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京都・西山にある善峯寺と秋明菊
善峯寺は京都の西山の中腹にあり、境内は京都の市街地を眼下に一望できる見晴らしのよいところに広がっています。
ここはまた、西国観音霊場20番札所として年間を通じて多くの参詣者が訪れています。
善峯寺は西山の中腹にあるので紅葉も早いのですが、ここには秋明菊が境内のあちこちに植えられ、特に、本坊庭園と奥の院わきの蓮華寿院庭がとても見事です。
また、境内に植えられているフジバカマの花にアサギマダラという蝶が飛んできていました。アサギマダラは夏に日本本土で生まれ、秋になると南西諸島や台湾まで南下、繁殖した子孫が春に北上し、日本本土に再び現れる蝶として知られ、中には直線距離で1,500km以上も移動した蝶もいるそうです。
善峯寺の秋の境内のようすです。
※場所↓
1 境内
●山門
「西山宮門跡」と書かれた札が下がっている。
拝観受付になっており、ここから境内に入る。
楼上の文殊菩薩と両脇・金剛力士は運慶の作、頼朝が寄進したものと伝わる。
山門から順路に従って直進し、石段を上がって、正面にある観音堂(本堂)を参拝する。
●山門近くで咲いていた秋明菊
●観音堂への石段を上がったところから見た山門
●観音堂(本堂)
元禄5年(1692)桂昌院によって再建。本尊の十一面千手観世音菩薩は仁弘法師の作。
●観音堂前から見た経堂と多宝塔方面
観音堂(本堂)から北に、石段を上がると遊龍の松があり、多宝塔、経堂が並ぶ。
●遊龍の松
樹齢600年の五葉松で、天然記念物。
安政4年(1857)、花山前右大臣家厚公が「遊龍」と命名。
もとは全長54mあったが、平成6年、松くい虫のため15mほど切った。
●経堂(左)と多宝塔(右)
●多宝塔(左)と護摩堂(右)
・多宝塔は重文。元和7年(1621)の再建。
・経堂は宝永2年(1705)建立
●鐘楼
●開山堂と秋明菊
●幸福地蔵
●阿弥陀堂、青蓮院宮御廟へ向かう参道と秋明菊
●本坊の門と秋明菊
●釈迦堂への石段と秋明菊
●釈迦堂
●釈迦堂脇のムラサキシキブの実
●釈迦堂の狛犬と秋明菊
●奥の院への参道から見た開山堂方面の紅葉、萩の花
●青蓮院宮御廟
●蓮華寿院庭園の秋明菊
●境内のフジバカマの花に飛来していたアサギマダラ蝶
アサギマダラは夏に日本本土で生まれ、秋になると南西諸島や台湾まで南下、繁殖した子孫が春に北上し、日本本土に再び現れる蝶として知られ、中には直線距離で1,500km以上も移動した蝶もいるそうです。
2 秋明菊について
・金鳳花(きんぽうげ)科アネモネ属。
・秋に菊に似た花を咲かせるところからこの名前がついたもので、菊ではない。
・アネモネ属は、花びらに見えるものは花びらではなく、萼(がく)片が花弁状になったもので、花弁はない。
・中国原産でかなり昔、日本に渡来した帰化植物。
・京都の貴船地方に多いことから、濃いピンク色の花は別名で「貴船菊(きぶねぎく)」とも呼ばれている。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
3 善峯寺の沿革
<説明板>
・その後、長元7年(1034)に後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。
・鎌倉時代初期に後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。
・青蓮院から多くの門跡が入山したため「西山宮門跡」と称された。
・応仁の乱の兵火により伽藍が焼失。
・江戸時代に桂昌院の寄進によって再興された。
4 練習問題
(1)山号:( 1 )。本尊は( 2 )
(2)沿革
・長元2年(1029)、( 3 )の弟子源算が、当地に小堂を建てたことが起こり。
・源算が、のちの後三条天皇の皇后の安産を祈願したところ、男子(白河天皇)が生まれ、その功績により伽藍を造営。
・その後、青蓮院の各法親王が代々住職を務めたため、『( 4 )』門跡と称された。
・源頼朝らの援助により繁栄したが、応仁の乱により大きな被害を受けた。
・元禄年間(1688〜1704)徳川綱吉の母( 5 )の寄進によって諸堂が復興され現在に至る。
(3)( 7 )
樹齢600年。境内に長大な枝を伸ばす。 (4)西国第( 8 )番札所。
(5)広大な境内地
重要文化財の多宝塔をはじめ、多くの堂塔が立ち並び、池泉や四季の花々で彩られており、特に、眺望がすぐれている。神経痛、腰痛の祈願所でもある。
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京の西国札所
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西国15番札所 今熊野観音寺
今熊野観音寺は東大路通から泉涌寺へ向かう参道を約500m上っていき、泉涌寺大門前の駐車場の手前にある標示に従って左折した突き当たりにあります。
・泉涌寺道から今熊野観音寺への入口
ここは泉涌寺の塔頭で、正式名は新那智山今熊野観音寺といい、平安時代の大同年間(806〜810)に空海が庵を結び自ら観音像を刻んで安置したのが始まりと伝えられています。
また、西国三十三所観音霊場の第15番札所として、さらに中風や頭痛平癒、近年は、ぼけ封じのご利益で信仰を集め、年間を通じて多くの参拝客が訪れます。
年中行事としては、毎年9月、四国八十八ヶ所のお砂踏み法要が行われることが知られています。
なお、本堂背後の墓地に、鎌倉時代後期のものとされる見事な石造宝塔が三基並んでおり、慈円僧正、藤原忠通、藤原長家の供養塔であると伝えられており、すぐ近くには、薩摩の島津義久の「逆修墓」と伝える大きな五輪塔もあります。
境内はカエデが多く、とりわけ秋の紅葉が見事なところです。
1 場所↓
2 境内
<境内案内図>
●鳥居橋
泉涌寺参道から左に折れて、今熊野川に架かる「鳥居橋」を渡り、観音寺の境内に入る。
●子護大師
境内に入って真っ直ぐ進み、石段を上ると、子護大師の前に出る。子護大師は文字通り子供達を護り育む「子護弘法大師」として信仰されている。
「南無大師遍照金剛」を唱えながら、大師像の周りをまわる。
・子護大師付近の青もみじ
●本堂と多宝塔
本堂を正面に見ると、右手に大師堂があり、右側の山上に多宝塔が見える。また、本堂前方に、五智の井がある。
●本堂
・本尊
弘法大師作と伝えられる十一面観世音菩薩。
後白河法皇の病気治癒の伝説から、本尊は中風や頭痛平癒の観音といわれている。知恵授けでも名高い。
脇仏は、智証大師円珍作と伝えられる不動明王と、運慶作と伝えられる毘沙門天。
●ぼけ封じ、頭痛封じ、智恵授けの枕カバーを授与している
●本堂の屋根の留蓋瓦に置かれている玄武と仙人らしい像
※留蓋瓦とは
留蓋瓦は、隅蓋瓦や巴蓋瓦とも称し、もともとは隅部の接点から雨水が浸入するのを防ぐために据えられた、半球形(椀を伏せた形状)のものであったが、その後、意匠面での発展が見られ、獅子や玄武などの動物型、牡丹や菊などの植物型など、さまざまな形のものが現れた。
●三重石塔
本堂に向かって左手にある。平安時代の創建当時のものとされる。
●五智の井(五智水)
弘法大師が当山を開かれるときに錫杖をもって岩根をうがたれて湧き出した水が五智水と伝えられている。五智の井は、五智水が井戸水として湧き出している井戸。
●織部灯籠
●大師堂とぼけ封じ観音
●大師堂近くの石仏
●本堂背後の墓地にある、鎌倉時代後期のものとされる見事な石造宝塔
慈円僧正、藤原忠通、藤原長家の供養塔であると伝えられている。
●本堂背後の墓地にある、薩摩の島津義久の「逆修墓」と伝える大きな五輪塔
●鎮守社「稲荷社」「熊野権現社」
●鐘楼
●多宝塔(医聖堂)
本堂東側の山上にそびえ立つ高さ16mの平安様式の多宝塔で、医界に貢献した多くの方々がまつられている。
・参道
鐘楼横から五智水を経て、山上の医聖堂までの参道に、西国三十三所霊場の各御本尊を石仏として奉安し、「今熊野西国三十三所霊場」としてまつられている。
・ 多宝塔(医聖堂)
・多宝塔から、西山方面の展望
3 年中行事
●お砂踏法要 9月21日〜23日
今熊野観音寺は西国三十三所観音霊場の第十五番札所であり、ここに、四国霊場八十八ヵ所の全ての砂が敷き並べられ、遍路の行程を一日で巡ることができるとされる。
4 祈願絵馬
5 沿革
<説明板>
・泉涌寺の塔頭で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。西国三十三ヶ所観音霊場第十五番目の札所になっている。
・空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡年間(854〜857)左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したとも伝える。文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。
・伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後復興されて現在に至っている。
本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置。
・寺域は幽静で、郭公鳥の名所として昔から知られている。
・本堂背後の墓地には慈円僧正、藤原忠通、藤原長家の墓と称せられる見事な石造宝塔三基がある。
6 京都検定の出題歴
(1)平成16年度2級 【問】西国三十三箇所巡礼は、平安後期に僧侶の間で始まり、室町後期には一般にも普及した。次のうち札所寺院でないものはどれか。 (ア)長楽寺 (イ)今熊野観音寺 (ウ)清水寺 (エ)善峯寺 【正解】(ア)
(2)平成18年度2級
【問】9月、四国霊場八十八ヵ所の遍路を一度で巡るとされる今熊野観音寺の行事はどれか。 (ア)お練り供養法会 (イ)千日詣り (ウ)お砂踏法要 (エ)六斎念仏 【正解】(ウ)
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西国番外札所 山科の元慶寺
元慶寺は、山科の北花山の交差点のすぐそばにある天台宗の寺院で、本尊は薬師瑠璃光如来、西国三十三カ所番外札所となっています。
ここは、もとは、貞観10年(868)、百人一首で知られる僧正遍昭が建立した華山寺に始まると伝えられています。
また、西国三十三観音霊場の番外札所になっていることもあり、年間を通じて参詣者が絶えないところです。
境内に、「花山天皇落飾」と記された標石があります。
元慶寺は、寛和2年(986)に花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が皇位についたという経緯があり、その後、花山法皇は、余生を西国三十三所観音霊場の巡礼の復興に捧げることになる、そのきっかけとなった寺院で、当時の寺域は現在よりもはるかに広大でした。
ここはまた、京都の花名所の一つともいわれ、境内では四季折々にさまざまな花が咲き、参詣人の目を楽しませています。
1 場所↓
2 境内
住宅が建てこんだ参道をいていくと、つきあたりに山門(竜宮門)があります。
●入口と参道
●山門(竜宮門)
※竜宮門
竜宮門は、京都では、伏見の長建寺、深草の石峰寺、大原古知谷の阿弥陀寺、東山の法住寺、二条通沿いの善導寺、宇治の興聖寺などで見られます。
・屋根の上の鯱
●かつて山門に置かれていた梵天、帝釈天像
平安前期のもの。現在は、京都国立博物館寄託中。
●山門周辺のもみじ
●山門から見た境内
山門を入ると突き当りが納経所で、左側に本堂があります。
●本堂
遍昭作と伝える本尊の薬師如来のほか、阿弥陀仏(慈覚大師作)、毘沙門天(運慶作)、十一面観音を祀っています。
・菊の留蓋瓦
●『人皇六拾五代花山院法皇御落飾道場』と彫られた標石
寛和2年(986)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、その結果、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が皇位についたと伝えています。
●納経所
●僧正遍昭の歌碑
山門を入って左手奥にあります。
「天津風 雲のかよひち 吹きとちよ 乙女の姿 志はしととめむ」
( 天つ風 雲のかよひぢ 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ)
[意味]
天の風よ、天上と地上を結ぶ「雲の通い路」を吹き閉じておくれ。 この美しい天女の舞をもう少し見ていたいから。 この歌を作ったのは、出家前、宮中の五節会の舞姫を見て詠んだものといわれています。
※なお、少し離れたところに、僧正遍昭の墓があります。
●元慶寺再興の碑
元慶寺は貞観10年(868)に陽成天皇の誕生に際し、遍照(816〜90)が発願し藤原高子(清和天皇の后・陽成天皇実母)が創建した。その後衰微したが、安永8年(1779)に再興されたと伝えています。
この碑は元慶寺の沿革と再興の経緯を記したものです。
3 沿革
①遍昭僧正による創建
・遍昭僧正は桓武天皇の孫で、俗名は良岑宗貞といい、仁明天皇に仕えていたが、嘉祥3年(850)、天皇死去後、比叡山横川の円仁(慈覚大師)について出家、貞観11年(869)、この地に華山寺を創建したとされている。
・その後、元慶元年(877)には清和天皇の勅願寺となり、華山寺から元慶寺に名称を変更したと伝えられている。
②花山天皇の出家
・寛和2年(986)、花山天皇が皇位について2年後、最も寵愛していた後宮の女御祇子(ぎし)が懐妊中に死去し、悲しんでいたところ、藤原兼家、道兼父子が、その策略によって天皇を当寺に連れ込み、出家を促して退位させた。その結果、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が皇位につき、花山天皇は落飾して法皇となった。
・花山法皇は皇位復帰の道を断たれ、余生を西国三十三所観音霊場の巡礼の復興に捧げ、西国霊場の「中興の祖」とされた。
③元慶寺は、寺格も高く多くの寺領を持って栄えたが、応仁の乱により焼失し、その後衰微したが、安永8年(1779)に再興された。現在の建物は安永年間(1772-81)の再建といわれる。
4 西国三十三所観音霊場
近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
巡礼の道中に、開基である徳道上人や再興させた花山法王のゆかりの寺院が番外霊場として3か所含まれている。
●西国三十三所(京都市関係は下線)
10番 三室戸寺
↓
11番 上醍醐寺
↓
12番 岩間寺(正法寺)
↓
13番 石山寺
↓
14番 三井寺(園城寺)
↓
15番 今熊野観音寺
↓
16番 清水寺
↓
17番 六波羅蜜寺
↓
18番 頂法寺(六角堂)
↓
19番 行願寺(革堂)
↓
20番 善峯寺
●番外霊場
・元慶寺 西国三十三所観音巡礼を中興した花山法皇が落飾した寺。京都市。
・法起院 西国三十三所観音巡礼を最初に始めた徳道上人が晩年を過ごし、上人の廟がある。奈良県桜井市。
・花山院菩提寺 花山法皇が隠棲し余生を送り、入寂した寺。兵庫県三田市。
5 寺宝
花山法皇の木像および肖像画、遍昭の木像などのほか、梵天、帝釈天像(平安前期、京都国立博物館寄託)がある。
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六波羅蜜寺(西国17番札所)
・六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は、鴨川に架かる松原橋から東へ約400m進み、「六道の辻」と呼ばれる西福寺の角を南へ入ったところにあります。あたりには民家や商店が建ち並んでいて、ここは有名なお寺なのに、境内が狭く、窮屈に感じるところです。
六波羅蜜寺の創建の由来について、平安時代中期の天暦5年(951)、空也が造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称したと伝えています。
空也は疫病の蔓延する当時の京の都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったといわれています。
空也の死後、比叡山の僧・中信が中興して六波羅蜜寺と改称し、それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となりました。
平安時代末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、その後鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近とされています。
六波羅蜜寺は江戸時代までは大伽藍を連ねていましたが、明治初期の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小しました。現在、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、主な建物は本堂(南北朝時代、重文)と弁財天堂、宝物収蔵庫のみとなっています。
ここはまた、西国三十三所観音霊場17番札所として、年間を通じて多くの参拝客が訪れています。
1 場所↓
2 境内
●六波羅蜜寺とその前の通り
●本堂(南北朝時代、重文)
・扁額
・蛙股
今から650年ほど前、南北朝時代の貞治2年(1363)の再建とされている。
外陣を板敷きとし、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築といわれるもの。
●平清盛塚
●阿古屋塚
石造宝塔(鎌倉時代)で、その下の台は古墳時代の石棺の蓋を用いている。
・ 浄瑠璃、壇ノ浦兜軍記 三段目「阿古屋の琴責め」
平家の残党、悪七兵衛景清の行方をさがすため、想い人で五条坂に住む白拍子、阿古屋を捕え、代官、畠山重忠は、彼女が、景清の所在を心に秘めていることを知っていたが、弾かせた三味線、琴などの調べに一点の乱れのないことに感動し、彼女を釈放する。
●弁天社
古くから弁財天の祈願所と定められ、都七福神の一つ。
●石仏
3 仏像
<本尊と重文指定の仏像>
①本尊「木造十一面観音立像」(国宝)
本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏。
像高258cmの一木造。平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例として国宝に指定。
951年に空也が創建した西光寺の本尊像であり、空也上人の自刻と伝える。
②空也上人立像(重文)
鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。
疫病が蔓延していた京の街中を、空也が首から鉦を下げ、鉦を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ、わらじ履きで歩くさまを表現。空也の口からは「南無阿弥陀仏」の6字を象徴する6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。
③平清盛坐像(重文)
鎌倉時代。平清盛像とされる経を持った僧形の像。
④木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像
鎌倉時代。日本仏像彫刻史上最も有名な仏師親子の肖像彫刻。十輪院に伝わり、本尊の脇に祀られていた。
⑤木造地蔵菩薩坐像
鎌倉時代。伝来、作風等から運慶の真作とされる像で、運慶一族の菩提寺である十輪院に伝来。
※運慶一族の菩提寺「十輪院」
六波羅蜜寺のかつての境内は広大で、境内に十輪院という寺院があり、ここは運慶一族の菩提寺であった。木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像、木造地蔵菩薩坐像は十輪院に伝わってきたものとされている。
⑥木造四天王立像
平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作とされる。
⑦木造地蔵菩薩立像
平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像で定朝作と伝える。
⑧木造薬師如来坐像
平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。
⑨木造弘法大師坐像
鎌倉時代。快慶の弟子・長快の作。
⑩弘法大師像
鎌倉時代。長戒作。
4 年中行事
●大福茶、皇服茶
本来は、大福茶とは、若水(元旦の朝に初めて汲む水)で沸かした煎茶の中に結び昆布と小粒の梅干を入れたもの。その本来の大福茶は、1月1〜3日、六波羅蜜寺でいただくことができる。なお、六波羅蜜寺では、「皇服茶」と呼んでいる。
・起源:
平安時代、村上天皇の代に、京都に疫病が流行し、天皇も疫病にかかったが、六波羅蜜寺の観音のお告げにより、この寺の茶を飲んで平癒し、村上天皇が飲んだ茶ということで「皇服茶」「王服茶」といわれ、のちに「大服茶」となり、さらに福を招くに転じて「大福茶」となった、といわれている。
●萬灯会
8月8〜10日,16日
開白法要・大万灯点灯法要・送り万灯点灯法要がある。数多くの灯明を人形文字「大」の形に点灯し、先祖の精霊を迎え、追福の祈祷をする。
●空也踊躍念仏(国、重要無形民俗文化財)
12月13〜31日。かくれ念仏とも言われる。
期間中毎日、日暮れ時から念仏踊りが奉納される。天暦5年に京都で疫病が流行した際、空也上人がその救済を願って始めたのが起源と伝えられる。31日は非公開。
5 祈願絵馬
6 沿革
<説明板>
①天暦5年(951)、疫病平癒のため空也上人によって開創された真言宗智山派の寺院。空也により創建された西光寺を起源とする。
②西国三十三所観音霊場第17番札所として古くから信仰を集めている。
③本尊は空也上人の自刻と伝える十一面観音立像(国宝)
④空也上人について
・醍醐天皇の第二皇子。六斎念仏の始祖。「市の聖」と呼ばれた。 ・ゆかりの皇服茶、空也踊躍念仏が今に伝わる。 ⑤往時の寺域
・平清盛ら平家一門の屋敷(六波羅殿)が営まれた。 ・鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれた。 ⑥明治の廃仏毀釈の影響により、大幅に寺域を縮小。
⑦都七福神の一つ、弁財天をまつっている。
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三室戸寺と蓮の花
<三室戸寺>
三室戸寺は京阪宇治線 の三室戸駅 から東へ約1.5kmの山際にあります。
ここは、初夏のツツジや梅雨時の紫陽花、夏の蓮、秋の秋明菊や紅葉など、四季折々に訪れる楽しみがあるところで、先日訪れた時は、本堂の前に並べられた沢山の鉢に蓮の花が見事に咲き誇っていました。
2 蓮の花のようす
3 三室戸寺の縁起
拝観料を払った際にいただいた案内書には、次のように書いてありました。
・当山は西国三十三所観音霊場第十番札所で、本山修験宗の別格本山です。
・約1200年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観世音菩薩をご本尊として創建されました。
・開創以来、天皇・貴族の崇敬を集め、堂塔がらんが整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わいました。
・宝蔵庫には、平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されています。
・現在の本堂は、約180年前(文化2年)に建立された重層入母屋造の重厚な建築で、その背後には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼・三重塔があります。
なお、創建については、南都大安寺の僧行表が千手観音を本尊として創建したとされ、その後火災などを原因とする幾度もの移転を経て、文明年間(1469年〜1486年)に今の所在地に再建されました。
4 夏の日の境内
(1)山門
(2)長い石段
(3)本堂(府文化財)
文化2年(1805)に再建された重層入母屋造の重厚な建物。
秘仏の金銅千手観音立像を安置。
(4)阿弥陀堂
(5)三重塔
元禄17年(1704)建立の全高16mの三重塔。もとは播磨国三日月町の高蔵寺にあったものを、明治43年(1910)に当寺が買い取って、移設したもの。
(6)鐘楼
(7)十八神社本殿(重文)
三間社流造、長享元年(1487)建立。
(8)芭蕉句碑
「山吹や宇治の焙炉(ほいろ)のにほふ時」
(9)『源氏物語』の宇治十帖の「浮舟」にちなむ石碑
もとは浮舟社という社であったが、江戸時代に石碑に改められた。
(10)宝勝牛と手形
①勝運祈願の宝勝牛(牛玉)
②運勝祈願の手形 横綱貴乃花・若乃花
5 絵馬とお守り
①びんずる絵馬
②足腰健全・身体健勝ぞうり
6 庭園
近年5000坪もの広大な庭園が整備され、ここには枯山水・池泉・広庭があ り、5月は2万株のツツジ、1千本のシャクナゲ、6月は1万株のアジサイ、7
月はハス、さらに秋は紅葉の名所として、年間を通じて多くの参拝者、観光客
が訪れる。
7 西国三十三箇所観音霊場
九番 興福寺 ↓ 十番 三室戸寺 ↓ 十一番 上醍醐寺 8 京都検定の出題歴
(1)平成19年度1級 【問】平成20年(2008)は、西国三十三所巡礼を中興したといわれる花山法皇の一千年遠忌に当たり、同20年から22年にかけて、すべての札所の本尊が開帳される予定である。33の札所のうち、京都府内の札所(寺院名)を5つ書きなさい。 ◆参考:京都府内の札所(12箇所)
三室戸寺、上醍醐寺、観音寺(今熊野観音寺)、清水寺、六波羅蜜寺、頂法寺(六角堂)、行願寺(革堂)、善峯寺、穴太寺、成相寺、松尾寺、元慶寺 (2)平成19年度2級
【問】西国三十三箇所観音霊場の第十番札所で、「源氏物語」の「浮舟之古蹟」の碑が立つ寺院はどこか。 (ア)平等院 (イ)三室戸寺 (ウ)放生院 (エ)興聖寺 【正解】(イ)
9 練習問題
(1)( 1 )の別格本山。山号:明星山。 (2)西国観音霊場第( 2 )番札所。
(3)約1200年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、千手観音を本尊として創建。
(4)本堂:文化2年に建立。重層入母屋造。
(5)仏像:平安の昔を偲ぶ5体の仏像が重文に指定。
(6)『源氏物語』の宇治十帖の( 3 )にちなむ石碑。
(7)大庭園
5千坪。5月のツツジ(2万株)6月のアジサイ(1万株)7月のハス・秋の紅葉など。 【正解】
1 本山修験宗 2 十 3 浮舟 |







