京都検定合格を目指す京都案内

京都検定、がんばってください。ココロ京都、京都好きYahooブログもよろしく

滋賀

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
膳所(ぜぜ)城跡と琵琶湖の景色
 
 
近江大橋の西詰、すぐ南側に突き出たところに膳所城跡公園があります。
 
膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の翌年に、藤堂高虎に最初に造らせた城で、城構えは、湖水を利用して天然の堀をめぐらせた水城でした。
 
 城主は初代には大津城に引き続き、戸田一西が就き、次いで・本多・菅沼・石川と変わった後、慶安4年(1651)に本多俊次が藩主となり、幕末まで本多氏13代が続きました。
 
明治維新で廃城になり、天守以下の建物の解体・移築が行われました。
 
本丸跡には石垣がわずかに残り、「膳所城跡公園」として整備され、かつての城門は膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に移築、現存し、それぞれ国の重要文化財に指定されています。
 
 
1 場所↓
 
 
2 膳所城跡のようす
①膳所城跡公園入口の模擬城門
イメージ 1
 
イメージ 2
 
 
②城跡の碑
イメージ 13
 
イメージ 18
 
 
③公園として整備された城跡のようす
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
 
イメージ 23
 
 
④天守台跡の石碑
イメージ 24
 
 
⑤三角点
イメージ 3
 
 
⑥歌碑
イメージ 4
 
イメージ 5
 
 
⑦松尾芭蕉句碑
「湖や 暑さを惜しむ 雲の峰」
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
元禄7年6月、膳所義仲寺の無名庵に滞在していた時の句。
 
 
⑧膳所城跡のある膳所崎
イメージ 9
 
イメージ 10
 
 
⑨城跡から見た近江大橋と湖東方面の光景
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 14
 
 
⑩湖畔のゴイサギ
イメージ 15
 
 
⑪外来魚回収箱、回収袋
イメージ 16
 
イメージ 17
 
<琵琶湖ルール>
「滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」
この中で、4つの主要な取り決めがある。
①プレジャーボートの航行範囲の制限
②プレジャーボートに搭載するエンジンの種類の制限
レジャー活動で釣った外来魚(ブラックバスとブルーギル)の再放流の禁止
 
 
3 膳所城の沿革
・慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌、慶長6年(1601)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせた。
 
・縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎に計画させた。
 
・城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城であり、かつては日本三大湖城の一つに数えられ、また大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つであるといわれた。
 
・家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われる。
 
・築城された年に大津城主戸田一西を3万石で入城させここに膳所藩が成立した。以後、譜代大名の居城となった。その子の氏鉄は元和3年(1617)に摂津国尼崎藩に転封となった。
 
・代わって本多康俊が三河国西尾藩より入城。その子、俊次は元和7年(1621)、再び西尾へ転封となった。
 
・代わって、伊勢国長島藩より菅沼定芳が入城し寛永11年(1634)丹波国亀山藩に転出。下総国佐倉藩より石川忠総が入城、子の憲之は慶安4年(1651)に伊勢国亀山藩に転封となった。
 
・石川氏の後は再び西尾藩より本多俊次が7万石で入り、13220年の間、本多氏の居城となり明治維新を迎えた。
 
・なお、膳所城の水面に映える美観は「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていた。
 
・現在は完全に陸続きとなった本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣がわずかに残っているほか、門が模擬再建されている。城門は膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されている。
 
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
高島市にある大溝城跡と藩主分部氏の菩提寺・光禅寺
 
 
JR湖西線近江高島駅の東口駅前に高島総合病院があります。この病院の奥に駐車場があり、駐車場から病院の敷地を出て林の中を歩いて行くと、病院の敷地に隣接するように大溝城跡の石垣が見えてきます。
 
大溝城の初代城主には、織田信長の甥である信澄が任ぜられ、信澄は城下の開発や発展に尽力しましたが、光秀の娘婿でもあった信澄は、本能寺の変後に謀反の疑いをかけられ、信長の三男の信孝らによって自害に追い込まれました。
 
元和元年(1615)、一国一城令により大溝城は廃城になりましたが、元和5年(1619)、分部光信が伊賀上野から移封され、大溝藩を立てて藩主になると、三ノ丸付近に屋敷を構え、分部氏は明治維新まで11代にわたり藩主を務めました。
 
近江高島駅の北西約500mの山あいにある大溝藩藩主の菩提寺の臨済宗東福寺派の圓光禅寺には、歴代藩主や奥方等関係者の墓があり、滋賀県指定史跡になっています。
 
 
1 場所↓
 
 
2 大溝城跡のようす
・本丸跡の石垣
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 13
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
・天守台跡
イメージ 18
 
イメージ 19
 
イメージ 20
 
・天守台跡から見た乙女ヶ池
イメージ 21
   
 
3 沿革
イメージ 22
大溝城は、安土城が築かれたのと同時期に明智光秀の縄張りにより築城したもので、本丸の南東にある乙女ヶ池という琵琶湖の内湖を巧みに利用した水城でした。別名「鴻湖(こうこ)城」とも呼ばれていました。
 
初代城主には、信長の甥である信澄が任ぜられ、信澄は城下の開発や発展に尽力するとともに、信長の側近として、遊撃軍団の一つとして活躍しましたが、光秀の娘婿でもあった信澄は、本能寺の変後に謀反の疑いをかけられ、信長の三男の信孝らによって自害に追い込まれました。
 
元和元年(1615)、一国一城令により大溝城は廃城になりましたが、元和5年(1619)、分部光信が伊賀上野から移封され、大溝藩を立てて藩主になると、三ノ丸付近に屋敷を構え、明治維新までこの地を治めました。
 
 
※なお、分部氏の屋敷(陣屋)の遺構とされる長屋門が近くの民家に移築されているそうです。
 
 
4 圓光禅寺と大溝藩分部家墓所
①場所↓
 
②圓光禅寺
・山門
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
・山門内と鐘楼
イメージ 6
 
<分部家墓所>
・説明板
イメージ 7
 
イメージ 8
 
・整然と立ち並ぶ五輪塔
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
 整然と墓石が建ち並んでいます。
 
 このすぐ近くに、瑞雪禅院があります。
多賀大社と名物「糸切餅」
 
 
多賀大社は滋賀県犬上郡多賀町にあります。
 
祭神として天照大神の両親の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀り、延命長寿・縁結びの神として古くから全国的な信仰を集めてきました。
 
 ここでは、
・豊臣秀吉の厚い信仰から「太閤橋」と名付けられたそり橋があること
・東大寺再建を成し遂げた俊乗坊重源ゆかりの石「寿命石」があること
・「お多賀杓子」という「寿」の焼印をつけた杓子形の板が無病息災のお守りとして授けられ、これが「おたまじゃくし」の語源となったこと
・門前のお店で、名物の「糸切餅」が売られていること
など、忘れずに見ておきたいものの多いところです。
 
この日は時間がなくて奥書院庭園は見てこなかったのですが、11月はじめの境内は、イチョウの葉が色づき、菊花展が行われていました。
 
   
1 場所↓
 
 
2 門前の様子
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 13
神社までの参道の両わきや門前には、多賀名物の「糸切餅」などを扱うお店などが並んでいる。
 
<糸切餅>
イメージ 24
 
イメージ 30
 
・由来
糸切餅の三本の線は蒙古軍の旗印です。社人あだ船の旗印を作って、これをたち切り調伏の祈りを込めてお社のほとりに埋納いたしました船塚はそのあとといわれています。
里人これにならい餅に青・赤を上下に三筋にいろどり、敵の旗になぞらえ、弓づるでこれを切って神前にお供えしたのが始まりと伝えています。
 (門前の莚寿堂本舗のチラシから転載)
 
なお、糸切餅の名前は三味線の糸で餅を切っていく作り方に由来するもので、これは刃物を使わず悪霊を断ち切る、即ち平和を意味しているのだともいう。
   
 
3 境内のようす
<案内図>
イメージ 31
 
①入口
イメージ 32
 
 
②そり橋
境内の入口にある「太閤橋」とも呼ばれる石のそり橋。正式名は「太鼓橋」。
大僧正慈性により寛永15年(1638)に造営。
イメージ 33
 
イメージ 34
 
イメージ 35
 
・説明板
イメージ 3
 
 
③神門から社殿へ
・神門から見た社殿
イメージ 4
 
④手水舎
イメージ 5
 
⑤神馬舎
イメージ 6
 
⑥能舞台
イメージ 7
 
⑦社殿
社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたもの。
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
 
⑧俊乗坊重源ゆかりの「寿命石」と祈願の白石
東廻廊の横にある。61歳の重源が東大寺を再建するために延命を祈願し、無事叶い、東大寺を再建。このときの霊験を得た際のゆかりの石といわれる。
イメージ 14
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
・祈願の白石
イメージ 17
 
(伝説)
鎌倉時代の初頭、61歳の俊乗坊重源が、東大寺再建にあたり成就祈願のため伊勢神宮にて17日間の参籠を行ったところ、夢の中に天照大神が現れ、「事業を成功させるために寿命を延ばしたいのなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。
 
重源が取り急ぎ多賀社に参拝すると、眼の前にひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、すなわちこれは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。
 
神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続け、見事、東大寺の再建を成し遂げた。
 
全てを終えた重源は報恩謝徳のため当社に赴き、そうして、境内の石に座り込むとそのまま眠るように亡くなったと伝えられる。「寿命石」の名で呼ばれる石が、その石であるという。
(フリー百科事典「ウィキペディア」参照)
 
 
4 お多賀杓子と杓子絵馬
「お多賀杓子(お-たが-じゃくし)」と称し、お守りとして杓子を授ける慣わしがある。 これは「お玉杓子」や「おたまじゃくし」の名の由来とされている。
イメージ 18
 
・杓子絵馬
イメージ 19
 
イメージ 20
 
 
5 菊花展のようす
イメージ 21
 
イメージ 22
 
イメージ 23
 
イメージ 25
 
イメージ 26
 
イメージ 27
 
イメージ 28
 
 
6 沿革
イメージ 29
 
①俗謡
「お伊勢参らばお多賀へ参れお伊勢お多賀の子でござる」
 
「お伊勢七度熊野へ三度お多賀さまへは月参り」
 
 多賀大社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で大いに賑わった。「お多賀の子」とは、伊勢神宮の祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の子であるという神話を歌詞に映したもの。
 
 
②豊臣秀吉と多賀大社
 天正16年(1588)、日頃から多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、それが成就したとして社殿改修を行うとともに大名に与えるに等しい1万石を寄進した。
 こうした秀吉との縁があることもあり、境内の正面にある石造りの太鼓橋は「太閤橋」とも呼ばれている。
 
 
③社殿の焼失と再建
・元和元年(1615)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633)、将軍・徳川家光の命による再建が始まり、5年後に完成した。
 
・明和3年(1766)には屋根の葺き替え等の大改修を行ったが、安永2年(1773)、天明2年(1782)にも火災に遭った。寛政3年(1791)には暴風で社殿が倒壊した。
 
④「多賀神社」から「多賀大社」へ
・昭和22年、旧来の「多賀神社」から「多賀大社」に改称した。
 
 
湖東三山、金剛輪寺(参道から二天門、本堂大悲閣、三重塔へ)
 
 
西明寺、百済寺とともに湖東三山の一つとされる金剛輪寺は、鈴鹿山脈の西山腹、愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院です。
 
前回に引き続き、11月初めの境内の様子を撮影した写真をもとに、まとめてみます。
 
 
1 場所↓
 
 
金剛輪寺は、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開山したと伝えられており、地名から松尾寺ともいわれています
 
本尊は行基が自ら彫ったと伝える聖観世音菩薩で、「生身の観音」と呼ばれています。
 
 駐車場に面して「聖観音」と書かれた大きな提灯がさがる山門があり、ここから本堂のある山腹に向けて参道の坂道が続きます。
 
 
2 境内のようす
 
①山門
イメージ 1
 
イメージ 2
 
 
境内案内図
イメージ 13
 
山門を入り、両側に苔むした石垣の続く参道を進むと、正面に谷堂というお堂があり、この前を左に折れると、再び山腹に向かって長い参道が続く。
 
③参道と谷堂
イメージ 24
かつてはこの参道に沿って多くの僧坊が建ち並んでいたという。
 
 
参道の途中、左手に本坊の明寿院がある。
 
④本坊明寿院
イメージ 26
 
 
⑤明寿院の名勝庭園
イメージ 27
本坊明寿院の南・東・北の三方を囲むように作庭された年代がそれぞれ異なる池泉回遊・鑑賞式の庭園があり、国の名勝に指定。
 
本坊の明寿院から参道に戻り、両側に千体地蔵の並ぶ長い参道を上がっていくと、織田信長の焼き打ちを免れた二天門(重文)、本堂大悲閣(国宝)、三重塔(重文)がある。
 
 
⑥千体地蔵の並ぶ参道
イメージ 28
 
イメージ 29
 
 
二天門(重文)
本堂前にある。室町末期の建築。当初は楼門(2階建て門)だったが、江戸時代に二階部分が取り払われ現在の形になった。
イメージ 30
 
イメージ 31
 
大きなわらじが下げられているのは、七難即滅を願うものという。
 
 
本堂大悲閣(国宝)
入母屋造、檜皮葺の和様仏堂で、中世天台仏堂の代表作として国宝に指定。須弥壇の金具に弘安11年(1288)の銘があり、堂自体もそのころの建築といわれる。本尊を安置する厨子も本堂の「附」(つけたり)として国宝に指定。
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
・扁額「大悲閣」
イメージ 7
 
・紅葉
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
 
⑨三重塔(重文)
本堂の左(北)の一段高い場所に建つ。寺伝では鎌倉時代の寛元4年(1246)の建立と伝える。織田信長の焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃していた。現状の塔は1975年から1978年にかけて復元されたもの。
イメージ 11
 
・紅葉
イメージ 12
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
・内部に安置されている大日如来像
イメージ 18
 
 
⑩鐘楼
イメージ 19
 
 
⑪手水
イメージ 20
 
 
⑫色づき始めた紅葉
イメージ 21
 
 
⑬まだ咲いていた秋明菊
イメージ 22
 
イメージ 23
 
 
⑭豆之木茶屋
イメージ 25
 
 
3 本尊「聖観世音菩薩」(秘仏、天平期)
 行基の作と伝えられている。
 
(伝説)
奈良時代の高僧、行基菩薩が拝みながら彫刀を進めると、やがて木肌から一筋の血が流れ落ちた。この時点で観音様に魂が宿ったとして、菩薩は直ちにその彫刀を折り、粗彫りのまま本尊として安置した。後の世に「生身の観音さま」と信心されている。(拝観時にいただくパンフレットより)
   
 
4 「豆の木太鼓」の伝説
 本堂に置かれており、説明書きもある。
 
(伝説)
 「庫裏の床掃除をしていた小僧たちがとってあったそら豆を和尚に内緒で食べてしまった。和尚に怒られた小僧が隅に一粒だけ残っていた豆を畑で大事に育てると、豆の木はどんどん育って一抱えもある大木になる。この木を胴にして太鼓を作ったという。」
  
 
5 沿革
・奈良時代の僧・行基の開創と伝える。
 
・その後、平安時代前期の嘉承年間(848851年)には天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。
 
・平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残り、現存する本堂は、弘安11年(1288)、近江守護佐々木頼綱の寄進を得て建てられたもので、この頃の金剛輪寺はかなりの規模をもっていたと思われる。
 
・天正元年(1573)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。
 
・当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
 
(以上、フリー百科事典「ウィキペディア」参照)
 
なお、源義経が義仲追討の武運必勝を願い、太刀を寄進したり、北条時宗が笹木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたとも伝えられている。
湖東三山の金剛輪寺と本坊明寿院の名勝庭園
 
 
金剛輪寺は、鈴鹿山脈の西山腹、愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院です。
 
山号は松峯山。地名から松尾寺ともいわれ、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開山したと伝えられています
 
金剛輪寺はまた、西明寺、百済寺とともに湖東三山の一つに数えられ、四季折々、参拝者が訪れています。
 
山門を入ると左に愛荘町立歴史文化博物館があり、さらに両側に苔むした石垣の続く参道を進むと左に本坊の明寿院があります。
 
本坊明寿院の南・東・北の三方を囲むように作庭された年代がそれぞれ異なる池泉回遊・鑑賞式の庭園があり、国の名勝に指定されています。
 
今回は今月初めに撮影した庭園の写真を中心にまとめてみました。
 
なお、参道はさらに続き、両側に千体地蔵の並ぶ長い参道を上がっていくと、織田信長の焼き打ちを免れた二天門(重文)、本堂大悲閣(国宝)、三重塔(重文)がありますが、そのようすは次回、アップします。
 
 
1 場所(本坊明寿院)↓
 
・金剛輪寺周辺案内図
イメージ 1
 
 金剛輪寺は湖東三山の真ん中にある。
 
 
2 境内のようす
①山門
イメージ 2
 
イメージ 12
 
 
②境内案内図
イメージ 23
 長い参道が続く。
 
 
③参道を谷堂へ
イメージ 25
 
イメージ 26
 
イメージ 27
 
イメージ 28
 
 
④本坊明寿院
・入口
イメージ 29
 
・明寿院
イメージ 30
 
イメージ 3
明寿院は、江戸時代の創建といわれ、多くの寺宝を保存しているが、近年の火災で書院、玄関、庫裏が焼失し、現在の建物はその後の再建という。なお護摩堂(正徳元年・1711年建築)と茶室水雲閣(安政年間建築)は火災を免れたもの。
 
 
⑤名勝庭園
桃山時代から江戸時代にかけて作庭された、年代がそれぞれ異なる3つの池泉回遊・鑑賞式庭園がある。
 
   
桃山時代に造られた庭>
 
「石楠花の庭とも呼ばれ、庭の中央に架けられた優雅な石橋がある。
イメージ 4
 
イメージ 5
   護摩堂が見える。 
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
・護摩堂
イメージ 8
 
茶室水雲閣
イメージ 9
 
 
<江戸初期の庭>
金剛輪寺の主庭。枯れ滝が配されている。 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 13
 
・つわぶき
イメージ 14
 
・藤袴
イメージ 15
 
・りんどう
イメージ 16
 
・つわぶきの花
イメージ 17
 
イメージ 18
 
 
<江戸中期の庭>
池の中に岩でできた舟が配されている。七福神の宝船を表わすものという。
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
 
イメージ 24
 

.
みやこ鳥
みやこ鳥
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事