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京の地名、通り名、町並、伝建地区

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蛸薬師通と蛸薬師堂永福寺
 
 
京都には、六角通が六角堂に由来し、智恵光院通が智恵光院に由来し、仏光寺通が仏光寺に由来するように、「蛸薬師通」も通称「蛸薬師」と呼ばれる永福寺に由来して名づけられたといわれています。
 
 
1 蛸薬師通
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蛸薬師通は市街地を東西に貫く通りの一つで、六角通と錦小路通の間を、東は木屋町通から西は佐井通の西の西院小学校付近まで、途中いくつか分断されながら続いています。
 
蛸薬師通は平安京の四条坊門小路にあたり、「蛸薬師」の名は16世紀に蛸薬師堂が二条室町から新京極通に移って以降、本尊薬師如来の俗称に由来して、いつしか「蛸薬師通」と呼ばれるようになったそうです。
 
 蛸薬師堂は京都の繁華街、新京極通に面し、薬師如来は病気平癒や厄難消除の信仰を集めています。
 
・新京極通
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2 蛸薬師堂永福寺
(1)場所
 
 
(2)外観
 
・新京極通から見た蛸薬師堂
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・扁額
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・鐘楼
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・御神水「薬師の泉」
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(3)沿革と由来
<説明板>
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・正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に「蛸薬師」と呼ばれる薬師如来の石造を安置している。
 
・昔、この寺が二条室町にあった頃、付近に池があったことから、水上薬師または澤(たく)薬師と呼ばれ、これがなまって蛸薬師となったといわれている。
 
・また、一説には、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、箱を開けるよう求められた時、薬師如来に「この難をお助けください」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたという。
 
・その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えられている。
 
・病気平癒のために参拝する人々でにぎわった参道は、蛸薬師通と呼ばれるようになった。
 
 
 また、蛸薬師堂永福寺のホームページには、次のように書いてあります。
 
①沿革
 豊臣秀吉の時代、都の東の端の城壁代わりに、大きなお寺ばかりが集められた時、蛸薬師堂永福寺も、二条室町から移された。
 
 また、病気平癒や厄難消除に霊験のある蛸薬師如来様を参拝する人々で賑わった参道を蛸薬師通と呼ぶようになった。
 
②由来
後深草天皇の御世、建長(12491256)の初めの頃、善光という親孝行の僧侶が病気の母親のために戒めを破って蛸を買ったが、人々は僧侶が生魚を買った事に不審を抱き、善光のあとをつけて寺の門前で、箱の中を見せるようにと彼を責めた。危うく蛸を取り上げられそうになったとき、善光が薬師如来に祈ると、蛸の足が8巻の経典に変わって辺りを霊光で照らしたという。
 
この光景を見た人々は皆合掌し、南無薬師如来と称えると不思議なことに、この経巻が再び蛸になり、門前にあった池(今の御池通の由来となった御池)に入り、瑠璃光を放って善光の母を照らすと、病気はたちまち回復し、以来、京都の人たちは尊崇の念を込めて、蛸薬師と呼ぶようになったという。
 
 
(4)御利益
身体、心の病気、子宝、財産などあらゆる願いを叶えてくれるとされている。
 
 
※参考:蛸薬師堂永福寺ホームページ
 
産寧坂(三年坂)から二寧坂(二年坂)へ
 
 
清水道から産寧坂(三年坂)の石段を下りて二寧坂(二年坂)から高台寺方面へ向かいます。
 
「産寧坂(三年坂)」という名前は、この坂の石段だけでなく二寧坂(二年坂)までを指して呼ぶことが多いようです。
 
石段を下りると、右手に興正寺別院への参道入口があり、一般道路との交差点があり、右に行けば山村美沙さんの家があったりしますが、ここはまっすぐに進むと、右手にかつての料亭阪口が、「青龍苑」として生まれ変わり、庭園が無料で公開されています。
 
さらに、いろいろな京都らしいたたずまいのお店を見たり、休憩したりしながら進むと、左手に湯豆腐で有名な奥丹があり、その前を右にゆるい坂道が続いています。
 
ここが二寧坂(二年坂)です。
 
名前の由来については、大同2年(西暦807年)に坂が整備された時よりこの名前が付けられたという説と、産寧坂の下(手前)なので二寧坂で呼ぶようになったという説があるようです。
 
ここは、かつて明治、大正、昭和の3代にわたり、波乱の人生を送った詩人であり画家であった、竹久夢二が暮らしたところでもあります。
 
ここから高台寺手前の「維新の道」まで、こののあたりもまた、京都らしい情緒あふれるところです。
 
・興正寺本廟
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・井筒八橋
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・青龍苑
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・二寧坂(二年坂)
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・かさぎや
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・香りの専門店 二井三
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・一念坂入口
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清水坂から産寧坂(三年坂)へ
 
 清水寺へ向う坂道の参道の一つに、いつも観光客の多い清水坂があります。
 
 6月は修学旅行の生徒が多い時期で、沿道に建ち並ぶおみやげもののお店は、制服を着た生徒たちでにぎわいます。
 
 そんな清水坂の途中、唐辛子の七味家さんの角を北へ石段で降りる坂道があります。
 
 これが産寧坂(三年坂)で、この石段を下りて石畳の二寧坂(二年坂)に通じています。
 
 ここは清水坂ほどではありませんが、土産物店、陶磁器店などがあり、京都らしい風情を感じられるところで、年間を通じて観光客が絶えないところです。
 
 この坂道はさらに二年坂を経て円山公園、八坂神社方面まで行くことができます。
 
なお、産寧坂伝統的建造物群保存地区には北に二年坂までの石畳の道も含まれ、石塀小路もその範囲に入っています。
 
 
 
 
2 清水坂と沿道のお店
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3 産寧坂(三年坂)
 
・入口にある七味屋さん
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・説明板
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・産寧坂(三年坂)と沿道のお店
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 ・沿道のお店
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●産寧坂の伝説
「産寧坂」の語源には諸説あり、この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから「産寧坂」と呼ばれるようになったという説が有力だが、一方で清水寺に参拝した人がこの坂道を通る際に念願を強くし、願いが叶ったあとで観音様への御礼に再度お参りする時に通る坂であることから「再念坂」と呼ぶようになったという説もある。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)
 
なお、この坂の途中で転んだら三年の内に死ぬという伝説もあるようです。
   
 
 
4 「伝統的建造物群保存地区」
(1)発足の経緯
 昭和50年(1975)の文化財保護法の改正によって発足。
 
(2)目的
 日本の各地に残る歴史的な集落や町並みの保存を図ること。
 
(3)運用
 地方自治体の市町村は,伝統的建造物群保存地区を定め,国はその中から価値の高いものを重要伝統的建造物群保存地区として選定し,保存事業への財政的援助や必要な指導・助言を行っている。
 
(4)京都市内の伝建地区
 ①祇園新橋伝建地区(昭和51年選定)
祇園の茶屋町。規模の大きな町家が通りに面して軒を並べて建つ。二階軒先にすだれを下げた独特の景観をもつ。
 
 ②上賀茂伝建地区(昭和63年選定)
上賀茂神社前の明神川沿いの社家町一帯
 
 ③産寧坂伝建地区:(昭和51年選定)石塀小路含む
円山公園〜高台寺下。八坂五重塔、二年坂を経て産寧坂に至る範囲
 
 ④嵯峨鳥居本伝建地区(昭和54年選定)
愛宕神社一の鳥居の前に形成された町並
京都・東山の石塀小路と喫茶いし塀の「いし塀コーヒー」
 
 
 京都、東山の円山公園から二年坂を経て三寧坂に至る石畳の道は、途中に八坂の塔や高台寺などの由緒ある建造物、江戸末期から大正期にかけて建てられた京町家が建ち並び、とても風情があり、年間を通じて観光客が絶えることがありません。
 
この地域は昭和51年に三寧坂伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 
・春の三寧坂
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・夏の八坂塔
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 このうち、高台寺下の道はかつて北政所が歩いたという歴史的な道ということから、「ねねの道」とも呼ばれています。
 
・ねねの道(高台寺道)
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 この道と下河原通りを結ぶ細い路地が石塀小路です。
 
 
●石塀小路
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 石塀小路は明治末期から大正初期にかけて、造成されたところで、町家の基礎部分の石垣を高くとっていることから、石塀という名前の由来を感じさせてくれます。
 
 石畳の一部は、昭和和50年代に廃止された京都市電の敷石を使っています。
 
 
 
●喫茶いし塀
 
<入口>
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 喫茶いし塀は、石塀小路の中の少しばかり奥まった所にひっそりとたたずむ、ちょっとレトロな喫茶店です。
 
 お店の中に入ると、石塀小路を歩く観光客も見えないので、まるで隠れ家にいるような感じがします。
 
 店内は、カウンターと少しのテーブル席だけで、坪庭が見えます。
 
 
<店内>
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 このお店は、祇園の水を使ったコーヒーがおすすめです。
 
 この日は、せっかくですから、金粉の入った「いし塀コーヒー」600円をいただきました。
 
 
<いし塀コーヒー>
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 隠れ家のような店内で、クラシックを聞きながらぼんやりと時間を過ごす。
 
 まさに至福のひと時です。
 
 ここはこのブログの管理人のお気に入りのお店の一つです。
 
 
 
<その他のメニュー>
 
コーヒー450
 
いし塀トースト500
 
など。
 
 
 <参考>
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・営業時間 11:00-17:00
 
・定休日  木曜日
 
・住所   東山区下河原通石塀小路
 
・電話   075551-3458
宝鏡寺から小川通を表千家不審菴、裏千家今日庵の前を通り、本法寺へ
 
 
 
1 宝鏡寺
堀川寺之内の交差点から東へ寺之内通を進むと、すぐ左(北)側に宝鏡寺があります。
 
ここはかつて、歴代の皇女方が入寺されていたという由緒ある尼門跡寺院で、京都では、大聖寺門跡に次ぎ、二番目の寺格に列せられてきたといい、通称『百々御所(どどごしょ)』、『人形寺』と呼ばれています。
 
また、皇女方が入寺されていたことから御所より人形が贈られ、中には孝明天皇ご遺愛の人形などあわせて数百体もの由緒ある人形が保存されており、「人形寺」とも呼ばれています。
 
表門を入って右手奥に、京人形を象徴する御所人形が彫り込まれた人形塚があり、その台座には武者小路実篤の歌碑が刻まれています。
 
天気の良い日には、境内で和傘を天日干しする風景が見られます。
 
門前に店を構える日吉屋さんの作っている和傘です。
 
 
 
 
②表門(京都市指定文化財)
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本瓦葺の薬医門で、東側に脇塀、西側に潜り戸を付属する。
 
 
③本堂(京都市指定文化財)
・表門から見た本堂
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文政13年(1830)に、使者の間、玄関とともに本堂が造営された。方丈形式(前後3室からなる6間取)。室境には狩野派の絵師による襖絵がある。
 
 
④人形塚
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 1950年代半ばに、京人形商工業協同組合が、京人形を本格的にアピールしていこうと建立を計画し、昭和341959)年に境内に建てられた。
 
人形塚には京人形を象徴する御所人形が彫り込まれ、その台座には武者小路実篤の歌碑が刻まれている。
 
人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか 
知らねども愛された事実こそ
汝が成仏の誠なれ     武者小路実篤
 
 
沿革等
<説明板>
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・室町時代、光厳天皇の皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)が、伊勢の二見浦で漁網にかかった聖観世音菩薩を祀ったことにより開山し、後光厳天皇より「宝鏡寺」の号を賜ったと伝えられている。
 
・宝鏡寺の名前の由来:
本尊の観音菩薩が、手に鏡を持っていたことから「宝鏡寺」と名付けられたという。
 
 
和傘を天日干しする風景
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・日吉屋さん
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2 小川通沿いの風景
 
宝鏡寺を出て寺之内通を東へ向かいます。
 
 
宝鏡寺前の寺之内通
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 通りから塀越しに宝鏡寺の庭園のカエデが見えます。
 
 
②小川通との交差点近くにある百々橋の礎石
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百々橋はかつて小川に架かっていた橋で、応仁の乱(14671477)の際、東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)の両軍が、この橋を隔てて数度にわたり対戦したと伝えられている。
 
 
③小川通
北は紫明通から南は木津屋橋通までの約5kmの南北に走る道です。
 
その名前の由来は、一条通の北側に昭和後期まで流れていた「小川(こかわ)」に因むものといわれており、現在でも本法寺や報恩寺の山門前には石橋が残っています。
 
・報恩寺の山門前の石橋
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・本法寺の山門前の石橋
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  一番手前側に見える。
 
 
小川通に沿って、寺之内通の近くに応仁の乱ゆかりの百々橋の礎石だけが残り、また、表千家の不審菴、裏千家の今日庵が並び、茶道具や茶器を扱うお店もあり、このあたりは普段は和服姿のとても似合う通りです。
 
 
・茶道具や茶器を扱うお店
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④表千家不審菴
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・千利休(152291)の子の少庵が千家再興を許されたとき、利休の不審菴をこの地へ移建し「表千家」としたもの。

・表門は紀州家から譲り受けたのもの。

・内部は国指定の名勝庭園。
 
 
⑤裏千家今日庵
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・千少庵の子の宗旦が表千家の裏に隠居所を建てたのが始まり。

・一間腕木門の内側は国指定の名勝庭園。
 
 
 
3 参考
(1)武者小路千家と藪内家
 
①武者小路千家
 
 
・千利休の孫、一翁宗守(いちおうそうしゅ)の子孫が受け継ぐ家元。

・官休庵という名称の由来:寛文7年(1667)、宗守が仕えていた高松藩を辞したとき造られたため。
 
 
②藪内家
 
 
 
(2)三千家と藪内家
 
①三千家
利休居士を失った千家の家族は、やがて二代少庵、三代宗旦の親子で千家再興に取り組むことになった。
 
宗旦の子の代から、千家は三家に分かれる。
⇒・不審菴:三男江岑宗左に譲る⇒表千家
⇒・今日庵、又隠、寒雲亭など:四男仙叟宗室に譲る⇒裏千家
⇒・早くから家を出ていた二男の一翁宗守は武者小路に分家⇒武者小路千家
 
 
②出仕先の大名
・宗左(表千家)⇒紀州徳川家
・宗室(裏千家)⇒加賀前田家
・宗守(武者小路千家)⇒讃岐高松松平家
 
 
③代表的茶室
・表千家:不審菴
・裏千家:今日庵
・武者小路千家:官休庵
 
 
◎藪内家
・茶道家元。所在地は、下京区西洞院通正面下ル。
・当主は代々紹智を襲名。初代は紹鴎門下で千利休の弟弟子にあたる剣仲紹智。
・代々西本願寺の保護を受ける。
・茶室「燕庵」
・「下流」と呼ばれた。
 
 
●祇園甲部の「都をどり」のときのお茶席での点茶の形式
上演前、祇園甲部歌舞練場の2階でお茶席が設けられる。(特等席購入のひとだけ)。このときの点茶の形式は「立礼式」というスタイルで、これは裏千家により考案されたもの。

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