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清水寺の「首振地蔵」と恋愛成就祈願
一年中、大勢の観光客が訪れる清水寺で、最近、恋愛成就にご利益があるスポットとして人気が高まっている場所があります。
それが、「首振地蔵」です。
「首振地蔵」は、清水坂を上った仁王門前広場の左手の片隅に、小さな地蔵院善光寺堂があり、その庇下にある小さな祠(地蔵堂)にまつられています。
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2 地蔵院善光寺堂と地蔵堂
・地蔵院の扁額
・由来
3 「首振地蔵」
祠の前には帽子やよだれ掛けなどをつけたお地蔵さんが置かれ、「首振地蔵」と呼ばれています。
なお現在のお地蔵さんは2代目で、初代のお地蔵さんは祠の中に安置されています。
このお地蔵さんの首は360度回すことができ、願い事がある方向に首を向けて拝むと、願いが叶うと信じられています。
恋愛成就の祈願に訪れる人は、好きな人がいる方向へ首を向けて祈ると願いがかなう、と信じられています。
ですから、清水寺を訪れた際には忘れずに「首振地蔵」のところに来て、方位磁石と地図か携帯のナビを使って、首の向きをできるだけ正確に回して照準を合わせ、心をこめてお祈りをしてみましょう。
帽子を取ると、ちょんまげがあるそうです(未確認)
祠の中には初代のお地蔵さんがいます。
もともと人物をかたどった石像なのだそうです。
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京の石仏・お地蔵さん・銅像
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当尾(とおの)の里の石仏たち
「当尾の里」は京都府の南部、奈良県と境を接するところにあり、浄瑠璃寺や岩船寺のかいわいに鎌倉時代後期から室町時代にかけて造られた、多くの石仏や石塔があることで知られています。
このあたりは平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて浄土信仰の霊地として栄えたところであり、行き交う人々のために多くの磨崖仏が造立されました。
鎌倉時代に刻まれた石仏が、野道の道端や崖に、林や藪の中のあちこちに、数多くの石仏が点在し、今も「石仏の里」として多くの人に親しまれ、素朴な山里の風情が心を和ませてくれます。
1 場所↓
2 石仏たち
①やぶの中三尊
弘長2年(1262)
正面に地蔵菩薩
向かって右に錫杖を持つ長谷型十一面観音
左の岩には阿弥陀如来坐像。
②弥勒磨崖仏
文永11年(1274)
笠置寺の弥勒如来磨崖仏を写したものとして有名。
笠置に近い当尾で弥勒信仰を物語る貴重な作例
③一願不動(岩船寺奥院不動)
④眠り仏(地蔵石仏)
⑤わらいぼとけ
観世音菩薩坐像
阿弥陀如来坐像
勢至菩薩坐像
当尾の石仏の中でも最も知られている。
⑥集落の白梅の花が満開
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真如堂と鎌倉地蔵
<真如堂>
真如堂は正式には鈴声山真正極楽寺と称する天台宗の寺院です。
広い境内には本堂や三重塔、鐘楼などが建ち並び、春の桜の咲くころ、秋の紅葉の頃には多くの観光客が訪れますが、それ以外の季節は落ち着いて境内の散策ができます。
広い境内には見所が多くあり、三重塔のとなりに建つ地蔵堂に祀られている「鎌倉地蔵」についても、いわれのあるお地蔵さんで、真如堂を訪れた際には見落とさないようにしたいものです。
1 場所↓
2 鎌倉地蔵
①地蔵堂と鎌倉地蔵
②鎌倉地蔵にまつわる伝説
・その昔、中国に金毛の狐がいた。その狐は才色兼備の女性に化け、皇帝を騙して虜にしたが、やがて正体を見破られ、はるか日本へと逃げてきた。
・日本でも狐は美女の玉藻前に変身して鳥羽上皇の御前に現れたが、安倍晴明の弟子・安倍泰親が不信に思い、祈祷すると、苦しみながら正体を現わし、下総国へと逃げ去った。
・鳥羽上皇は直ちに退治を命じ、妖怪は退治された後もその魂は「殺生石」となって、近寄る生き物を殺し続けた。
・このことを知った玄翁(げんのう)禅師は、「殺生石」を杖で割って成仏させ、さらに禅師は、割られた殺生石のかけらで地蔵菩薩を彫り、鎌倉の小さなお堂に祀った。
・慶長年間(1596〜1615)のころ、大工の棟梁・甲良豊後守の夢に鎌倉地蔵が出現し、地蔵尊が「自分を真如堂に移しなさい」と告げたことから、鎌倉地蔵を信仰している豊後守は、お告げのとおり地蔵を真如堂に移し、真如堂に祀られることになった。
・以来、鎌倉で祀られていた地蔵ということで「鎌倉地蔵」と呼ばれ、現在に至っている。
・「鎌倉地蔵」は、現在では無実の罪を晴らしてくれるとか、心の病に効くと信じられている。
3 境内
①総門 ②本堂
享保2年(1717)再建。京都市内の天台宗本堂として最大規模。重文。
③三重塔
④新長谷観音堂
⑤石薬師堂
⑥千体地蔵堂
4 本尊「うなずきの弥陀」
本尊の阿弥陀如来は「うなずきの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈るとうなずいた、という伝説がある。(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
毎年11月15日に開扉。
5 沿革
永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まり。
不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。
しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。
その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693年)現在の場所に再建された。
6 年中行事
①涅槃会法要
3月15日に行われ、31日まで大涅槃図を一般公開
②真如堂宝物虫払会
7月25日に行われる、主な寺宝を本堂で虫干しする行事。本堂内に多くの掛軸や絵巻が広げられ、安倍晴明が奉納した極楽往生の「秘印」授与、暑気払い「びわ湯」の接待なども行われる。
7 京都検定の出題歴
●平成19年度2級
【問】「寺院名」と「その正式名称」の組み合わせのうち、誤っているものはどれか。
(ア)真如堂−真正極楽寺 (イ)三十三間堂−蓮華王院 (ウ)東寺−教王護国寺 (エ)革堂−頂法寺 【正解】(エ)
8 練習問題
(1)正式名 「( 1 )」
(2)本尊:阿弥陀如来。京都( 2 )の一つで、重文。
(3)沿革
①( 3 )が唐から帰朝する時に、船上に現れた阿弥陀如来を彫刻して延暦寺の常行堂に祀り、永観2年(984)に一条天皇の母東三条院藤原詮子が、比叡山にあった阿弥陀如来を神楽岡の離宮に移し、( 4 )上人を開山として興した。 ②応仁の乱で焼失後、( 5 )の寄進により、現在地に再建。 (4)本堂
享保2年(1717)再建。京都市内の( 6 )本堂として最大規模。重文。 (5)庭園「涅槃の庭」
・作庭は昭和63年(1988)、曽根三郎氏による。 ・比叡山および東山三十六峰を借景とした枯山水庭園である。 (6)( 7 )(新長谷寺)
本堂の北西。洛陽の観音霊場として知られる。 (7)( 8 )法要
3月15日に行われ、31日まで大涅槃図を一般公開。 【正解】
1 真正極楽寺 2 六阿弥陀仏 3 円仁 4 戒算 5 足利義政 6 天台宗 7 新長谷観音堂 8 涅槃会 |
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積善院準提堂の「人食い地蔵」
京都には、昔からたくさんのお地蔵さんが各地にあり、地域の人々によって厚く信仰され、大切に守られてきました。
中には名前の付けられたお地蔵さんも数多く残っています。
積善院準提堂の「人食い地蔵」もその一つです。
東大路通から丸太町通の一つ北側にある春日北通を右折すると、聖護院門跡があります。
・聖護院門跡
聖護院門跡の東隣に、聖護院の塔頭寺院で鎌倉時代初期の開創と伝えられる積善院準提堂があります。
もとは熊野神社前交差点南東角に在った準提堂と積善院が明治初年に合併して、準提堂の建物を積善院境内へ移転したのだそうで、今は元の準提堂を本堂とし、ここに現在の本尊準提観音像と積善院の本尊だった不動明王像を合祀しています。
この境内の一角に「人食い地蔵」と呼ばれる崇徳上皇ゆかりのお地蔵さんが安置されています。
1 場所↓
2 境内
・入口
・拝殿と本殿
・境内の隅にある「人食い地蔵」
・「人食い地蔵」
3 由来
お地蔵さんの祠に由来について書かれた紙が貼ってあります。
それには、次のようなことが書かれています。
保元の乱に敗れ、兄の後白河や清盛によって讃岐に流された崇徳上皇は、その地で都を呪いつつ亡くなったといい、その頃都では大火が続き、病気がはやり清盛も高熱の病で亡くなったそうです。
都の人が、上皇の祟りと恐れて、その霊を慰めるために地蔵尊を造ったところ、「崇徳院」が訛って「ひとくいん」となり、いつしか「人喰い」といわれるようになったそうです。
崇徳院の激しい怨念を背に、人々は「ひとくいんじぞう」、さらに「人食い地蔵」と呼び習わすようになったのでしょう。
なお、積善院では、毎年2月23日に五大力尊法要が行われ、秘仏の五大力尊画像が開帳されます。この日はお札やお守りを受け、護摩木を求めてご祈祷をしてもらう参詣者で積善院は賑わいます。
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旧山中越の道と西教寺の石仏
<西教寺の石仏>
かつて、京と近江を結ぶ交通は、東海道の逢坂越が一般的でしたが、その他にも山中(志賀)越、小関越・途中越・仰木越・如意越などがありました。
なかでも山中越は、京から北白川、山中町を経て、志賀峠から崇福寺跡近くを通り、滋賀里(大津市)へと通じており、別名「志賀の山越」ともいわれた重要な道で、『古今集』などにも歌枕として取り上げられています。
この山中越の道には、三ヶ所に大きな石仏があります。
京都の北白川に通称「子安観音」とか「太閤の石仏」とも呼ばれる石仏があり、大津側の入口にあたる祟福寺跡近くには通称「志賀の大仏」とよばれる石仏があり、そのほぼ中間にある山中町の西教寺の門の脇にも石仏があり、いずれも阿弥陀如来坐像であり、山中越えを利用した旅人の安全を祈ったものといわれています。
このうち、山中町の西教寺の石仏は、昔の旅人から「一里塚」と呼ばれていたそうです。それは他の2ヶ所の石仏までそれぞれ一里ほどであったことからだと言われています。
現在の山中町の集落は、バイパスができたことから一般車の通行が禁止されているため、ひっそりと静まり返っています。
山中越の旧道にそった集落のはずれ近く、旧道に面し、道路から一段高くなったところにある西教寺の門脇には、花崗岩に彫り出された大きな石仏がまるで旅人を見下ろすように鎮座しています
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2 旧道に沿った山中町の集落
・かつて旅籠であったという建物
・樹下神社入口
3 西教寺の石仏
①石仏のようす
・西教寺山門と石仏
・西教寺本堂
②特徴
・舟形光背を背負い花崗岩一石に掘り出した一石独尊像。
・地元では「薬師さん」と呼ばれている。
・昔の旅人からは「一里塚」ともいわれた。
・高さ2.7m、幅1.7mの阿弥陀如来坐像。
・一部欠損があるものの、鎌倉時代末期の京都白川派の作風を伝えているといわれ、大津市の指定文化財になっている。
4 「北白川の石仏」と「志賀の大仏」
山中越の京都側の入口には太閤秀吉ゆかりの北白川の石仏があり、大津側の入口にあたる祟福寺跡近くには志賀の大仏がある。 <北白川の石仏>
<志賀の大仏>
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