇陵)

第74代 鳥羽天皇  /宗仁

(1)生年、没年
康和5年(1103)- 保元元年(1156)

(2)在位期間
嘉承2年(1107)- 保安4年(1123)

(3)親族関係
・堀河天皇の第一皇子。
・母は大納言藤原実季の娘苡子。
・外祖父は藤原実季。
・崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇は子。

(4)特記事項
・生後間もなく母苡子が没し、祖父の白河法皇によって養育された。
・父堀河天皇の死後、5歳で即位。政務は白河法皇が執った。
・鳥羽天皇の子が生まれると白河上皇から譲位を促され、保安4年(1123)、子の顕仁親王(崇徳天皇)に譲位した。
・白河法皇が崩御した後、大治4年(1129年)より院政を敷く。崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代28年に渡り実権を掌握。
・保延5年(1139)、当時の鳥羽上皇は、自らの墓をこの地に定め、三重塔を建て、落慶法要を行った。
・康治元年(1142)、法皇となった。
・皇后美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、保元の乱が勃発する原因を作った。(詳細は、近衛天皇陵の記述を参照して下さい)

(5)陵墓名称:安楽寿院陵




1 アクセス
このあたりは平安時代末期(11〜12世紀)、院政の舞台となった鳥羽離宮の一角にあり、鳥羽離宮東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする安楽寿院に隣接しています。

<写真>
(1)看板
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(2)安楽寿院陵(鳥羽天皇陵)
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2 参考
(1)この天皇陵には、林の中に囲まれた中に小さい法華堂があります。ネットで調べると、法華堂の右横に「碁盤の梅」と呼ばれている梅があり、それは、昔、僧侶たちが碁ばかりして修行を怠ったため、境内での碁を禁止して、碁盤を埋めその上に梅の木を植えて戒めにされた、という、いわれのある梅だそうで、現在は何代目かの梅だということです。

(2)鳥羽離宮は、応徳3年(1086年)、時の白河天皇が退位後の居所として造営を始めたもの。
⇒白河・鳥羽・後白河の3代の院政の舞台となった。
<白河・鳥羽法皇院政の地の碑>
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(3)鳥羽天皇陵に隣接して近衛天皇陵があり、油小路通を隔てて白河天皇陵があります。

(4)付近の名所としては、鳥羽離宮跡公園には離宮当時、「秋の山」と呼ばれた築山が残り、安楽寿院や城南宮のほか、御所から移築した建物を本堂とする北向山不動院、幕末の鳥羽伏見の戦いの勃発地として知られる小枝橋などがあります。

北山陵(三条天皇陵)

京の天皇陵

16 北山陵(三条天皇陵)

第67代 三条天皇  /居貞

(1)生年、没年
天延4年(976)〜 寛仁元年(1017)

(2)在位期間
寛弘8年(1011)〜 長和5年(1016)

(3)親族関係
・冷泉天皇の第二皇子で、花山天皇の異母弟にあたる。
・母は藤原兼家の娘超子。

(4)特記事項
・寛和2年(986)、従兄弟にあたる一条天皇(当時7歳)の即位に伴い、兼家の後押しで11歳で皇太子となる。
・東宮時代は25年という長きにわたった。それは、外舅にあたる道隆・道兼・道長三兄弟が先後して政権を掌握し、それぞれ一条天皇のもとで後宮政策を布いたためであった。
・病に倒れた一条天皇の譲りを受けて36歳で即位。
・三条天皇には、4人の皇子がいたが、藤原道長の意により、道長の孫にあたる藤原道長女彰子腹の敦成親王(のちの後一条天皇)を皇太子とした。
・その後、眼病を理由に道長からしきりに退位を迫られ、長和5年(1016)、第一皇子敦明親王の立太子を条件に退位した。
・翌年、寛仁元年(1017)に出家し、42歳で没した。
・この後藤原道長は摂政となった。

(5)陵墓名称 北山陵




1 アクセス
金閣寺の大駐車場から約200mくらいのところにあります。

<写真>
(1)看板
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(2)陵墓周囲の様子
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(3)三条天皇陵(北山陵)
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2 参考
(1)陵墓は周囲の道路から一段高いところに築造されており、石段をあがって参拝することになる。
(2)金閣寺から徒歩5分程度のところであり、あわせて参拝するのがお勧め。

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