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近江八幡市の宮ヶ浜と沖島
近江八幡の市街地の北側に琵琶湖に面して姨綺耶(いきや)山があります。この山には西国31番札所の長命寺がありますが、姨綺耶山の北側、琵琶湖畔をめぐって車を走らせると、やがて、琵琶湖に浮かぶ沖島が見えてきます。
沖島への渡船の港である堀切港の近くに国民休暇村近江八幡があり、そのすぐ前に宮ヶ浜があります。
ここは、地元では水泳場としても知られていますが、季節はずれの湖岸に人の気配もなく、正面に沖島がよく見えていました。
1 宮ヶ浜の場所↓
2 宮ヶ浜からの景観
・沖島
正面に見える。
・宮ヶ浜から続く湖岸の景観
3 沖島について
近江八幡市から琵琶湖の沖合約1.5㎞に浮かぶ沖島は、周囲約6.8㎞、面積約1.53k㎡で琵琶湖最大の島です。
近江八幡市沖島町に属し、約400人の人が居住し、市立小学校や郵便局なども設置されています。淡水湖に浮かぶ島に人が住んでいるという例は世界的にも少なく日本では唯一この島だけです。なお、市内への交通手段は船で、定期船が1日11便運行されています。
なお、沖島は、地元では「おきのしま」と呼んでいます。
4 沖島と関所
フリー百科事典「ウィキペディア」によると、戦国時代にはここに琵琶湖水運の重要拠点として関所が設置され、ここを通過する船は陸上の関所と同様に関銭を徴収される代わりに沖島の住民によって航行の安全が保証されていたそうです。
また、この島の関所は当初は六角氏の影響下にありましたが、後に本願寺系の自治都市堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が特に許され、豊臣政権下の天正13年(1585)頃まで存在していたようです。
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滋賀
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大津の長等神社と平忠度の歌碑
長等神社は、西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所である三井寺の観音堂への入口近くにあります。
長等神社楼門の近くに、大津絵のお店があります。
・大津絵の店「大津絵民芸房」
鬼の念仏の絵が見える。
鬼の念仏の絵は、子供の夜泣き祈願の護符に用いられる。なお、藤娘は良縁祈願の護符に用いられる。
長等神社の楼門脇に、このあたりが、かつては「神出」という地名であったという、地名の由来が書かれた説明板がありました。
<説明板>
それによると、
・長等神社は、天智天皇の頃に、日吉社より素戔嗚命、大山咋命の二神を勧請したことに始まる。この二神は初め長等山の山頂に勧請された。
・のち天喜2年(1054)山の上から現在地に移り、これにより神出の地名が起こったと伝えられる。
また、長等神社の入口に、明治38年(1905)の完成の楼門が東面して建っています。楼門は室町時代の様式にのっとった秀作といわれ市指定文化財です。
楼門をくぐり、境内に入ると、枝垂れ桜の下に、平忠度の歌碑があります。
1 場所↓
2 境内
①楼門
・説明板
・楼門から見た拝殿
長等神社の入口に東面して建つ。明治38年竣工。上下の均整が美しく、左右の広がりも適度なすぐれた姿をしている。市指定文化財。
②拝殿
③本殿
・拝所
・本殿
④手水
⑤推定樹齢300年のカツラの木
⑥境内社(摂社・末社)
馬神神社、稲荷神社、両御前神社、笠森社がある。
<馬神神社>
もとは大津東町に鎮座され、馬の守護神として、古来より道中の馬の無事、安全を祈願し、崇敬されていた。明治34年長等神社境内地に鎮座した。
最近は競馬、乗馬関係者、馬の愛好者、馬年生まれの方の参詣が増えているという。
<稲荷神社>
3 平忠度歌碑
・説明板
さざ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
昔ながら、と長等山の桜、をかけた歌で、長等山の山上に歌碑があるが、多くの人に見てもらいたいということから、山上にある歌碑を模して、長等神社の境内に忠度の歌碑を建立したもの。
●平忠度について
(フリー百科事典「ウィキペディア」参照)
平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。兄は平清盛、教盛、経盛。
治承4年(1180)薩摩守。源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。
歌人としても優れ、藤原俊成に師事。平家が都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した逸話がある。『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集。なお、『新勅撰和歌集』以後は薩摩守忠度として掲載されている。
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」(千載66)
【通釈】
さざ波寄せる琵琶湖畔の志賀の旧都――都の跡はすっかり荒れ果ててしまったけれども、長等(ながら)山の桜は、昔のままに美しく咲いているよ。
【語釈】
◇さざなみや 「さざなみ」(楽浪)は琵琶湖西南部一帯の古名。この歌では「さざなみや」で「志賀」にかかる枕詞として用いている。
◇志賀の都 志賀は琵琶湖西南岸、南志賀地方。景行・成務・仲哀三代の皇居の地と伝わり、天智天皇の大津京もこの地に営まれた。
◇昔ながらの山ざくら 「ながらの山」に長等山を掛ける。
【補記】
この歌は千載集に「よみ人知らず」の作として載る。作者が忠度であることは周知の事実であったが、朝敵の身となったため、撰者の藤原俊成が配慮して名を隠したもの。『平家物語』巻七「忠度都落」にもその間の事情が述べられている。
●出典:「千人万首−よよのうたびと−」から転載
3 長等神社の沿革
・園城寺の中輿の智証大師円珍が、貞観2年(860)に日吉山王神を園城寺の護法神として勧請したものと伝え、かつては新宮社などと呼ばれた。
・1054年に庶民参詣のため山の上から現在地に移った。
・祭神は、建速須佐乃男大神(たけはやすさのお)、大山咋大神(おおやまくい)、宇佐若宮下照姫大神(したてるひめ)、八幡大神、地主大神(とこぬし)
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烏丸半島の「くさつ夢風車」(風力発電)と「道の駅草津」
草津市は、滋賀県の南部に位置し、大津市に次ぐ県下第2の都市です。
東海道と中山道の分岐点に位置し、かつては宿場町(草津宿)として発展し、現在でもJR東海道本線・草津線、国道1号・名神高速道路・新名神高速道路など日本を東西に結ぶ交通網を有しており、近世から現代にわたって交通の要衝となっています。
琵琶湖の湖岸を走る「さざなみ街道」と名付けられた道路を、近江大橋方面から北上していくと、烏丸半島という琵琶湖に突き出した半島があります。
1 烏丸半島
①場所↓
②「くさつ夢風車」
風力発電の大きな風車が、烏丸半島の目印になっています。
烏丸半島には、このほか、滋賀県立琵琶湖博物館、草津市立水生植物公園みずの森、国連環境計画(UNEP)の国際環境技術センター(IETC)があります。
③滋賀県立琵琶湖博物館
④草津市立水生植物公園みずの森(入口)
・ハスの群生
このあたりではハスの群生が見られ、夏には一面に咲くハスの花が見事です。
④「道の駅草津」(グリーンプラザからすま)
烏丸半島の入口にあります。
・レストラン ベジカフェ
ここでは、地産地消の拠点として地域特産物の販売なども行っているほか、レストランでは近江米を使ったおにぎり、レンコン麺を使ったハス梅うどん、草津市の花「あおばな」の粉末を使った、あおばなソフトが好評だそうです。
(びわ湖検定公式問題集解説にも掲載されています)
・ハス梅うどん(メニュー)
・あおばなソフト(ポスター)
2 草津市の花「あおばな」
草津市のホームページには、次のような記載があります。
・「あおばな」は、学術名を「大帽子花(オオボウシバナ)」といい、つゆくさの変種。
・特徴としては、つゆくさは、背丈が、10cm位に対し、あおばなは約1mまで伸び、6月下旬から8月下旬にかけて3〜4cmぐらいのコバルトブルーの花を咲かせる。
・「あおばな」は、昔から子どもの胎毒下しやひきつけの薬として使われていたとも言われ、のどの痛みなどの風邪の予防、また神経痛やリュウマチなどの浴湯料としても使用されていたという歴史があり、多くの大学や研究機関でもその効能や可能性についての研究が進められ、現在も大阪薬科大学ではこの成分の研究が続けられている。
・これまでの研究により、食後の血糖値の急激な上昇を緩やかにするデオキシノジリマイシン(DNJ)とジヒドロキシメチルジヒドロキシピロリジン(DMDP)という成分や、皮膚の活性化を図り老化を防ぐ数種のフラボノイドなどが発見されている。
・「あおばな」は、近年注目を浴びてきているメタボリック症候群対策や健康維持にも大きな期待がもたれている。
・出典(草津市HP)↓
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近江八幡の伝建地区(3) 新町通りの町並み
近江八幡は琵琶湖の東岸に位置する八幡山の南麓に位置しています。
・八幡山
・旧市街地案内図
八幡山の山麓に開かれた。
ここは豊臣秀次によって建設された城下町を起源とし、東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝である近江国の地の利を生かして商業地として発展、繁栄しました。いわゆる近江商人の発祥の地ともいわれています。
近江八幡市旧市街地にある八幡堀、日牟礼八幡宮境内地、新町通り、永原町通りを中心とした地区は近世の風情がよく残り、1991年に「八幡伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
その後、2005年には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に同法の適用第1号として指定され、さらに2006年には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定されました。
なお、ここには建築家ヴォーリズの設計した近代建築物も多く残っています。
ここでは、「八幡伝統的建造物群保存地区」に選定された地区について、八幡堀と白雲館、日牟礼八幡宮、新町通り・永原町通りの3回に分けてまとめてみます。
3 新町通りの町並み
新町通の両側には、江戸中期から明治時代に建てられた古い商家の町並みが続き、この町並みは、県下で初めて重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
①説明板
・近江八幡の町は天正13年(1585)、豊臣秀次が叔父の秀吉の命により八幡山に城を築き、本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を移し、山麓に区画整然とした城下町を開いた。
・文禄4年(1595)秀次の自害の後、城は無くなるものの、町人自治を背景に商業を中心に発展をとげ、ここは今では近江商人の一つのふるさとといわれている。
・今なお碁盤目状の町並みは旧市街によく残され、かつての近江商人の本宅であった家々が建ち並んでいる。
・町家は切妻造桟瓦葺き、平入りの中二階建てが基本で、正面の構えは格子、出格子、虫籠窓からなり、軒下の壁に貫を見せる形式が特徴となっている。
・また、道路に面する庭の「見越しの松」が周囲の景観の風格を高めている。
・この一帯は、近江八幡独自の都市空間を形成し、文化庁から、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。
②町並み
見越しの松が町並みの雰囲気を盛り上げている。
・町家と朝顔の花
・森五郎兵衛邸
・近江八幡市立資料館(旧伴家住宅)
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近江八幡の伝建地区(2) 日牟礼八幡宮
近江八幡は琵琶湖の東岸に位置する八幡山の南麓に位置しています。ここは豊臣秀次によって建設された城下町を起源とし、東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝である近江国の地の利を生かして商業地として発展、繁栄しました。いわゆる近江商人の発祥の地ともいわれています。
近江八幡市旧市街地にある八幡堀、日牟礼八幡宮境内地、新町通り、永原町通りを中心とした地区は近世の風情がよく残り、1991年4月30日に「八幡伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
また、ここには建築家ヴォーリズの設計した近代建築物も多く残っています。
2005年には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に同法の適用第1号として指定され、さらに2006年には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。
<周辺案内図>
ここでは、「八幡伝統的建造物群保存地区」に選定された地区について、八幡堀と白雲館、日牟礼八幡宮、新町通り・永原町通りの3回に分けてまとめてみます。
2 日牟礼八幡宮
日牟礼八幡宮は古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」は国の選択無形民俗文化財になっています。また、境内地は八幡伝統的建造物群保存地区の一部を構成しています。
(1)境内
①大鳥居
白雲館前から撮影。
②楼門
境内から撮影
③拝殿
鎌倉時代初期に源頼朝が,近江の守護職である佐々木六角に命じて建立させたと伝える。
・そろばんを模した絵馬
④本殿
⑤能舞台
⑥金網の中の狛犬
⑦手水
(2)沿革
フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、
・祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱。
・伝承によれば、131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。
・正暦2年(991)、一条天皇の勅願により、八幡山上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、寛弘2年(1005)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける(現在の社殿は下の社に相当)。
・天正18年(1590)、豊臣秀次が八幡山城築城のため、上の八幡宮を下の社に合祀した。秀次の自害により八幡城は廃城となったが、城下町は近江商人の町として発展し、当社は守護神として崇敬を集めた。
江戸初期に海外貿易で活躍した西村太郎右衛門が奉納した「安南渡海船額」(重要文化財)など重文が多数ある。
例年3月に「左義長まつり」4月に「八幡まつり」が開催される。
(3)祭礼
①左義長祭
日牟礼八幡宮の境内で例年3月中旬の土日に開催。
織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行い、自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭。国選択無形文化財に指定。
信長亡き後、豊臣秀次が八幡城を築き、安土から移住した人々によって城下町が開かれ、町民は厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を奉納したといわれる。
②八幡まつり
応神天皇が母神功皇后の生地・近江息長村(現在の米原市)を訪問する途中、大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸した。その際、湖辺の葦で松明を作り、火を灯して天皇一行を八幡まで道案内したのが、祭の始めと伝えられる。 毎年4月14日と15日に行われ、松明祭と呼ばれる14日の宵宮祭は、各郷から葦と菜種がらで作られた松明が奉納される。国選択無形文化財に指定。
(4)江戸初期に海外貿易で活躍した西村太郎右衛門が奉納した「安南渡海船額」(重文)
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