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宇治十帖「浮舟」(第51帖)の古跡と宇治十帖モニュメント
宇治十帖は、源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋までの十帖をいいます。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました。
「浮舟」の古跡は三室戸寺境内にあるので、500円の拝観料を払って拝観することになります。
1 場所↓
2 宇治十帖「浮舟」
「浮舟」は、『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第51帖。第三部の一部「宇治十帖」の第7帖にあたる。
巻名は、薫の庇護を受けていた女が匂宮に連れ出されて宇治川対岸の隠れ家へ向かう途中に詠んだ和歌「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」(橘の茂る小島の色のようにあなたの心は変わらないかも知れないけれど、水に浮く小舟のような私の身は不安定でどこへ漂ってゆくかも知れません)に因む。
3 宇治十帖「浮舟」の古跡の碑
古跡の碑は、三室戸寺境内の鐘楼横にある。
<三室戸寺>
・山門
・本堂
・鐘楼と三重塔(夏)
・鐘楼と三重塔(紅葉)
<古跡の碑>
鐘楼の脇にある。
・謡曲「浮舟」と浮舟古跡の碑
もともとは奈良街道沿いの「浮舟の杜」とよばれていた「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓」辺りにあり、水上交通の守り神とされていたが、明治の中頃以降、移転を繰り返した後、現在の三室戸寺境内の鐘楼横に移されたという。
●源氏物語 宇治十帖(七)
浮舟 正月、中君のところに宇治から消息があった。浮舟のことを忘れられない匂宮は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君にかくまわれて宇治にいることがわかった。そして、ある夜、闇に乗じ、薫君の風(ふう)を装って忍んで行く。浮舟が事に気付いた時はもう遅かった。
浮舟は、薫君の静かな愛情に引きかえ、情熱的な匂宮に次第にひかれていく。薫君は物思いに沈む浮舟を見て、一層いとおしく思われた。 如月(きさらぎ)の十日頃、雪の中、宇治を訪れた匂宮は、かねて用意させていた小舟に浮舟を乗せ、橘(たちばな)の小島(こじま)に遊び、対岸の小家に泊って一日を語り暮らした。 橘の小島は色もかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ 浮舟は、二人の間で様々に思い悩んだ末、遂に死を決意する。 平成十八年十月 (財)宇治市文化財愛護協会 4 宇治十帖モニュメント
弟51帖の一場面、匂宮(モニュメントの向かって左側の男性)が浮舟(モニュメントの向かって右側の女性)を誘って宇治川へと舟で漕ぎ出す場面をモニュメントにしたもの。宇治十帖の中でも有名な場面の一つ。
・朝霧橋
・モニュメント
朝霧橋のたもとにある。
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京都と文学(歌碑・詩碑・句碑等)
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宇治十帖「総角(あげまき)」(第47帖)の古跡と与謝野晶子の歌碑
宇治十帖は、源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋までの十帖をいいます。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました。
「総角(あげまき)」の古跡は、宇治上神社の北側、大吉山の登り口にあります。近くに与謝野晶子の歌碑があります。
1 場所↓
2 宇治十帖「総角」の古跡の碑
「総角」(あげまき)は、『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第47帖。第三部の一部「宇治十帖」の第3帖にあたる。巻名は薫が一周忌法要に事寄せて大君に詠んだ和歌「あげまきに長き契りをむすびこめ おなじところに よりもあはなむ」(あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ)に因む。
「総角」の碑は、宇治上神社の北側、大吉山の登り口にある。源氏物語では、宇治八宮の山荘は平等院の向かい岸のこのあたりと想定していたといわれている。現在の碑は、昭和45年に建てられたもの。
①説明板
●源氏物語 宇治十帖(三)
総角 八宮(はちのみや)の一周忌がめぐって来た。薫君(かおるのきみ)は仏前の名香(みょうごう)の飾りに託して、大君(おおいきみ)への想いを詠んだ。 総角に長き契りを結びこめ おなじ所によりもあはなむ 大君は父君の教えに従い、自らは宇治の山住みで果てる意思が堅く、妹の中君(なかのきみ)をこそ薫君に委ねたいと望まれた。 薫君は中君と匂宮(におうのみや)とが結ばれることによって、大君の心を得ようとされたが、意外な結果に事が運ばれてしまう。 匂宮は中君と結ばれたが、気儘に行動され得ない御身分故、心ならずも宇治への訪れが遠のく。大君は「亡き人の御諌めはかかる事にこそ」と故宮をしのばれ、悲しみのあまり、病の床につき、薫君の手あつい看護のもとに、冬、十一月に、薫君の胸に永遠の面影を残して、帰らぬ人となった。 平成十八年十月 (財)宇治市文化財愛護協会 3 与謝野晶子歌碑
さわらびの道沿い、宇治十帖古跡の総角の近くに与謝野晶子の歌碑がある。紫式部を大変尊敬していた与謝野晶子が、宇治十帖を詠んだ歌を真筆で刻んだもの。
<歌碑>
・橋姫
「しめやかに心の濡れぬ川ぎりの 立舞ふ家はあはれなるかな」
・椎が本
「朝の月涙の如し真白けれ 御寺のかねの水わたる時」
・総角
「こころをば火の思ひもて焼かましと 願ひき身をば煙にぞする」
・さわらび
「さわらびの歌を法師す君に似ず 良き言葉をば知らぬめでたさ」
・宿り木
「あふけなく大御女を いにしへの人に似よとも思ひけるかな」
<説明板>
「宇治十帖」の歌碑に寄せて
与謝野晶子が寛とともに山水景勝の地、宇治を訪れたのは大正13年10月14日のことであった。
晶子は幼少のころよりわが国の古典文学、とりわけ「源氏物語」の魅力にひかれ、紫式部を終生の師と仰ぎ、その現代語訳に渾身の情熱を注いだ。
また、「源氏物語礼賛」によって歌人としての天分を発揮した。
「源氏物語」の舞台ともなった宇治のこの地に、与謝野晶子の没後50年と宇治市制40周年にあたる平成4年10月、「みだれ髪の会」によって歌碑が建てられた。
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宇治十帖「椎本(しいがもと)」(第46帖)の古跡と彼方神社
宇治十帖は、源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖をいいます。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました。
宇治橋東詰から府道沿いを進み、東屋の古跡を通りすぎた少し先に彼方(おちかた)神社があります。
ここが椎本(しいがもと)の古跡といわれています。
1 場所↓
2 宇治十帖「椎本」の古跡
「椎本」(しいがもと)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第46帖。第三部の一部「宇治十帖」の第2帖にあたる。
巻名は、薫が故八の宮を偲んで詠んだ和歌「立ち寄らむ陰とたのみし椎が本むなしき床になりにけるかな」に因む。
この帖に登場する夕霧所有の別荘は、宇治川の岸辺、京の向こう岸にあることから平等院がモデルというのが通説となっている。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
①説明板
●源氏物語 宇治十帖(二)
椎本 春、花の頃、匂宮(におうのみや)は、初瀬詣(はつせもうで)の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君(かおるのきみ)やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮(はちのみや)の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばれた。 薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息(しょうそこ)を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。 薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君(おおいきみ)に強くひかれていく。 八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方について遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深いころ、阿闇梨(あざり)の山寺で、さみしく静かに生涯を閉じられた。 たちよらむ蔭(かげ)と頼みし椎が本 むなしき床(とこ)になりにけるかな 平成十八年十月 (財)宇治市文化財愛護協会 総角 3 彼方(おちかた)神社
京阪宇治駅の東南にある彼方神社は「椎本」の古跡とされています。
彼方神社は小さな神社で、諏訪大明神を祭神とし、古くは宗像(むなかた)の神を祀ったといわれています。
また、以前は椎本神社と呼ばれていたようです。
「彼方」の名前の由来は、川の流れ落ちる「落方(おちかた)」だという説があります。源氏物語「椎本」巻において八の宮と匂宮が和歌を読み交わしますが、二人の和歌に“遠方(おち)”という語が含まれています。こうしたことから、彼方神社が椎本の古跡とされたのではないかと考えられています。
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宇治十帖「宿木」(第49帖)の古跡と宇治川の流れ
源氏物語の最末尾にあたる「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖は、宇治を主な舞台とし、通称「宇治十帖」と呼ばれています。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました。
「宿木」の古跡は、宇治川の左岸を上流へ向かって歩き、光流園静山荘の北側、宇治川が見える道路わきの小さな広場の中にあります。
・古跡の碑のある広場から見た宇治川
浮島十三重塔と愛宕山
宿木はヒノキなどの木の枝に寄生する植物で、物語では薫が大君へのやるせない思いを宿木に込めて歌を詠んでいます。
①場所↓
②宇治十帖「宿木」の古跡
巻名は、薫と弁の尼が詠み交わした和歌「やどりきと思ひ出でずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし」「荒れ果つる朽木のもとをやどりきと思ひおきけるほどのかなしさ」に因む。(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
「宿木」の古跡は府道大津南郷宇治線を宇治の市街地から宇治川上流に向かって走っていくと、道路が宇治川に沿い始める辺りにあります。
江戸時代には、「宿木」の古跡は金色院の跡地で知られる白川にあったそうですが、平成6年に現在の場所に移転しました。
③説明板
●源氏物語 宇治十帖(五)
宿木 亡き大君(おおいきみ)を忘れかねる薫君(かおるのきみ)は、いつしか現し身(うつしみ)の中君(なかのきみ)におもいをよせるようになった。中君はその真情に絆されはするが「うとましく」も思われる。 二条院に中君を訪れた薫君は宇治に大君の人形(ひとがた)を造り勤行(ごんぎょう)したいと語る。中君は異母妹の浮舟(うきふね)が大君に似通っていることを告げる。 秋、薫君は宇治の山荘を御堂に改造することとし、弁尼(べんのあま)を訪れる。そして共に大君の思い出に浸り、 宿りきと思い出でずば木(こ)のもとの 旅寝もいかに寂しからまし と口ずさみ、紅葉を中君への土産にお持たせになり、匂宮(におうのみや)に恨まれる。 中君は男子御出産、薫君も心すすまぬまま、女二宮(おんなにのみや)と結婚された。其の後、宇治を訪れた薫君は、偶然、浮舟を覗き見て、大君と全く瓜二つなのに驚き、強く心ひかれてゆく。 平成十八年十月 (財)宇治市文化財愛護協会 |
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宇治十帖「蜻蛉」(第52帖)の古跡と「蜻蛉石」
紫式部が著した源氏物語は全編54帖からなりますが、このうち、最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋までの十帖は宇治を舞台としており、通称「宇治十帖」と呼ばれています。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました。
京阪三室戸駅より徒歩15分くらい、新興住宅街が広がる宇治市莵道大垣内の京都翔英高校南側に、「蜻蛉石」とよばれる線刻阿弥陀三尊石仏と宇治十帖「蜻蛉」の古跡の碑があります。
「蜻蛉石」は、藤原時代に流行した阿弥陀来迎の信仰を線刻したもので、平安時代後期の作と考えられています。
特に、発願者と思われる十二単を着た一人の女性が、中央の阿弥陀仏に向けて合掌している姿が彫りこまれているのを見つけたときは、感動してしまいました。
ここは宇治十帖の古跡の中でも、ぜひ訪れたいところです。
<「蜻蛉石」古跡周辺の様子>
1 場所↓
2 宇治十帖「蜻蛉」の古跡の碑
①「蜻蛉之古蹟」碑
②説明板
●源氏物語 宇治十帖(八)
蜻蛉
宇治の山荘は、浮舟の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君も匂宮も悲嘆の涙にくれたが、思いはそれぞれ違っていた。
事情を知った薫君は、自らの恋の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。
六条院では、明石中宮が光源氏や紫上のために法華八講)を催された。都では、華やかな日々を送りながらも薫君は、大君や浮舟との「つらかりける契りども」を思い続けて愁いに沈んでいた。
ある秋の夕暮、薫君は、蜻蛉がはかなげに飛び交うのを見て、ひとり言を口ずさむのだった。
ありと見て手には取られず見れば又
ゆくへも知らず消えし蜻蛉 3 「蜻蛉石」(線刻阿弥陀三尊石仏)
阿弥陀三尊仏の来迎を自然石に線彫りをしたもので、通称「蜻蛉石」と呼ばれる。
この阿弥陀三尊石仏は、藤原時代に流行した阿弥陀の来迎信仰をあらわしている。阿弥陀三尊来迎図の石仏としては、最古の遺品といわれている。
正面には阿弥陀如来、向かって右面には両手で蓮台をささげる観音菩薩、左面には合掌する勢至菩薩が線彫されている。
平安時代後期の作と考えられている。高さ約2m。市指定文化財。
①線刻阿弥陀如来像
蓮華座に坐し、定印を結ぶ。
②線刻勢至菩薩(西面)
③十二単を着た一人の女性が中央の阿弥陀仏に向けて合掌している姿
左面の勢至菩薩の右下に十二単らしき着物を着た一人の女性が彫られている。
敷物の上に裳裾をながく後ろにひいてひざまずき、中央の阿弥陀仏に向けて合掌している姿が彫られているといわれており、この石仏造立の発願者であろうと考えられている。
そういわれてみればそれらしく見える。
④観音菩薩(東面)
⑤説明板
<近くのマンホールのふた>
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