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上賀茂、明神川に沿って建ち並ぶ社家(上賀茂神社の神官の屋敷)のたたずまい
上賀茂神社は下鴨神社とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される、京都では最も古い神社の一つといわれています。
・上賀茂神社
かつて、上賀茂神社の神職たちは明神川沿いに代々屋敷を構え、中世の頃から社家町を形成していたといわれ、現在でも、上賀茂神社から明神川に沿って、土塀に囲われた趣のあるかつての社家町が続いています。
社家が並ぶこの附近は、中世の頃から賀茂別雷神社の神官の社家町として町並みが形成されてきたところで、昭和63年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、また京都市の上賀茂郷かいわい景観整備地区に指定されました。
この社家の街並みは、普段は外観を見るだけですが、期間限定で西村家住宅では屋敷と庭園が公開されています。また、井関家では、手作りの香袋、におい袋などを販売しています。
明神川に沿ってしばらく歩くと、おおきなクスノキのある祠があります。ここは、上賀茂神社の末社で、藤木社といい、長い年月の間、明神川の守護神として信仰されてきました。
せっかくここまで来たら、初夏のカキツバタの花で有名な大田神社まで足をのばしてみましょう。
このブログ管理人のおすすめは、ついでにリストランテあぜくらで食事して、明神川沿いにある漬物の老舗「なり田」の「すぐき漬」と上賀茂神社一の鳥居近くの神馬堂か葵家で「やきもち」をおみやげに買う、という定番コースです。
2 明神川に沿った社家町のようす
●社家のたたずまい
●藤木社
上賀茂神社から明神川に沿って社家町の風情あるたたずまいを眺めながら歩いていくと大きなクスノキが見え、その大木の根元に朱色の垣に囲まれた藤木社がある。 ・藤木社と樹齢500年といわれるクスノキの巨樹
<説明板>
・明神川の守護神として信仰されてきた。
・上賀茂神社の末社で、葵祭には南大路町の氏子により神輿渡御が行われる。
・藤木社の楠は推定樹齢500年といわれ、この地のシンボルとして崇められてきた。
●西村家
●梅辻家
●漬物の老舗「なり田」
3 上賀茂重要伝統的建造物群保存地区(通称、伝建地区)について
<説明板> ・昭和63年に伝建地区となった。 4 参考
(1)京都市内の伝統的建造物群保存地区
●祇園新橋伝建地区(昭和51年選定)
祇園の茶屋町。規模の大きな町家が通りに面して軒を並べて建つ。
二階軒先にすだれを下げた独特の景観をもつ。
●上賀茂伝建地区(昭和63年選定)
上賀茂神社前の明神川沿いの社家町一帯 ●産寧坂伝建地区:(昭和51年選定)石塀小路含む
円山公園〜高台寺下。八坂五重塔、二年坂を経て三寧坂に至る範囲 ●嵯峨鳥居本伝建地区(昭和54年選定)
愛宕神社一の鳥居の前に形成された町並 (2)京都市界わい景観整備地区(6ヶ所指定)
●上賀茂郷界わい景観整備地区 ●上京北野界わい景観整備地区
●三条通界わい景観整備地区
●千両ヶ辻界わい景観整備地区
●西京樫原界わい景観整備地区
●伏見南浜界わい景観整備地区
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京の地名、通り名、町並、伝建地区
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寺町通(てらまちどおり)と本満寺と山中鹿之助の墓
京都の地図を開くと、寺町通は京都の南北の通りの一つであり、文字通り寺院が通りに沿って続いていることが分かります。地図を見ると、北は紫明通から南は五条通まで、途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれていますが、伸びているのが分かります。
なお、三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたるといわれています。
この通りは、豊臣秀吉が応仁の乱で大半が焼失した京都を復興させるために行った、いわゆる「京都大改造計画」の一環で、洛中に散在していた寺院をこの地(東京極大路のあたり)の東側に移転させたのがきっかけで「寺町」の名前が付いたといわれています。
有名な本能寺もこの時に現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移されました。
寺院を集めた目的については、税の徴収の効率化と東の御土居に沿うように寺を配置することで、東から進入する軍勢の戦意の低下をねらった、京都の防衛のためであったという説もあります。
寺町商店街のHPには、次のような記載があります。
現在の通り名としての「寺町通」の誕生は、天正18年(1590)。浄土宗・法華宗(日蓮宗)・時宗の諸寺院が整然と並べられており、その数約80か寺におよびます。
門前町としての体裁が整ってくるに従って、商店街も形成されてきます。
17世紀末前後から、位牌・櫛・書物・石塔・数珠・鋏箱・文庫・仏師・筆屋などの寺院とタイアップしたお店が並びます。
さらに、張貫細工・拵脇差・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線などの細工人もこの通りに沿って集住しています。
現在、寺町に残る老舗の多くは、このころに栄えたお店が代々引き継がれてきた名店なのです。
●寺町通と本満寺
本満寺は、寺町通を今出川通から北へ約300m進んだところにある日蓮宗六条門流の本山で、広宣流布山本願満足寺といいます。
ここは江戸時代には徳川家の祈願所でもありました。
境内には早咲きの大きなしだれ桜があり、その後は、ソメイヨシノ、さらに八重桜が咲き、ゴールデンウィーク終盤頃には境内の各所でさまざまな色の牡丹が咲き誇ります。
秋の日の境内のようすです。
1 場所↓
2 境内
●寺町通に面する本満寺入口
●山門と妙見宮(左)
●妙見宮
山門のわきにある。洛陽十二支妙見めぐりの丑(北北東)に位置する妙見菩薩が祀られている。
「出町の妙見宮」と称される。 ●山門
●庫裏としだれ桜
来年の春、満開の頃には忘れずに見に行きたいものです。
●七面大明神
●本堂
●鐘楼
●浄行菩薩
●咲いていた花
・椿
・酔芙蓉
3 山中鹿之助の墓
境内裏の墓地に、戦国時代の武将山中鹿之助と伝える墓がある。
※山中鹿之助について
フリー百科事典「ウィキペディア」によると、次のように記載されている。
一般には山中鹿之助(しかのすけ)と表記されているが、これは誤りで、実名は幸盛(ゆきもり)、通称は鹿介という。
山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将で、戦国大名尼子氏の家臣。生涯全てをかけて主家・尼子家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、三日月に向かって、「願わくば我に艱難辛苦を与えたまえ」と祈った話が教科書に採用された。
墓所については、岡山県高梁市などにある。
いずれにしても京都市の本満寺になぜ墓があるのかは、わかりません。
・寺町通に面して建つ標石
・墓地入口
・東方(比叡山方向)を見たところ
・山中鹿之助の墓
4 沿革等
・応永17年(1410)本圀寺から分立し、関白、近衛道嗣の子、日秀が近衛殿(現在の同志社新町校舎)の南側に建立した。
・その後、後奈良天皇の勅願寺となる。
・徳川吉宗の病気平癒を祈願し江戸幕府の将軍家祈願所となる。
・その後、焼失、再建を繰り返し、現在地に移転。
・現在の本堂は昭和2年の再建。
・山内には塔頭が四院ある(法泉院、守玄院、一乗院、實泉院)。
5 練習問題
(1)山号:広布山。本尊:十界大曼陀羅・日蓮。
(2)沿革
応永17年(1410)に日秀(関白近衛道継の長男)が今出川新町 の近衛道継邸内に造営。近衛殿内道場として繁栄。天文8年(1539)に現在地に移転。宝暦元年(1751)に日鳳が( 1 )の病気平癒を祈願して以降、徳川家の祈願所に。
(3)( 2 )の墓がある。
【正解】
1 徳川吉宗
2 山中鹿之助
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田中図子(ずし)から宮川筋へ
六波羅蜜寺の近く、寿延寺の山門の前の大黒町通に面して、「田中圖子」と彫られた標石があり、両側に家が立ち並ぶ狭い通りがあります。
「圖」は「図」の旧漢字で、ここは京都で今でも各地に残る「図子」の一つで、田中図子と名づけられた通りです。
●通りの様子
・標石
・仁丹の住居表示板
「下京区大黒町松原下ル二丁目西入ル山城町」
・宮川筋からの出入口
建物の下に通路が出来ている。
上には路地の入口と同様、表札がかけられている。
●図子の発生について
・かつては碁盤目状が基本であった平安京の条坊制度は商業の発達と共に形を変えた。
・秀吉の時代に、碁盤目状の市中に縦の通りを増やし、その後、その区画を東西に横切る形で発生した細道を、図子と呼んだ。さらに縦(南北)に抜ける図子も生まれ、市中の町割りは細分化され、家屋の密集度が高まっていった。
・このうち、袋小路となっているものを路地といい、表の通りから路地への入り口には、門が設けられたり住民の表札が掲げられたりすることがよくある。
・また、袋小路の路地の突き当たりを貫通させ、通路として開放したものを図子(ずし、辻子とも表記する)と呼ぶ。路地と異なり、一般の通り抜けが認められている。
・特に上京区の一条通以北に図子が集中しており、「革堂図子」や「紋屋図子」「常盤井辻子」など、名前がつけられているものがある。下京区にも「膏薬図子」と名づけられた図子がよく知られている。
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