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滋賀県湖南市の美松山の「うつくし松」
湖南市の南西に、美松山という山があります。
この山の南東斜面一帯に、一本の根から枝が複数に分かれた珍しい形の松が群生しています。
地表近くで枝が放射線状に分かれた、笠や扇のような珍しい樹形をしていることから、地元の人はいつからか「うつくし松」と呼ぶようになりました。
現在、大小約200本以上が群生し、中には樹齢300年以上、高さ約12.7mになるものもあるといい、国の天然記念物に指定されています。
美松山という名前も、この松が群生していることに由来しています。
この自生地は旧東海道に近く、江戸時代中期に刊行された「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」にも描かれており、東海道五十三次沿いの名所として古来より松の名所として知られていました。
1 場所↓
2 うつくし松
・説明板
・天然記念物指定の標石
・松のようす
この珍しい形の「うつくし松」は一見の価値があります。
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滋賀
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晩秋の逢坂山関址から蝉丸神社へ
京阪京津線の大谷駅の東、大津市大谷町の国道1号線沿いに、「逢坂山関址」という碑と「逢坂常夜灯」と刻まれた石灯籠があります。
1 逢坂山関址(「逢坂山関址」石碑と「逢坂常夜灯」)
常夜燈は寛政6年の建立。
・案内図
なお、このあたりは江戸時代までは、逢坂峠という、大津と京の間を結ぶ東海道の要衝でもありました。
・逢坂山の関址の石碑前から見た国道1号線京都方向
②逢坂峠と大津の繁栄、車石
江戸時代、京と大津を結ぶ東海道は、大津港で陸揚げされた米俵をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用され、大津は物資の集散する京の玄関口として大いに繁栄しました。 ・賑わう大津宿のようす
大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、いずれも通行の難所であり、また、京と大津の間にある逢坂峠は、東海道の中でも要衝の地として重視されていました。
そこで、物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないよう、文化元年(1804)から翌2年にかけて、これらの峠を中心に、前後10kmほどの間に、牛車専用通路として、車のわだちを刻んだ花崗岩の切石(車石)を敷設する工事が行われました。「車石」は、今も旧東海道沿いの各地に保存されています。
なお、車石の敷設については、京の心学者、脇坂義堂が一万両の私財を投じて作らせたとも言われていますが、確証はないようです。
2 蝉丸神社
蝉丸神社は、逢坂山関址から西に旧東海道を約200m歩いたところの山腹にあります。
現在の社殿は、万治3年(1660)の建立で、そのときに街道の守護神として猿田彦命と豊玉姫命を合祀したとされています。
ここは、かつて賑わっていた東海道の逢坂の関跡の石碑から近くにあり、境内には、江戸時代に逢坂峠に敷設されていた「車石」の一部が保存、展示されています。
なお、蝉丸は平安時代中期の歌人であり琵琶の名手で、後に音曲の芸道の祖神として信仰されました。
蝉丸をまつる神社は、この蝉丸神社のほかに、逢坂一丁目の国道1号沿いに関蝉丸神社上社、国道161号沿いに関蝉丸神社下社があり、合計三社があり、蝉丸神社は、関蝉丸神社の分社とされています。
・蝉丸神社と関蝉丸神社上社・下社について
2 境内
蝉丸神社は旧東海道に面しており、石段を上った高台に社殿があります。
・旧東海道に面した神社の入口
●石段下のようす
石段下は境内の一部らしく、庭園にあるような石や手水鉢などがあり、ここから、社殿のある高台に向かって昔ながらの古びた石段もあります。
ここには、かつて旧東海道に敷設されていた「車石」の一部が保存・展示されています。
①車石
②水準点
③社殿に向かう石段
●石段上のようす
石段を登り鳥居をくぐると平坦になっていて、ここに舞殿、その奥に本殿がある、という形は上・下社と同じ。 境内は森閑としており、社殿も古めかしくて時代を感じさせる。
①手水舎
②舞殿
・中門・本殿
現在の社殿は、万治3年(1660)の建立で、そのときに街道の守護神として猿田彦命と豊玉姫命を合祀したとされています。
・社殿前の石灯籠「蝉丸宮」の文字
・かつての車石
3 沿革
<境内にある説明板>
次のように書かれています。
・蝉丸神社は天慶9年(946)、蝉丸を主神として創建。
・蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ、音曲芸道の祖神として、平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものであった。
・その後、万治3年(1660)、現在の社殿が建立され、街道の守護神として猿田彦命と豊玉姫命を合祀した。
「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」
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関蝉丸神社上社の晩秋の境内
関蝉丸神社は、上社(旧称関大明神蝉丸宮)と下社(旧称関清水大明神蝉丸宮)からなります。
神社の由来は、弘仁13年(822年)に、旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるとされ、上社は、別名、関大明神蝉丸宮とも呼ばれています。
平安時代中期には琵琶法師・歌人である蝉丸が逢坂山に住み、その没後上社と下社に祀られるようになり、以降、歌舞音曲の神として信仰されるようになったそうです。
関蝉丸神社上社は逢坂峠の頂上付近に当たり、交通量の激しい国道1号線に面したところにあります。すぐ目の前には名神高速の高架橋が見えます。
なお、大谷駅近くにある蝉丸神社は当神社の分社とされており、ここ、関蝉丸神社上社と下社(関清水大明神蝉丸宮)と三社を併せて蝉丸神社と総称することもあります。
晩秋の境内は、社殿背後の紅葉がきれいでした。
2 江戸時代の図会に見る関蝉丸神社上社
「関大明神蝉丸宮」とあります。
東海道の街道筋に、現在と同じように石段が伸びて、舞殿、さらに本堂へと続いています。常夜燈や灯籠の位置も現在と変わりません。
都名所図会などはインターネットで見ることができ、これを印刷して、現地にもっていって比べながら歩いてみるというのも、とても面白いものです。
3 境内
かつては東海道に面していましたが、いまでは交通量の多い国道に面しており、長い石段を上がると平坦になっており、ここに舞殿があります。また、舞殿からさらに石段を上がると本殿があります。
①社殿への石段下にある常夜燈と標石
・常夜燈の年号
『天明8年(1788)戊甲九月吉日 下片原町』とある。
かつて東海道を歩く旅人たちが眺めたのと同じもの。
②石段から見た常夜燈と国道と名神高速の高架橋
③石段と舞殿
④舞殿
紅葉はピークを過ぎ、初冬の風情がありました。
・本殿への石段から見た舞殿
⑤本殿
・舞殿の脇から見た本殿
・舞殿から本殿への石段
・本殿と石灯籠
⑥本殿前の石灯籠
⑦狛犬
⑤手水舎
⑥祈願絵馬
3 沿革
社伝によると、関蝉丸神社の上社と下社は、平安時代、嵯峨天皇(在位809〜23)のときに猿田彦・豊玉姫をまつり、円融天皇(在位969〜984)の代に蝉丸を合祀したとされています。 |
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関蝉丸神社下社の晩秋の境内
・説明板
関蝉丸神社は、上社(旧称・関大明神蝉丸宮)と下社(旧称・関清水大明神蝉丸宮)からなります。
神社の由来は、弘仁13年(822)に、旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるとされ、下社は、「関清水大明神蝉丸宮」とも呼ばれています。
平安時代中期には、盲目の琵琶の名手で歌人でもあった蝉丸が逢坂山に住み、その没後上社と下社に祀られるようになり、以降、歌舞音曲の神として信仰されるようになったそうです。
晩秋の境内は他に参拝客もなく、一部残った紅葉と散り紅葉が風情があり、社殿の脇の小道を、落ち葉を踏みしめて訪れた小町塚は、とても印象に残りました。
関蝉丸神社下社は国道161号沿いに入口があり、京阪京津線の線路の踏切を渡って境内に入る。
2 境内
①神社入口に立つ標石
②石灯籠の「関清水大明神」の文字
③参道と舞殿
④「関の清水」
⑤紀貫之の歌碑
今や引くらん 望月の駒」
⑥蝉丸の歌碑
しるもしらぬも あふ(逢)坂の関」 『後撰集』
蝉丸は平安時代の琵琶の名手で、今昔物語や謡曲「蝉丸」によると、目が不自由であったにもかかわらず、音曲の神として信仰された。
⑦拝殿・本殿
・舞殿から見た拝殿・本殿
・全景
・拝殿
⑧狛犬
⑨貴船神社
下社には、境内社として、貴船神社・中臣稲荷神社・大神宮神社・関清水神社・天満宮などがある。
⑩時雨灯籠(重文)
⑪小町塚
晩年の小町は逢坂山の関寺近くに隠居されたという伝承がある。
⑫さねかずら
境内に植えられている。
もくれん科さねかずら属で、美男葛とも書く。美男の名は昔、男性の髪をこの樹液で洗った事によるものという。
「名にし負(お)はば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな」 三条右大臣 3 由緒
社殿の脇に、謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社についての説明版がある。
<説明板>
・幼少から盲目の延喜帝第四皇子の蝉丸の宮を、帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。
・この世で前世の罪業の償いをすることが未来への扶けになるものと、あきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
・一方、延喜帝の第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果てまで歩きまわる狂人となって、逢坂山まで来てしまった。
・美しい琵琶の音にひかれて偶然にも弟の宮蝉丸と再開し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、姉宮は心を残しながら別れて行く、という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
・蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。
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名水「走井」と月心寺
京阪電鉄京津線 の大谷駅 から国道1号線に沿って西へ、300mほどのところに、「月心寺 走井」と書かれた風雅な軒行灯のある門があります。
※場所↓
・大谷駅
・大谷駅付近の国道1号線と京阪電鉄京津線
・月心寺の門
・軒行灯
ここは、今では寺院や庭園よりも庵主の村瀬明道尼が作る精進料理がとても定評があり、グルメスポットとして有名になっており、食事の予約をしていないと門の中に入ることさえ気が引けるようなところです。
そんな月心寺ですが、歴史をさかのぼってみると、もともとこのあたりは大津追分といい、かつては逢坂山の関を控える東海道に沿って両わきに大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店や茶店がひしめき、とても賑わっていたと伝えられています。
また、この月心寺の地にはかつて東海道筋の茶店があり、ここには古くから和歌にも詠まれた東海道筋の名水「走井」があり、この名水を使って走井餅を作り、その餅が非常に美味で旅人の土産として人気があり、茶店は明治時代末頃まで繁盛していたようです。
歌川広重が描いた東海道五十三次の中で描かれた大津の錦絵には、溢れ出る走井の水のそばの茶店で旅人が休んでいる姿が見られます。
しかし、明治になると国道1号線の拡張や東海道本線の開通により町がすたれ、茶店も八幡へ移ったあと本家は廃業し朽ち果てていたのを、日本画家の橋本関雪が、このまま朽ちるのを惜しみ、大正3年に自らの別邸として購入し、没後、月心寺となり、現在に至っています。
門をくぐると、苔むした「走井」の井戸があります。
・「走井」の井戸
・石灯籠
<月心寺の建物と庭園>
建物の奥には室町時代の相阿弥の作と伝わる池泉回遊式庭園が広がっている。庭の一角には、小野小町百歳像を安置した百歳堂や松尾芭蕉の「大津絵の筆のはじめは何仏」という句碑があるという。
国道沿いに月心寺の建物や建物越しに庭園の一部を見ることができ、11月末に訪れた時には、紅葉がきれいでした。
<走井餅の茶店のその後について>
やわた走井餅老舗のホームページには、次のように書かれている。
・創業は、明和元年(1764)、大津追分の地で走井の名水を用いて、井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まる。
・形は、三條小鍛治宗近が走井の名水で名剣を鍛えたという故事にちなみ、刀の荒身を表している。
・明治43年、六代井口市郎右衛門の四男・嘉四郎によって、京都・やわたの地に引き継がれた。昭和初期、本家は廃業し、その跡は現在の月心寺である。
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