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長泉寺の吉田兼好の歌碑と墓 長泉寺は、仁和寺の近く、双ヶ丘の丘の東麓にあります。 ここには、吉田兼好の歌碑と墓があることで知られています。 ここは山門内は非公開なので、いずれも見ることはできませんが、平成20年度の京都検定1級の試験で、ここの歌碑の作者と場所を問う問題が出題されました。 <兼好法師旧跡の石碑> ・長泉寺山門前 ・仁和寺近くにある、兼好法師旧跡(長泉寺)の案内の石碑 2 沿革 (1)浄土宗の寺院で、もとは、秀吉の朝鮮出兵のさいに日本に連れてこられた高麗の人が開いたといわれている。 (2)吉田兼好の墓と歌碑がある。(非公開) 「契りおく花とならびの岡の上に 哀れ幾世の春をす ぐさむ」 3 山門と門内のようす 4 卜部(吉田)兼好(1283?〜1350?) ・吉田神社神職の家に生まれ、朝廷に出仕していたが27歳で出家し、晩年は仁和寺近辺(双ヶ丘二ノ丘西麓)に草庵を結んだ。 ・墓は当初は双ヶ丘二ノ丘西麓辺りあったが、江戸時代にこの地に移されたと伝えられる。 ・『徒然草』 5 長泉寺にある兼好の歌碑(非公開) 「契りおく花とならびの岡の上に 哀れ幾世の春をすぐさむ」 6 長泉寺にある兼好の墓:「兼好塚」(非公開) ・兼好は、観応元年(1350)4月8日伊賀国で死去したとされているが、生前から自身の終焉地、安息処を双ヶ丘と定めていたという。 ・兼好の遺志のとおり、ゆかりの双ヶ丘二ノ丘西麓辺りに葬られ塚がつくられた。 ・その後、江戸時代になって、長泉寺境内に墓が移されたと伝えられる。
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京都と文学(歌碑・詩碑・句碑等)
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志賀直哉旧居跡 志賀直哉は京都で暮らしていたことがありました。 奈良の旧宅は今でも残っていますが、こちらは石碑しか残っていません。 山科の方へお出かけの折は、一度お立ち寄りください。 2 旧居跡 志賀直哉は、大正12(1924)年10月から同14年4月まで、ここで暮らしていました。ここで「山科の記憶」「痴情」「晩秋」「瑣事」などの多くの作品を書き残しています。 現在では家屋は無く、旧居跡の碑があるのみです。 その石碑には、 「細い土橋、硝子戸、池庭のある一軒家で、その清澄な文学のように、美しい山科の自然に囲まれた静かな住まいであった」 と書かれています。 <石碑の周囲の様子> 3 志賀直哉(1883〜1971) 白樺派を代表する小説家。出身は宮城県石巻市。 代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』など。 ●山科への転居の経緯
詩人竹内勝太郎(1894〜1935)の紹介により、粟田口三条からここに転居しました。 |

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鞍馬寺の与謝野晶子、寛の歌碑 1 鞍馬寺 (2)沿革等 <駒札> (1)宝亀元(770)年、鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を本尊として奉安したのが起こり。その後、延暦15(796)年に藤原伊勢人が堂舎を建て、千手観音を併せ祀った。 (2)平安時代は京都の北方守護の寺として信仰を集めた。 (3)度重なる火災で多くの堂宇を焼失。現在の堂宇の多くは、昭和になって再建されたもの。 <鞍馬山霊宝殿前から見た境内の眺望 ――雲殊桜のころの鞍馬寺> 2 「鞍馬山霊宝殿」 1階:山内の動植物、鉱物などを展示する自然科学博物苑展示室 2階:寺宝展観室と與謝野晶子の遺品を展示する與謝野記念室 3階:国宝の毘沙門天三尊像や経塚出土品などの宝物収蔵庫 となっている。 ※鞍馬弘教を開宗した信楽香雲は与謝野晶子の直弟子で、大正時代から交流があった。こうした経緯から、鞍馬寺には与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した、与謝野記念室があり、また、晶子の書斎「冬柏亭」と遺品が東京から移された。 3 与謝野寛(鉄幹)・晶子の歌碑 (1)与謝野晶子について 明治11(1878)年〜昭和17(1942)年。女流歌人・詩人。堺市生まれ。 歌誌『明星』で活躍。与謝野鉄幹と結婚。代表歌集『みだれ髪』など多数。 (2)京都にある歌碑 左京区、鞍馬寺に与謝野記念室、歌碑、蹴上浄水場や永観堂などに歌碑がある。 かつて、歌人与謝野晶子は、鞍馬の地を愛し、幾度も鞍馬を訪れている。 「何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」晶子 ※「何となく君にまたるるここちして」 「何となく君が待っているような気がして」という意味。 「遮那王が背くらべ石を山に見て わが心なほ明日を待つかな」寛 4 与謝野晶子の書斎「冬柏亭」 昭和51年に、霊宝殿前に晶子の書斎「冬柏亭」と遺品が東京から移された。 (1)説明板 (2)「冬柏亭」
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谷崎潤一郎と京都 谷崎潤一郎は四季おりおりの京都の風物を愛した芸術家の一人でした。 大正12年の関東大震災を機に兵庫県武庫郡に移住した谷崎は、その後も関西を転々とし、昭和21年(1946)から29年(1954)にかけての10年近くを、京都の南禅寺(前の潺湲亭)、下鴨(後の潺湲亭)に暮らしました。 1 京都での文筆活動 谷崎の京都関係の年表を簡単にまとめると 昭和21年 京都に転居し、南禅寺下河原町に居を定める(前の潺湲亭)。 昭和22年 高血圧症の悪化により執筆が滞りがちとなる。『細雪』上巻を発表(毎日出版文化賞受賞)。 昭和23年 『細雪』が完成する。毎日藝術賞受賞。 昭和24年 下鴨泉川町に転居(後の潺湲亭)。文化勲章受章。『細雪』下巻(朝日文化賞受賞)、『月と狂言師』『少将滋幹の母』を発表。 昭和26年 この年以降再び高血圧症悪化。文化功労者となる。『潤一郎新訳源氏物語』を発表。 昭和31年 京都の「後の潺湲亭」を日新電機株式会社に売却し、熱海に転居。『鍵』を発表。 昭和40年 京都に遊ぶ。随筆諸種を発表。7月30日腎不全に心不全を併発して死去。享年79。戒名は安楽寿院功誉文林徳潤居士。 2 「後の潺湲亭(せんかんてい)」 谷崎潤一郎のかつての邸宅「潺湲亭」は、日新電機株式会社(本社:京都市右京区)が「石村亭」として所有しています。 谷崎は日新電機に譲り渡すにあたり、今の姿をいつまでも保って欲しいとし、その思いを受けて「石村亭」と命名したそうです。石村亭は小説『夢の浮橋』の舞台でもあります。 <石村亭> 3 谷崎潤一郎夫妻の墓 哲学の道沿いの浄土宗の法然院墓地の上段、谷崎が愛した平安神宮の紅しだれ桜と同じ紅しだれを挟み「空」「寂」の二基の墓石が据えられてあります。 「空」には松子夫人の妹重子夫妻の墓、「寂」には潤一郎・松子夫妻が眠っています。この寺の墓所は谷崎家代々の日蓮宗を嫌って潤一郎が生前に求めたものであったそうです。 <潤一郎・松子夫妻の墓> <松子夫人の妹重子夫妻の墓> 4 京都検定出題例 17年度2級 次の「京都を舞台とした文学作品」と「その作家」の組み合わせのうち、誤っているものはどれか。 (ア)細雪・谷崎潤一郎 (イ)虞美人草・森鴎外 (ウ)古都・川端康成 (エ)金閣寺・三島由紀夫 【正解】(イ) 平成19年度の1級試験で、虞美人草と古都が出題されています。やはり、過去問はしっかり固めておく必要があります。 なお、京都関連の文学関係については、「京都文学散歩」(京都新聞出版センター)を一読された方がよいでしょう。
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川端康成 「古都」文学碑 周山街道を高雄から北に向かうと、中川という集落がある。このあたりは、まっすぐ天に伸びる北山杉の風景が続き、秋から冬にかけて北山杉の丸太磨きがみられる。 <中川の集落> 2 北山杉資料館 台杉200本を配した広大な庭園、北山グリーンガーデンの一角に、昭和57(1982)年、北山杉のPRのための北山杉資料館が開館した。ここでは北山杉の制作過程を実物、写真、パネルを使って説明するほか、工芸品を展示している。 3 川端康成 「古都」文学碑 昭和47年、北山グリーンガーデンの奥庭に建立された。 高さ4メートル程の御影石でおむすび形である。 ●石碑 「古都(抄)」 杉山の木末が、雨にざわめき、稲妻のたびに、そのほのおは、地上までひらめき、2人の娘のまわりの杉の幹まで照らした。美しく真っ直ぐな幹のむれも、つかのま、不気味である。と思うまもなく、雷鳴である。 康成 <石碑> <姉妹の像>
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