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宇治十帖「手習」(第53帖)の古跡
源氏物語の最末尾にあたる「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖は、宇治を主な舞台とし、通称「宇治十帖」と呼ばれています。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました。
「手習」(てならい)は、『源氏物語』五十四帖のうちの第53帖で、第三部の一部「宇治十帖」の第9帖にあたります。
「手習」の古跡は、三室戸の府道京都宇治線沿いの大きな榎の木の下にあり、10か所の古跡のうちでもわかりやすいところにあります。
1 場所↓
2 宇治十帖「手習」の古跡
三室戸の府道京都宇治線沿いの大きな榎の木の下にあります。
①大きな榎と木の下にある古跡の碑
(3月)
(6月)
昭和になって建てられた石碑です。
②古跡の碑
先端がとがった形をしているのは、浮舟が手習いのときに使った筆の穂先のような形をイメージして作ったといわれています。
③説明板
●源氏物語 源氏物語 宇治十帖(九)
手習 比叡山の横川(よかわ)に尊い僧都(そうず)がいた。初瀬詣(はつせもうで)の帰りに急病で倒れた母尼を介護するために宇治へ来た。その夜、宇治院の裏手て気を失って倒れている女を見つけた。この女こそ失踪した浮舟(うきふね)であった。僧都の妹尼は、亡き娘の再来かと手厚く介抱し、洛北小野の草庵に連れて帰った。 意識を取り戻した浮舟は、素性を明かそうともせず、ただ死ぬことばかりを考え泣き暮らした。 やがて秋、浮舟はつれづれに手習をする。 身を投げし涙の川の早き瀬を しがらみかけて誰かとどめし 浮舟は尼達が初瀬詣の留守中、立ち寄った僧都に懇願して出家してしまう。やがて、都に上った僧都の口から浮舟のことは、明石中宮に、そして、それはおのずと薫君(かおるのきみ)の耳にも届くのであった |
京都と文学(歌碑・詩碑・句碑等)
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宇治十帖「夢浮橋」(第54帖)の古跡と紫式部の像
紫式部が著した全編54帖からなる源氏物語のうち、最末尾にあたる第3部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの最後の10帖は宇治を主な舞台にしており、通称「宇治十帖」と呼ばれています。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑などが建てられています。
・宇治橋
「橋姫」で始まる「宇治十帖」の最終巻は、「夢浮橋」です。
夢浮橋の古跡は、宇治橋西詰の南側に紫式部の像とともに「夢浮橋ひろば」にひっそりとたたずんでいます。
ここは、「宇治十帖」の古跡の中で、最も景色のよいところにあります。
2 紫式部の像
・「夢浮橋ひろば」と紫式部の像
・紫式部の像
・源氏物語と宇治について(「夢浮橋ひろば」にある説明板)
3 源氏物語宇治十帖「夢浮橋」の古跡
・「夢浮橋」の古跡と紫式部の像
・古跡
「夢浮橋」は、源氏物語五十四帖の第54帖(最後の巻)。第三部の一部「宇治十帖」の最後、第10帖にあたる。
『源氏物語』の多くの巻名が本文中にある言葉(特に歌の中にある言葉)から取られているのに対して、「夢浮橋」という言葉は本文中に見られない。藤原定家の古注釈『源氏物語奥入』では出典未詳の古歌「世の中は夢の渡りの浮橋かうちわたりつつものをこそ思へ」に関連するとしている。(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
●案内板
源氏物語 宇治十帖(十)
夢の浮橋 薫君(かおるのきみ)は、小野の里にいるのが、浮舟であることを聞き、涙にくれる。そして僧都にそこへの案内を頼んだ。僧都は、今は出家の身である浮舟の立場を思い、佛罰を恐れて受け入れなかったが、薫君が道心(どうしん)厚い人柄であることを思い、浮舟に消息を書いた。 薫君は浮舟の弟の小君(こぎみ)に、自分の文(ふみ)も添えて持って行かせた。 浮舟は、なつかしい弟の姿を覗き見て、肉親の情をかきたてられ母を思うが、心強く、会おうともせず、薫君の文も受け取らなかった。 小君は姉の非情を恨みながら、仕方なく京へ帰って行った。薫君はかつての自分と同じように、誰かが浮舟をあそこへかくまっているのではないかとも、疑うのだったとか。 法(のり)の師とたづぬる道をしるべにして 思はぬ山に踏み惑うかな 平成十八年十月 (財)宇治市文化財愛護協会 |
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宇治十帖「橋姫」(第45帖)の古跡と橋姫神社
紫式部が著した源氏物語は全編54帖からなりますが、このうち、「橋姫」から「夢浮橋」までの最後の10帖は宇治を主な舞台にしており、通称「宇治十帖」と呼ばれています。
宇治十帖は、源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖をいいます。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世の人たちによって、そのゆかりの古跡が定められ、石碑などが建てられました。
・宇治橋
宇治橋の西詰(JR 宇治駅 側)をあがた通りの大鳥居をくぐり、しばらく歩いた左側に橋姫神社があります。
・橋姫神社(右)と大鳥居(奥)
ここは古来より宇治橋の守り神を祀る神社であり、また、悪縁を絶つ神社としても広く知られており、縁切りの祈願のためにお参りする人も多い神社です。
また、橋姫神社は源氏物語宇治十帖の「橋姫」の古跡とされています。
2 橋姫神社
①沿革
・古代から水辺、特に橋は心霊の宿るところとされていたため、大化2年(646)に宇治橋を架けた際に、それまで上流の桜谷と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を、宇治橋の「三の間」に祀ったのが始まりとされる。
・その後、宇治橋の西詰に祀られていたが、明治3年の洪水による流出後、明治39年に現在の場所に移された。
・古来、悪縁を絶つ神社として広く知られ、縁切りの祈願のためにお参りする人も多い。
・ここは源氏物語宇治十帖の「橋姫」の古跡とされている。
②境内
瀬織津姫(せおりつひめ)を祭神とし、水運の神である住吉明神と並んで境内に祀られている
・住吉社(右・道路側)と橋姫神社(奥)
・住吉社の扁額
・橋姫神社
●縁切り祈願
この社の祭神である橋姫は、謡曲『鉄輪』や『平家物語』剣の巻などに登場している。
嫉妬深い女性が、夫に捨てられたのを恨み、貴船神社に詣でて神の託宣を受け、宇治川に百日浸かって鬼となり、男を呪い殺したという伝説もある。
こうしたことから、橋姫神社には古来より「悪縁を断ち切りたい」と願う参拝者が後を絶たないという。
3 源氏物語宇治十帖「橋姫」の古跡
「橋姫」は、『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。第45帖。第三部の一部「宇治十帖」の第1帖にあたる。
本巻の巻名は薫が詠んだ和歌「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」に因む。
●案内板
源氏物語 宇治十帖(一)
橋姫 「その頃、世に数(かず)まへられ給はぬふる宮おはしけり。」と「宇治十帖」は書き始められる。 光源氏の異母弟の八宮(はちのみや)は、北方(きたのかた)亡き後、宇治の地で失意と不遇の中に、二人の姫君をたいせつに育てながら、俗聖(ぞくひじり)として過ごしておられた。世の無常を感じていた薫君(かおるのきみ)は、宮を慕って、仏道修行に通い、三年の月日がながれた。 晩秋の月の夜、薫君は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、 「あはれになつかしう」思い、 橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞぬれぬる と詠んで大君(おおいきみ)に贈った。 出家を望まれる八宮は、薫君を信じ、姫君たちの将来をたのまれる。その後、薫君は、自分が源氏の実子ではないという出生の秘密を知ることになる。 平成十八年十月 (財)宇治市文化財愛護協会 4 練習問題
(1)祭神:
( 1 )(橋姫)。かつては、宇治橋三の間の張り出し部分にまつられて、( 2 )の守護神とされていた。明治3年(1867)の洪水で流失後、移転。源氏物語の「( 3 )」ゆかりの古跡。
(2)嫉妬の神
「( 4 )」 妬ましい男女を呪い殺す話。 →縁切りの神、悪縁を切る効験があると伝えられる。 【正解】
1 瀬織津姫 2宇治橋 3 宇治十帖 4源平盛衰記 |
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宇治十帖「早蕨」(第48帖)の古跡と宇治神社の梅雨時の光景
宇治は、宇治川の清流のもと、平等院をはじめとする歴史的遺産にあふれ、また平安朝文学の最高峰とうたわれた源氏物語宇治十帖の古跡が各地に点在する詩情豊かなところで、これらの石碑をめぐり、説明板を読み、途中の社寺を拝観しているうちに、その魅力に引き込まれてしまいます。
宇治十帖は、源氏物語の最末尾にあたる第3部のうち後半の橋姫から夢浮橋までの十帖をいいます。
-宇治十帖-
第45帖 橋姫(はしひめ) 第46帖 椎本(しいがもと) 第47帖 総角(あげまき) 第48帖 早蕨(さわらび) 第49帖 宿木(やどりぎ) 第50帖 東屋(あづまや) 第51帖 浮舟(うきふね) 第52帖 蜻蛉(かげろう) 第53帖 手習(てならい) 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし) 宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、そのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました
今回は、宇治十帖の古跡のうち、「早蕨」の古跡とさわらびの道に沿って、宇治神社の今年の梅雨時のようすについてご案内します。
1 「さわらびの道」
宇治橋から宇治川の東岸を川に沿って橋寺の前から宇治神社、宇治上神社のわきを通って、源氏物語ミュージアム方向に続く道が「さわらびの道」です。
ここでは、さわらびの道から離れて、朝霧橋のたもとまで歩きます。
2 宇治十帖モニュメント
宇治川東岸の道を川上に向かって進むと、朝霧橋の手前に宇治十帖モニュメントが建っています。
・朝霧橋
橋の向こうに平等院が見える。
・宇治十帖モニュメント
これは源氏物語「宇治十帖」の古跡全体を象徴するモニュメントとされています。
宇治十帖の中で、浮舟(モニュメントの向かって右側の女性)は薫に連れられて宇治に移りますが、匂宮(モニュメントの向かって左側の男性)は浮舟の居場所を探り出し宇治を訪れます。
ヒロイン浮舟と匂宮が小舟で宇治川に漕ぎ出す有名な情景をモチーフとしています。
背後の屏風には、源氏物語絵巻の一つ、橋姫の場面〈薫が透垣を通して二人の美しい姫君を垣間見るシーン〉が描かれています。
3 宇治神社
標石に従ってさわらびの道を歩いて行くと、宇治神社の脇に出ます。
なお宇治十帖のモニュメントからは、朝霧橋の東詰にある鳥居をくぐり、石段を上がると、宇治神社の社殿があります。
ここは、永承7年(1052)に藤原頼通が平等院の創建にあたり鎮守社として創建され、明治維新までは近くにある宇治上神社とともに、それぞれ宇治離宮明神上社・下社と称していました。
宇治神社の境内には、百人一首でも有名な喜撰法師の歌碑があります。
②朝霧橋の向かいにある参道入口の一の鳥居
鳥居をくぐり、石段を上がっていくと桐原殿があり、その奥に二の鳥居があり、さらに石段を上がると社殿がある。
③桐原殿
・あじさいの花
④二の鳥居と社殿
⑤喜撰法師の歌碑
二の鳥居のわきにある。
「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」
喜撰法師は平安時代初期の僧・歌人、六歌仙の一人で、宇治山に住んでいたといわれている。
⑥拝所
⑦本殿
鎌倉時代初期の建立と伝える三間社流造りの社殿で、重文に指定。
⑧沿革など
・祭神「莵道稚郎子」
日本書紀に「応神天皇の皇子で、兄である仁徳天皇との皇位を巡る葛藤から宇治で自殺した」と記されている、悲運の皇太子莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)を祭神としている。
本殿には、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われている莵道稚郎子の等身大の坐像を祀っている。
・神社のある場所
付近は、莵道稚郎子が造営した桐原日桁宮跡と伝えられている。 (皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが神社の起こりと言われている) ・平等院との関係
なお、永承7年(1052)に藤原頼通が平等院の創建にあたり鎮守社とし、以来、平安貴族に崇敬されてきた。 ・宇治離宮明神という名称
明治維新までは隣接する宇治上神社とともに二社一体で、それぞれ離宮明神上社、下社と称した。
⑨重文指定の文化財
本殿と莵道稚郎子の木造神像(平安後期)が指定されている。
・木造狛犬
本殿及び外陣の狛犬は鎌倉時代に作られたもの。
⑩喜撰法師について(フリー百科事典ウィキペディア参照)
・平安時代初期の僧・歌人。六歌仙の一人。
・宇治山に住んでいた僧であること以外は不明で、今日伝えられているのは2首の歌のみ。
「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」 (古今集983。また小倉百人一首 8番) 「木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも
(玉葉集400) このうち、宇治神社の境内には、百人一首でも有名な
「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」
の石碑があります。
・宇治神社近くに「早蕨」の古跡があります。
・説明板
源氏物語 宇治十帖(四)
早蕨 年改まり、宇治の山荘にも春が来た。 今年も山の阿闇梨(あざり)から蕨や土筆(つくし)などが贈られてきた。 中君(なかのきみ)は亡き父君や姉君を偲びつつ この春はたれにか見せむ亡き人の かたみにつめる峰の早蕨 と返歌なさった。 二月の上旬、中君は匂宮(におうのみや)の二条院へ迎えられ、行先の不安を感じつつも、幸福な日々が続く。 夕霧左大臣は、娘の六君(ろくのきみ)を匂宮にと思っていたので、失望し、薫君(かおるのきみ)にと、内意を伝えたが、大君(おおいきみ)の面影を追う薫君は、おだやかに辞退した。 花の頃、宇治を思いやる薫君は、二条院に、中君を訪ねては懇ろに語るが、匂宮は二人の仲を、疑い始める。 平成十八年十月 (財)宇治市文化財愛護協会 ※補足
宇治神社北東角のさわらびの道沿いに「早蕨之古蹟碑」がある。江戸時代から明治にかけて、早蕨の古跡はその所在地を転々とし、奈良鉄道(現在のJR奈良線)の工事に伴い、今の場所に移ったといわれている。石碑自体は昭和63年に建てられたもの。
早蕨の巻の大半は八宮邸が舞台となっている。現在の古跡の所在地は、すぐそばの宇治神社、宇治上神社に八宮のモデルではないかといわれている莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)が祭られていることと、平等院の対岸であることから付近一帯が八宮邸跡と想定されていて、早蕨の古跡にふさわしいとされている。 ●さわらびの道沿いに咲くあじさい
5 京都検定の出題歴
①平成16年3級 本殿が神社建築の最古の社殿とされる世界遺産に登録されている神社はどこか。 (ア)上御霊神社 (イ)宇治上神社 (ウ)上賀茂神社 (エ)下鴨神社 【正解】(イ)
②平成17年2級
宇治上神社に湧き出ている宇治七名水の一つは何か。 (ア)御香水 (イ)延命水 (ウ)善気水 (エ)桐原水 【正解】(エ)
6 練習問題
(1)宇治神社 ①祭神:莵道稚郎子 (日本書紀によれば、兄(のちの仁徳天皇)との皇位を巡る葛藤から、宇治川に入水したという悲運の皇太子) ②沿革
明治維新までは隣接する宇治上神社とともに、( 1 )明神(八幡宮)下社と称した。 永承7年(1052)に藤原頼道が( 2 )の創建にあたり鎮守社とし、以来、平安貴族に崇敬され、祭礼の宇治の祭は賑わった。 ③本殿
三間社流造り桧皮葺きの社殿で、( 3 )時代初期の建築。 ④文化財:内殿には菟道稚郎子の木造等身大坐像を祀る。重文。他に木造狛犬や白色尉面など貴重な文化財が伝わる。
【正解】
1 宇治離宮 2 平等院 3 鎌倉 (2)宇治上神社
①祭神:菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、応神天皇、仁徳天皇を祀る。 ②沿革
・明治維新までは( 1 )明神(八幡宮)上社と呼ばれていた。 ・宇治神社と合わせて、平安時代に藤原氏が( 2 )を建立したのち、その鎮守社として崇敬された。 ③( 3 )(国宝):鎌倉時代の寝殿造り風の優れた建物遺構。
④( 4 )(国宝):平安時代後期に伐採された木材が使われ、覆屋の中に一間社流造りの小さな社が3棟並ぶ。平安時代後期に建てられた、現存するわが国最古の神社建築で国宝。
⑤春日神社(重文)などの摂社
⑥「( 5 )」:宇治七名水のひとつ。
⑦世界遺産に指定。
【正解】
1 宇治離宮 2 平等院 3 拝殿 4 本殿 5 桐原水 |
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宇治十帖「蜻蛉」の古跡と「蜻蛉石」
紫式部が著した源氏物語は全編54帖からなりますが、「橋姫」から「夢浮橋」までの最後の10帖は、宇治を主な舞台にしていることから、通称「宇治十帖」と呼ばれています。
宇治橋を中心とした宇治川の両岸に、後世、好事家たちによりそのゆかりの古跡が定められ、石碑が建てられました。
京阪三室戸駅より徒歩15分くらい、新興住宅街が広がる宇治市莵道大垣内の京都翔英高校南側に、「蜻蛉石」とよばれる線刻阿弥陀三尊石仏と宇治十帖「蜻蛉」の古跡の碑があります。
本年9月2日付けの本ブログに写真入りで解説させていただいていますので、ご覧下さい。
1 場所↓
2 宇治十帖「蜻蛉」の古跡の碑
源氏物語 宇治十帖(八)
蜻蛉 宇治の山荘は、浮舟の失踪で大騒ぎとなった。事情をよく知る女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため母を説得し、遺骸の無いまま泣く泣く葬儀を行った。薫君も匂宮も悲嘆の涙にくれたが、思いはそれぞれ違っていた。 事情を知った薫君は、自らの恋の不運を嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営んだ。 六条院では、明石中宮が光源氏や紫上のために法華八講)を催された。都では、華やかな日々を送りながらも薫君は、大君や浮舟との「つらかりける契りども」を思い続けて愁いに沈んでいた。 ある秋の夕暮、薫君は、蜻蛉がはかなげに飛び交うのを見て、ひとり言を口ずさむのだった。 ありと見て手には取られず見れば又 ゆくへも知らず消えし蜻蛉 3 「蜻蛉石」(線刻阿弥陀三尊石仏)
阿弥陀三尊仏の来迎を自然石に線彫りをしたもので、通称「蜻蛉石」と呼ばれる。
平安時代後期の作と考えられている。高さ約2m。市指定文化財。
①線刻阿弥陀如来像
蓮華座に坐し、定印を結ぶ。
②線刻勢至菩薩(西面)
③観音菩薩(東面)
④説明板
・この阿弥陀三尊石仏は、藤原時代に流行した阿弥陀の来迎信仰をあらわしている。阿弥陀三尊来迎図の石仏としては、最古の遺品といわれている。
・正面には阿弥陀如来、向かって右面には両手で蓮台をささげる観音菩薩、左面には合掌する勢至菩薩が線彫されている。
なお、左面の勢至菩薩の右下に、十二単を着た一人の女性が彫り込まれていて、その女性は、敷物の上に裳裾をながく後ろにひいてひざまずき、中央の阿弥陀仏に向けて合掌している姿が線彫されているということですが、石仏横の植え込みのためか、わかりませんでした。この石仏造立の発願者であろうと考えられている平安時代の女性の姿、次回明るい時にもう一度見てきたいと思っています。
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