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勝持寺(花の寺)の桜
勝持寺は京都の西山の麓にあり、正式名称は「小塩山大原院勝持寺」という天台宗の寺院で、創建は白鳳8年(680)と伝えられています。
<参道入口>
ここはまた、通称「花の寺」とも呼ばれています。
その名前の由来には次のような言い伝えがあります。
保延6年(1140)、鳥羽上皇に仕えていた北面の武士、佐藤義清はここで出家し名を西行と改めて庵を結び、一本の桜を植えて愛でたと伝えられ、これが世人から「西行桜」と呼ばれ、その後、このお寺を「花の寺」と呼ぶようになったと伝えられています。現在その三代目の桜が、鐘楼の脇にあります。
境内には約100本もの桜が植えられ、今年も境内の桜が満開になりました。
なお、境内には桜と同じくらいの数のもみじがあり、桜とともに紅葉の見事なことでも知られています。
2 境内のようす
①仁王門
応仁の乱の兵火を免れた、勝持寺最古の建物。
・仁王像
②参道と土塀
③南門
前回、1年前には南門の向かい側に藁ぶき屋根の庫裏があり、とても山寺の風情があったのが、すっかり無くなって整地されている。
境内に入ると、ソメイヨシノが満開で、西行ゆかりのしだれ桜「西行桜」も咲いていた。
④阿弥陀堂(本堂)
⑤瑠璃光殿
重文の薬師如来像をはじめ、多くの寺宝が安置されている。
⑥鐘楼
⑦鏡石
西行がこの寺で出家したとき(1140年)、この石を鏡の代わりに使い、頭をそったと伝えられている。
⑧魚藍観音
<境内の桜>
・西行桜
・勝持寺周辺の桜
3 沿革
<説明板>
・白鳳8年(680)に天武天皇の勅命により役小角が創建したと伝える。その後、延暦10年(791)に桓武天皇の命によって、最澄が本堂や伽藍を再建し薬師瑠璃光如来を刻んで本尊としたと伝わる。 ・承和5年(838)には仁明天皇の命をうけて、塔頭である四十九院も建立、室町時代には足利氏の庇護を受けて栄えた。
・応仁の乱の戦火により、仁王門を除く全ての建造物が焼失。
・天正年間に徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院の帰依を受け、再建された。
4 西行と勝持寺
保延6年(1140)、鳥羽上皇に仕えていた北面の武士、佐藤義清はここで出家し名を西行と改めて庵を結び、一本の桜を植えて愛でたと伝えられ、これが世人から「西行桜」と呼ばれ、このお寺を「花の寺」と呼ぶようになったという。
5 寺宝について
(お寺のパンフレットより抜粋)
寺宝は、瑠璃光殿に安置されている。写真撮影は禁止です。
①薬師如来像(本尊):重文
・像高85.1cm。左手に薬壷を持ち、右手をその上にかざすような珍しい印相。
・鎌倉時代
②薬師如来像(胎内仏):重文
・像高9.1cm。本尊の胎内から発見された仏像。
・平安前期
③金剛力士像(仁王像):重文
・当初は仁王門に安置されていた。
・鎌倉時代
④日光菩薩像、月光菩薩像、十二神将像(薬師如来の眷属)
・鎌倉時代
⑤西行法師像
・像高55cm。寄木像。室町時代。
⑥醍醐天皇勅額
・延長5年(927)小野道風は醍醐天皇の勅により「勝持寺」の額を納めた。
摂政太政大臣近衛家熙公の添書がある。
・平安前期
6 京都検定の出題歴
(1)平成16年度2級 【問】「寺院」と「その通称名」の組み合わせのうち、誤っているものを選びなさい。 (ア)曼殊院・椿寺 (イ)華厳寺・鈴虫寺 (ウ)勝持寺・花の寺 (エ)石像寺・釘抜き地蔵 【正解】(ア)
(2)平成16年度3級
【問】歌僧西行にゆかりが深く、西行桜で知られる寺院はどこか。 (ア)光悦寺 (イ)十輪寺 (ウ)善峯寺 (エ)勝持寺 【正解】(エ)
7 練習問題
(1)山号「小塩山」。 (2)本尊:薬師如来。
(3)通称:「( 1 )」。境内には約450本の桜。
(4)沿革
白鳳8年(680)、( 2 )の勅願で( 3 )が創建したのがはじまり。その後、最澄が堂塔伽藍を再建し、薬師瑠璃光如来を刻んで本尊としたと伝わる。さらに、桓武天皇の勅により伝教大師が堂塔伽藍を再建した。応仁の乱で仁王門を除きすべて焼失し、乱後に再建された。 (5)「( 4 )庵」と「( 5 )桜」
西行法師はこの寺で出家し、庵を結び桜を愛でた。ゆかりの西行桜(現在3代目)がある。 (6)( 6 )筆の懐紙
当地では、細川幽斎が( 7 )の会を催し、謡曲の舞台ともなった。 元亀2年(1571)に開催された連歌会(大原野千句連歌)で記されたもの。 (7)仏像
瑠璃光殿に安置されている本尊の薬師如来、その胎内仏、金剛力士像は重文で、日光、月光菩薩、西行法師像も見られる。なお、近年まで預かっていた如意輪観音半跏像(国宝)は、東隣の願徳寺で拝観できる。 (8)( 8 )からの眺望が美しく、桜や紅葉の名所でもある。
1 花の寺
2 天武天皇 3 役の行者 4 西行 5 西行 6 細川幽斎 7連歌 8高遠閣 |
京都の桜2010
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建仁寺塔頭「禅居庵」と桜と摩利支尊天堂の狛イノシシ
建仁寺は四条通から花見小路を南へ歩いたつきあたりにありますが、その境内の南西端近くに、禅居庵という建仁寺の塔頭があります。
建仁寺境内から禅居庵の山門にかけて、春には桜がとてもきれいに咲きます。
この日も建仁寺境内から禅居庵に入る山門が開かれ、禅居庵の摩利支尊天堂へ、近道を通って行くことができました。
摩利支尊天堂境内には、狛犬ではなく、狛イノシシがいます。
1 場所↓
2 建仁寺境内から禅居庵摩利支尊天堂へ
(1)建仁寺境内
①禅居庵山門周辺の桜
②庫裏付近の参道
③庫裏と桜
(2)禅居庵について
①建仁寺の寺域の南西にある建仁寺の塔頭(非公開)。
②開山
元(中国)の禅僧、清拙正澄禅師の開山で鎌倉時代末期(1333年)に創建。
③摩利支天
鎮守として祀られ、篤い摩利支天信仰が続いている。
④重文の書院襖絵(松竹梅図12面)
海北友松の代表作といわれている。
(3)摩利支尊天堂
①南からの入口
②案内表示
③説明板
・開山の大鑑禅師は執権北条高時の詔により、嘉歴元年(1326)秘仏摩利支尊天像を袈裟に包み、元の国より来朝し、翌年、当庵鎮守の摩利支尊天堂に祀った。
・現存する堂宇は天文16年に織田信長の父、信秀によって建立された。
④摩利支尊天堂
※摩利支尊天堂と摩利支天
・本尊は摩利支天というインドの軍神。
・日本三大摩利支天の一つ。
金沢の宝泉寺、東京の徳大寺並び称される。
・府指定文化財
<摩利支天>
・陽炎を神格化した女神で、七頭の猪に乗った三面六臂の本尊が祀られている。
・護身・得財・勝利などを司る神で、日本では中世の武士の間に広まり、江戸時代には民衆に広く信仰された。
・現在は開運を願って祇園花街の芸・舞妓や多くの人たちのお参りが絶えない。
⑤境内のイノシシ
尊天の使いとして、境内にはあちこちで狛犬ではなく、狛イノシシやイノシシの置物、祈願絵馬が見られる。
・手水のイノシシ
・狛イノシシ
・祈願絵馬のイノシシ
・イノシシの置物
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醍醐寺の桜(総門、霊宝館、理性院)
醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で、本尊は薬師如来、開基は理源大師聖宝です。
ここは世界遺産に登録され、また、慶長3年(1598)に、豊臣秀吉が花見行列の宴を催したことで広く知られています。
境内には約2000本の桜が植えられており、その美しさは、京都でも屈指といわれています。
前回に引き続き、醍醐寺の総門、霊宝館、理性院周辺の桜のようすを中心に、まとめてみました。
1 場所↓
2 境内の桜
醍醐寺の総門から境内に入ると、左側に三宝院、右側に霊宝館。総門前方の仁王門までのまっすぐな広い道を「桜の馬場」といいます。この間の桜がとてもきれいです。
①総門の周囲
②理性院
③霊宝館
④黒門
⑤三宝院(庭園は特別史跡・特別名勝)
桃山時代の豪華な襖絵で飾られた葵の間、秋草の間、勅使の間(重文)に続き、表書院(国宝)がある。唐門は国宝に指定。
このあたりは下醍醐といわれています。また、醍醐寺の発祥の地であり、また西国三十三所霊場の一つ(十一番)になっている上醍醐へは、さらに約3.5km、1時間以上の山道を歩くことになります。
⑥仁王門(重文)
⑦報恩院
報恩院は、三宝院・理性院・金剛玉院・無量寿院とともに醍醐の五門跡といわれています。
もとは上醍醐にあった極楽坊をその後、報恩院と名前を変え、後宇多法皇の命により下醍醐に移り、明治時代にここに移ったとされています。
ここのしだれ桜は、数ある醍醐寺のしだれ桜の中でも、三宝院、霊宝館前、五重塔近く、金堂脇とならび、大きくまた見事なしだれ桜として、地元のカメラファンをはじめ多くの人たちを魅了し続けてきました。
ため息が出るほどの美しさです。
⑧金堂(国宝)
・醍醐寺の中心的なお堂で本尊薬師如来坐像が祀られている。
・現在の建物は豊臣秀吉の命により、秀頼が紀州湯浅の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)の本堂を慶長4年(1599)に移築し再建したもの。
⑥五重塔(国宝)
・天暦5年(951)の建立で、府内最古の木造建築物。
・醍醐天皇の菩提を弔うために、第一皇子(朱雀天皇)が着工し、天暦5(951)第二皇子(村上天皇)が完成させたもの。
・高さ37.4m
⑨清瀧宮本殿(重文)
慶長4年(1599年)建立。
3 沿革
・説明板
・空海の孫弟子理源大師聖宝が貞観16年(874)に醍醐山上に草庵を結び准胝、如意輪両観音像を彫刻・安置したのが始まり。
・延長4年(926)に下醍醐が開かれ、金堂、五重塔などを建立。その後、応仁・文明の乱の戦火で五重塔を除く堂塔伽藍を焼失した。
・慶長3年(1598)の豊臣秀吉の花見をきっかけに再興された。
4 世界遺産登録
醍醐寺は、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
5 行事
(1)「五大力尊仁王会」(通称、五大力さん)
2月23日に行われ、この日に限って授与される御影(みえ=お札)は、災難除けのお守りとされている。
この日は、金堂の前で大鏡餅の餅上げ力奉納が行われ、男子150Kg、女子90Kgの大鏡餅の持ち上げ時間を競う。
(2)「豊太閤花見行列」
4月第2日曜日に、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」にちなんだ「豊太閤花見行列」が華麗な桃山絵巻を繰り広げる。
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醍醐寺の桜(参道、仁王門、報恩院)
醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で、本尊は薬師如来、開基は理源大師聖宝です。
ここは世界遺産に登録され、また、慶長3年(1598)に、豊臣秀吉が花見行列の宴を催したことで広く知られています。
今でも境内には約2000本の桜が植えられており、その美しさは、京都でも屈指といわれています。
去年はJR東海の「そうだ京都行こう」キャンペーンで醍醐寺が取り上げられ、大変な混雑でしたが、今年も相変わらず花見の人気スポットであり、青空の下、多くの人が訪れていました。
1 場所↓
2 境内の桜
醍醐寺の総門から境内に入ると、左側に三宝院、右側に霊宝館。総門前方の仁王門までのまっすぐな広い道を「桜の馬場」といいます。この間の桜がとてもきれいです。
①参道の桜
このあたりは下醍醐といわれています。また、醍醐寺の発祥の地であり、また西国三十三所霊場の一つ(十一番)になっている上醍醐へは、さらに約3.5km、1時間以上の山道を歩くことになります。
②三宝院(庭園は特別史跡・特別名勝)
桃山時代の豪華な襖絵で飾られた葵の間、秋草の間、勅使の間(重文)に続き、表書院(国宝)がある。唐門は国宝に指定。
③仁王門(重文)
仁王門内から金堂・五重塔方面への入場時間(午前9時)を待つ人たち
④報恩院
報恩院は、三宝院・理性院・金剛玉院・無量寿院とともに醍醐の五門跡といわれています。
もとは上醍醐にあった極楽坊をその後、報恩院と名前を変え、後宇多法皇の命により下醍醐に移り、明治時代にここに移ったとされています。
ここのしだれ桜は、数ある醍醐寺のしだれ桜の中でも、三宝院、霊宝館前、五重塔近く、金堂脇とならび、大きくまた見事なしだれ桜として、地元のカメラファンをはじめ多くの人たちを魅了し続けてきました。
ため息が出るほどの美しさです。
⑤金堂(国宝)
・醍醐寺の中心的なお堂で本尊薬師如来坐像が祀られている。
・現在の建物は豊臣秀吉の命により、秀頼が紀州湯浅の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)の本堂を慶長4年(1599)に移築し再建したもの。
⑥五重塔(国宝)
・天暦5年(951)の建立で、府内最古の木造建築物。
・醍醐天皇の菩提を弔うために、第一皇子(朱雀天皇)が着工し、天暦5(951)第二皇子(村上天皇)が完成させたもの。
・高さ37.4m
⑦清瀧宮本殿(重文)
慶長4年(1599年)建立。
3 沿革
<説明板>
・空海の孫弟子理源大師聖宝が貞観16年(874)に醍醐山上に草庵を結び准胝、如意輪両観音像を彫刻・安置したのが始まり。
・延長4年(926)に下醍醐が開かれ、金堂、五重塔などを建立。その後、応仁・文明の乱の戦火で五重塔を除く堂塔伽藍を焼失した。
・慶長3年(1598)の豊臣秀吉の花見をきっかけに再興された。
4 世界遺産登録
醍醐寺は、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
5 行事
(1)「五大力尊仁王会」(通称、五大力さん)
2月23日に行われ、この日に限って授与される御影(みえ=お札)は、災難除けのお守りとされている。
この日は、金堂の前で大鏡餅の餅上げ力奉納が行われ、男子150Kg、女子90Kgの大鏡餅の持ち上げ時間を競う。
(2)「豊太閤花見行列」
4月第2日曜日に、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」にちなんだ「豊太閤花見行列」が華麗な桃山絵巻を繰り広げる。
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萱尾神社と桜とキリシタン灯籠
<萱尾神社>
鳥居と舞殿
萱尾神社は、JR奈良線 の六地蔵駅 の東方約2kmのところ、国宝の阿弥陀堂のある法界寺のすぐ近くにあります。
このあたりは、かつては「日野の里」と呼ばれ、のどかな田園風景の広がるところでしたが、最近ではすぐ近くまで住宅地が広がってきています。
萱尾神社は江戸時代までは法界寺の鎮守社であり、本殿は慶安5年(1652)再建の一間社流造の社殿で、京都市の有形文化財に指定されています。
また、境内にはキリシタン灯籠があります。
萱尾神社は古来より日野の産土神、村の鎮守様として地域の人たちから信仰を集めてきた神社であり、境内はいつも清掃が行届いています。
4月はじめ、舞殿の脇の大きな桜が満開になり、境内を明るく彩っていました。
1 場所↓
2 境内のようす
鳥居をくぐると、正面に舞殿、その向こうに本殿が見えます。
舞殿と本殿の間にはキリシタン灯籠があり、本殿の両脇には末社があります。
①舞殿
②本殿(京都市指定有形文化財)
慶安5年(1653)の再建。
一間社流造で、極彩色が施され、彩色装飾が豊か。
③狛犬
金網の中にいます。
④末社
本殿の左右に、末社の若宮社、柳社、稲荷社、田中社が並ぶ。
中央にある石灯籠が、キリシタン灯籠。
④キリシタン灯籠
本殿の正面、舞殿との間に立つ。
石灯籠の中央部分が丸く、その下にマリア像と思われる像が彫られている。中央部分が丸く、その下に立像が彫られている。「マリア観音」とも称される。
3 境内の桜
<絵馬>
5 沿革
<説明板>
・大己貴命(大国主命)をまつり、日野村の産土神として崇敬を集めるとともに、法界寺の北東に位置し、江戸時代まではその鬼門を守護する鎮守社ともなっていた。
・現在の本殿は、慶安5年(1652)に再建されたものであり、その後も屋根葺き替えや彩色等の修理が繰り返されてきたことが、当社所蔵の多数の棟札からわかる。
・建物は大型の一間社流造で、極彩色が施されるなど、彩色装飾が豊かで、醍醐寺清滝宮本殿(重文)に相通じる雰囲気を持っている。
・この本殿は建築年代がはっきりしており、さらに造営以後の修理についてもほぼ明らかで、近世日野の建築活動を知る上で貴重である。
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