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上御霊神社と境内の紅葉
上御霊神社は、市営地下鉄の「鞍馬口」駅から東に向かって300mほどのところにある神社で、長岡京から平安京にかけて、政争に巻き込まれて憤死した人々の怨霊を慰めるために創建されたと伝えられています。
正式名は「御靈神社」といい、中京区にある下御霊神社に呼応するものとして上御霊神社という社名で呼ばれています。
境内はまた、「御霊の杜」ともいわれ、畠山政長と義就の合戦が行われた応仁の乱の発端となったところで、楼門横に「応仁の乱勃発地の碑」があります。
ここは京都でも紅葉の名所の一つとして知られており、11月末に訪れた際、本殿背後の紅葉がとても見事でした。
1 場所↓
2 境内の社殿、石碑など(神社の公式HP参照)
①南門(四脚門)
伏見城の四脚門を移築したものと伝えられている。
②西門(楼門)
寛政年間に再建されたもの。
③手水
「御靈社」の文字が見える。
④舞殿
⑤狛犬
⑥拝殿・本殿
享保18年(1733)に下賜された内裏賢所御殿の遺構を、昭和45年に復原したもの。
⑦絵馬所
宝暦年中(江戸時代中期)御寄進の内裏賢所権殿を絵馬所につくり改めたもの。皆川淇園・小林雪山等著名画師の作品がかかげられている。
⑧祈願絵馬
応仁元年(1467)畠山政長が御霊の森に陣をしき、畠山義就と戦いを交えたのが応仁の乱の発端となった。
⑩松尾芭蕉句碑
・松尾芭蕉は元禄3年12月に門人を伴い、ここに参詣し、別当家に半日を打ち寛ぎ、「年忘歌仙」を奉納した。
「半日は 神を友と とし忘れ」
石碑は慶応元年の建立。
②新村出の歌碑
上御霊のみやしろに詣でてよめる
「千早振 神のみめぐみ 深くして
八十ぢに満つる 幸を得にけり」
・新村出博士は広辞苑の編者として著名。
・博士は大正12年より終世当社の氏子の小山中溝町に住んでいた。
・この歌は、満80歳の誕生日に参拝の折に献詠したもの。
3 拝殿前の菊花
4 境内の紅葉
・拝殿の脇
・本殿の背後
・境内社「神明神社」周辺
・境内社「福壽稲荷神社」周辺
・清明心の像
国際児童年(1979)にあたり生命の尊重と子供達の健やかな成長を祈り、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立された。
5 門前の「水田玉雲堂」
古くから名物菓子「唐板」が広く知られている。
6 沿革等
<説明板>
・この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安遷都にあたり桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった8柱の神霊が祀られ、後に加えられた5柱の神霊を併せ、現在に至っている。
・祭神
崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢はじめ十三柱の神霊を祀る。
・御霊信仰
平安時代には御霊信仰が盛んで、この怨霊をなだめ祀るための御霊会が数々行なわれたが、当社は古来疫病除の霊社として有名。創建以来、とくに御所の守護神として皇室の尊信が深い。 ・御霊の杜
境内は「御霊の杜」といい、畠山政長と義就の合戦が行われた応仁の乱の発端となったところ。
7 年中行事
●御霊祭
例祭(社頭の儀)、5月1日神幸祭、同月18日還幸祭が行なわれる。 8 京都検定の出題歴
(1)平成18年度1級 【問】応仁の乱の戦端を切った合戦が行われ、現在「応仁の乱勃発地」の石標が建つ神社はどこか。 【正解】上御霊神社
9 練習問題
①祭神は( 1 )(祟道天皇)、井上内親王、吉備真備をはじめ13柱。
②正式名「( 2 )」
③沿革
桓武天皇が平安遷都の時に、早良親王らの怨霊を鎮めるために創祀したといわれるが、平安遷都以前よりこの地に勢力を持った出雲氏の氏寺である上出雲寺の鎮守社であったとも伝えられる。 ④「御霊の杜」
境内はかつて、( 3 )の戦端が開かれたところとして知られる。 ⑤本殿
宝暦5年(1755)に( 4 )を賜ったものとされる。 ⑥「( 5 )」煎餅
門前の「水田玉雲堂」で売られている。疫病よけのご利益があるとされ、明治維新まで皇室は皇子が誕生するたびに当社に参詣し、これを土産にしたという。 【正解】
1 早良親王 2 御霊神社 3 応仁の乱 4 賢所御殿 5 唐板
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京の紅葉2010
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龍安寺の石庭と鏡容池の周辺の紅葉
龍安寺は、洛西の衣笠山のふもとにある臨済宗妙心寺派の寺院です。
宝徳2年(1450)に室町幕府管領の細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受け、妙心寺の義天玄承を開山として、大雲山龍安寺として創建され、その後応仁の乱による焼失後、長享2年(1488)勝元の子政元によって再興されました。
ここは方丈の南側に、石庭として有名な方丈庭園(史跡・特別名勝)があります。杮葺油土塀に囲まれた枯山水の平庭で、「虎の子渡しの庭」とも呼ばれる白砂に15個の石を配した名園といわれています。
龍安寺は、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されました。
11月末に訪れた時には、寺の南側に広がる鏡容池の周囲や庫裏に向かう参道沿いなどの紅葉が見ごろでした。
1 場所↓
2 境内のようす
<境内案内図>
(1)山門から庫裏へ
拝観順路に沿って、鏡容池のわきを通り、方丈・石庭拝観の入口になっている庫裏へ向かう。
・山門と紅葉
・鏡容池畔の紅葉
・庫裏に向う石段と紅葉
(2)方丈内部
(3)方丈南側の枯山水庭園「石庭」(史跡・特別名勝)
<特色>
・二方を油土塀で囲み、東西30m、南北10m余の長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3個づつに配置している。
・15個の石は、庭をどこから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないようになっているといわれる。
・築地塀の北を高く、南を低くして、遠近法の手法で狭い空間を広く見せている。
(4)方丈の裏にある「知足の蹲踞」とわび助椿
①「知足の蹲踞」
・徳川光圀の寄進と伝えられている。
・実物は茶室蔵六庵の露地(非公開)にあり、方丈裏にあるのは複製。
・蹲踞には「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)の4字が刻まれている。
・水を溜めておくための中央の四角い穴が「吾唯足知」の4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として共有されている。
②わび助椿
(5)方丈を出て、勅使門の石段下を通って鏡容池畔に向かう
・勅使門
(6)鏡容池
・鏡容池と大珠院
・鏡容池畔の紅葉
(7)鏡容池周辺の紅葉
・寺の南側にある広大な池。周囲は回遊式庭園になっていて、国名勝に指定されている。
・円融天皇の御願寺である円融寺の跡地にあたり、その園池といわれ、徳大寺家によって造園されたもの。かつてはおしどりが群れ遊んだところから、おしどり池と呼ばれている。
3 墓地と御陵
(1)龍安寺七陵
龍安寺の背後に、一条・堀河・後三条・後冷泉・後朱雀の各天皇陵と後朱雀天皇の皇后禎子内親王陵、後円融天皇火葬塚がある。 (2)細川勝元の墓
(3)義天玄承の墓
4 非公開部分「西の庭」
・開基細川勝元の木像を祀る細川廟などがある。 ・茶室蔵六庵がある。
・蔵六庵には、徳川光圀の寄進と伝える「知足の蹲踞」の実物がある。
5 沿革
<説明板>
・まもなく応仁の乱で消失するが、勝元の子、政元によって再興。
・明応8年(1499)には方丈が建立され、石庭もこのときに築造されたと伝える。 ・その後、寛政9年(1797)に、方丈、開山堂、仏殿を火災で焼失。 ・現在の方丈は、塔頭・西源院の方丈を移築したもの。 ・平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録。
6 龍安寺旧蔵のふすま絵、115年ぶりに龍安寺に戻る
龍安寺が明治時代の廃仏毀釈の際に手放した狩野派絵師の作とみられる襖絵6面を、アメリカの競売会社で落札し、115年ぶりに龍安寺に戻ってきた。これを記念して12月1日から来年3月まで、龍安寺で一般公開される。
7 練習問題
(1)臨済宗妙心寺派。山号:「大雲山」。本尊:釈迦牟尼仏。 (2)沿革
( 1 )が妙心寺の( 2 )を招き宝徳2年(1450)に創建。玄承の師の日峰宗舜を勧請開山とした。 (3)枯山水の石庭
「( 3 )」、「( 4 )」、「七五三の石組」、「心字の象形」などと呼ばれ、白砂だけを敷き詰めて15個の石を配する。作者、作庭年代などは不明。二方を油土塀で囲み、東西30メートル、南北10メートル余の長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置したもので、一般に、「( 5 )」の名で知られている。国の史跡及び特別名勝。 (4)茶室「( 6 )」
この前に、水戸光圀が寄進したという「( 7 )」の手水鉢が置かれている。 (5)( 8 )の墓
鏡容池北側にある。 (6)世界文化遺産に登録。
【正解】
1 細川勝元 2 義天玄承 3 虎の子渡し 4 五智五仏 5 虎の子渡し 6 蔵六庵 7 吾唯足知 8 真田幸村 |
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泉涌寺塔頭・善能寺の重森三玲による石庭「遊仙苑」と紅葉
通称「御寺(みてら)」と呼ばれる泉涌寺の仏殿の前を北に向かうと、孝明天皇陵や来迎院方面への出入口があり、泉涌寺の拝観はここで拝観券を買って入ることができます。
この出入口の北側、来迎院方面への道を進むと、左側に善能寺があります。
ここは真言宗泉涌寺の塔頭で、昭和46年(1971)、北海道横津岳で遭難したばんだい号の遺族谷本氏により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願し、航空殉難者慰霊堂として建立されました。
山門から境内を見ると正面に本堂があり、本堂右側には、重森三玲が昭和47年に作った石庭「遊仙苑」があり、いかにも重森三玲らしい、力強い立石の石組が並んでいます。
11月末の境内は紅葉が素晴らしく、石庭「遊仙苑」を取り囲む紅葉も見事でした。
1 場所↓
2 境内
①来迎院前から見た善能寺山門と境内の紅葉
②山門と紅葉
③本堂と紅葉
④境内社と紅葉
3 重森三玲による庭園「遊仙苑」(昭和47年)
境内の奥のほうに、いかにも重森三玲らしい、立石による石組が見えます。 無人のためか、荒れ果てた感じの境内の中をすぐそばまで歩いていくと、重森三玲としては珍しく枯山水ではなく、池泉式の庭園がありました。
本堂の横から裏の方まで広がっていました。残念なことに水がほとんどなかったのですが、力強い、前衛的ともいわれる重森三玲らしい石組みの中に入って、鑑賞することができました。紅葉が庭園を引き立てていました。
<「遊仙苑」>
4 沿革
昭和46(1971)年、北海道横津岳で遭難したばんだい号の遺族谷本氏により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願し、航空殉難者慰霊堂として建立され、寄進された。 本堂には、聖観音菩薩が祀られているという。
5 重森三玲について
・昭和を代表する作庭家、庭園史研究家、前衛いけばなを提唱するなど多分野で活躍。 ・「三玲」という名前の由来:フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーにちなんで改名したもの。 ・重森三玲の庭の特色 力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園。国内に約200もの庭園を作庭。 6 京都市と近隣にある重森三玲の主な作品>
(1)重森三玲旧宅の書院・庭園 「重森三玲庭園美術館」として申込制で、一般公開中。 (2)東福寺方丈庭園
八相・市松・北斗・井田庭。重森三玲のデビュー作品といわれています。 (3)東福寺光明院
方丈庭園「波心庭」と、門内入り口付近の庭「雲嶺庭」。 (4)東福寺霊雲院
九山八海の庭、臥雲の庭。 (5)東福寺芬陀院
「雪舟庭」として知られる。東庭は重森三玲が作庭。 (6)東福寺龍吟庵庭園
時々特別公開される。 (7)大徳寺瑞峯院
独座庭 、閑眠庭 。 (8)教法院
妙顕寺の塔頭。御題目庭園(非公開・要予約) (9)真如院
特別公開日以外は非公開。 (10)光清寺
西陣。心和の庭と心月庭がある。 (11)石清水八幡宮
鳥居の庭。社務所庭園は非公開。 (12)松尾大社庭園「松風苑」
「曲水の庭」(平安風)、「即興の庭」「上古の庭」「蓬莱の庭」(鎌倉風) (13)善能寺遊仙苑
などがある。
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