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嵯峨野の祇王寺の雪景色
祇王寺は、清涼寺から二尊院のわきを通り、奥嵯峨野方向へ向って少し歩いたところにあります。
ここは、もとは法然上人の弟子の良鎮が創建した往生院が明治初期に荒廃し一時廃寺となり、その後、往生院の跡を引き継ぎ、大覚寺塔頭の尼寺として復興しました。
復興にあたっては、当時の京都府知事であった北垣国道が、祇王を偲び嵯峨の別荘にあった茶室を寄進し、これを本堂にして冨岡鉄斎らにより現在の祇王寺がつくられたとされています。
なお、ここは、平家物語には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前が出家のため入寺したゆかりの地としても知られ、本堂内には祇王・祇女・母の刀自、仏御前の4人の木像を安置しています。
祇王寺は、庭園の苔庭と新緑・紅葉のころが美しく有名ですが、雪景色もまた捨てがたい趣があります。
2 庭園の雪景色
・雪の祇王寺へ
・雪の境内、本堂のまわりのようす
寒牡丹が咲いている。
・本堂
・本尊大日如来像、平清盛と祇王・祇女・母の刀自、仏御前の4人の尼僧像
・祇王・祇女の墓と伝える宝筐印塔、清盛の供養塔
3 沿革
<説明板>
・往生院祇王寺と号する真言宗大覚寺派の寺院(尼寺)。
・寺伝によれば、この地は、平安時代に法然上人の弟子の念仏房良鎮が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。
・平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母の刀自、妹祇女とともに出家し、当地に移り住んだ。後には仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。
・現在の本堂は明治28年に再建されたもので、堂内には本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王・祇女・母の刀自、仏御前の4人の尼僧像を安置している。
・境内には、祇王・祇女の墓と伝える宝筐印塔、清盛の供養塔(鎌倉時代の作とされる五輪の石塔)がある。
4 練習問題
(1)真言宗大覚寺派。院号「往生院」。本尊「大日如来」
(2)沿革
念仏坊良鎮(法然の弟子)が創建した往生院の跡。
(3)寺名の由来
平清盛の寵愛を失った白拍子の( 1 )が、母の( 2 )と妹の( 3 )を伴い剃髪し、ここに隠棲したことによる。 (4)現在の祇王寺
①本堂:明治28年(1895)に再建。 ②仏像:大日如来像(本尊)。 ③清盛と祇王・祇女・母の刀自・( 4 )の4人の尼僧像を安置。 【正解】
1祇王
2刀自 3祇女 4仏御前
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京都の雪景色
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本法寺の雪景色
上京区の堀川通と小川通に挟まれた寺之内の一角にある本法寺は、本阿弥光悦と長谷川等伯ゆかりの寺として知られています。
小川通に面し、裏千家今日庵の向かいにある仁王門をくぐると、右手に多宝塔を見て本堂まで参道が続いています。
本法寺は、日蓮宗の本山で、山号は叡昌山、本尊は十界曼荼羅です。
ここはまた、日親上人を開山とし、永享8年(1436)、京都綾小路東洞院に創立されましたが、以後、いくたびか寺地を移し、天正15年(1587)に豊臣秀吉の命により現在の地に再興されました。その際に本阿弥光悦は父本阿弥光二と共に私財を投入し、移転工事を監督したと伝えられています。
天明8年(1788)の天明の大火(出火場所より別名団栗焼けと呼ばれる)により、経蔵と宝蔵を除いて堂宇のほとんどを焼失し、現在の建物はその後に再建されたものです。
書院の東側に、本阿弥光悦作といわれる「三つ巴の庭」と名づけられた庭園があり、国指定名勝となっています。
また、長谷川等伯は能登の絵師として知られていましたが、父の死後、1571年、本法寺塔頭・教行院を頼って上洛し、千利休、本法寺10世の日通、大徳寺の春屋宗園らと親交を結んだと伝えられ、本法寺の墓地に長谷川等伯の墓があります。
ここでは庭園の拝観と併せて宝物館の拝観をすると、京都の三大涅槃図の一つといわれる長谷川等伯の「佛涅槃図」を間近に見ることができます。(通常はレプリカ)
雪景色のようすをご紹介します。
2 境内
堀川寺之内の北東側に境内が広がっている。本堂、開山堂、多宝塔、庫裡、書院、大玄関、唐門、鐘楼、経蔵、宝蔵、石橋、棟札は京都府有形文化財に指定されている。
<雪景色の境内のようす>
①仁王門(府指定文化財)
小川通に面し、裏千家今日庵の向かいに仁王門がある。
仁王門を入ると、西方の本堂に向かって参道が続き、本堂の手前に多宝塔がある。
・境内から見た仁王門
③多宝塔
④本堂
寛政9年(1797)の建立。
・本堂前の雪景色
・本阿弥光悦筆の扁額
⑤光悦翁手植えの松
⑥長谷川等伯の像
長谷川等伯は上洛後、本法寺塔頭・教行院に寄寓し、千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結んだ。
④経蔵
⑤鐘楼
⑥開山堂
寛政8年(1795)の再建
⑦唐門
⑧庫裏
拝観受付がある。
⑨書院
書院は、江戸時代、1829年に紀州家の寄進による。上段の間をはじめ18畳が三間ある。
⑩本法寺の墓地
本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓がある。
⑪本法寺境内北側から上御霊前通に抜ける門
3 摩利支天堂
狛イノシシがいる。
摩利支天とは、仏教の守護神の 一つであり、イノシシに乗っている。
・雪が積もった狛イノシシ
4 庭園
(1)「十(つなし)の庭」
(2)庭園「三巴の庭」
書院前に作られた本阿弥光悦作とされる枯山水庭園。桃山時代風の豪放な庭
として国の名勝に指定。
庭の奥、東南隅部分に三尊石組の形式の滝石組が据えられている。滝から流れ落ちる水が、石橋の下をくぐって大海に出て行く様子を表しているようで、築山が大海に浮かぶ3つの島を表しており、それぞれの形が「巴の形」であるといわれている。
現在では、2つの島ははっきりと分かるが、もう一つの島は埋没しかけている。
こちらのご住職によれば、この庭を造った本阿弥光悦は、3つの巴形を「過去」「現在」「未来」であるとし、巴というのはそもそも渦巻きのことであり、3つの渦巻き、つまり、過去・現在・未来が途切れることなく連続していることを庭に現したのだという。
5 寺宝
桃山時代の画家長谷川等伯の絵画や関係資料を所蔵している。 ・光悦の寄進状を添えた紫紙金字法華経(重文)
・長谷川等伯の「佛涅槃図」(同)
長谷川等伯が若死した息子の七回忌に奉献したもので、永禄2年(1559)の作、10m×6m。通常は写しを展示。 6 沿革
・叡昌山と号し、日蓮宗の本山の一つ。
・永享8年(1436)、本阿弥清信が日親承認を開基に請じて創建したのが当寺の起こり。
・はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺輪番にあたる上方三山の一つでもあった。
・現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名。
・当寺はまた本阿弥家の菩提寺であったことでも知られている。
・なお、開基の日親は、永享11年(1439)、三代将軍足利義教に法華経受持を説き、「立正治国論」を著したため将軍の怒りに触れ、寺を焼かれ、投獄され、焼き鍋を頭に被せるなどの拷問を受け、改宗を迫られたが信念を変えなかったことから、後に“鍋かぶり日親”と称された。
7 本阿弥光悦について
・刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の男として生まれる。今日では近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも豊かな才能を発揮したとして高く評価されている。
・光悦は、元和元年(1615年)、徳川家康から洛北鷹ヶ峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住し芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
・また、光悦は俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、後世の日本文化に大きな影響を与えた。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より参照)
8 長谷川等伯
・安土桃山時代の画家で長谷川派の祖・長谷川等伯(1539-1610)は、能登七尾に生まれた。画は、雪舟門弟等春の弟子・宗清に学び、熱心な法華信徒として仏画を描いた。
・父の死後、1571年、本法寺塔頭・教行院を頼って上洛し、千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結んだ。1590年、仙洞御所障壁画は狩野派の圧力により中止となり、この確執により狩野永徳(1543-1590)は亡くなっている。 ・水墨画の最高傑作「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)、豊臣秀吉建立の祥雲寺・障壁画(現智積院蔵)などがある。 (フリー百科事典「ウィキペディア」より参照)
9 練習問題
(1)山号:叡昌山。本尊:十界大曼荼羅。 (2)沿革
永享8年(1436)に( 1 )が四条高倉に建立。同11年、「( 2 )」を著し、足利義教の怒りに触れ、投獄。焼けた鍋を頭にかぶせられ「なべかむり日親」と称される。
のち許され、当寺を再興。投獄中、本阿弥清信と知り合い、後に、当寺は本阿弥家の菩提寺に。天明8年の大火で類焼の後再建。
(3)庭園:「( 3 )」
国の名勝。( 4 )の作。三島をそれぞれ巴形にして配置。中庭には本阿弥光悦遺愛の手水鉢を据える。
(4)墓地
本阿弥一族、( 5 )らの墓がある。 【正解】
1日親 2立正治国論 3三巴の庭 4本阿弥光悦 5長谷川等伯 |
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東福寺 芬陀院(雪舟寺)の雪景色と重森三玲
東福寺は、臨済宗東福寺派大本山の寺院です。開基は九条道家、開山は聖一国師円爾で、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、今なお25か寺の塔頭を有しています。
芬陀院は東福寺の塔頭の一つで、ここは室町後期の画家・雪舟等楊の築造と伝わる「鶴亀の庭」と呼ばれる枯山水の庭園があることから、別名「雪舟寺」とも呼ばれています。
雪舟等楊の築造と伝わる庭園はその後荒廃していましたが、昭和の作庭家を代表する重森三玲によって昭和12年と14年に復元修理が行われました。
重森三玲によるオリジナルの庭園ではないことから、同じ東福寺の塔頭の光明院の庭園のような、いかにも重森三玲らしい現代的でダイナミックな立岩は見られず、重森三玲ファンとしては多少淋しいところではありますが、伝統的な日本庭園を見ながら、ゆったりとした時を過ごすには、とてもおすすめのところです。
こちらの庭園は、障子越しに見た写真や、図南亭の丸窓越しに見た写真が有名ですが、雪景色もまた落ち着いた日本画のような美しさでした。
なお、ここでは暖かくなれば、縁側に座って抹茶とお菓子をいただくこともできます。
1 場所↓
2 境内から方丈内へ
雪の舞う寒い朝8時半頃、雪舟の鶴亀の庭の雪景色と図南亭丸窓からの東庭が見たくて、山門から庫裏に向かいました。
(1)山門
(2)山門から庫裏(拝観受付)までの参道
(3)庫裏入口
まだ9時前なので入れないかと思いつつも、庫裏の扉をあけると、御住職が出てこられ、快く中に入れていただきました。
(4)方丈
①方丈内(仏間)
寒い寒い(京都では形容詞を繰り返します)方丈の中でも、ここから見わたす雪景色はたしかに格別。仏間で合掌してから、一人で雪景色を眺めていたのですが、開けっ放しにしているので、方丈はことのほか寒く、いつまでも庭園を鑑賞し続ける心の余裕がなくなります。
②襖絵
水墨画は時代を経て良い味を出していました。
③方丈南庭 「鶴亀の庭」
寛正年間(1460〜66)、雪舟等揚作と伝える。
鶴島は折鶴を表現しているという。亀石は夜毎動いたという伝説があり、亀石の中央の立石は亀が動かないよう雪舟が立てたという言い伝えがある。
その後、長年にわたって庭園は荒廃していたが、重森三玲が昭和12年に復元修理した。
<方丈南庭の椿>
④方丈東庭
昭和14年(1939)に重森三玲により復元されたもの。ほぼ作庭時に近いものとされている。
方丈をまわりこんで、このあたりまで来ると、さすがに寒さが我慢できないくらいに身にしみてきます。
2つ並べた座布団。
寒い時にはやはりカップルが一番かも・・・。
⑤図南亭(となんてい)
方丈東庭の北側。昭和44年に復元された関白一条恵観公ゆかりの茶室。
江戸時代に「茶関白」と呼ばれた一条恵観が、東福寺参詣の際に茶を楽しんだ、躙口のない貴人好みの四畳半茶室で、昭和44年に復元されたもの。扁額は石川丈山の手によるもの。
・内部
・図南亭丸窓から見た東庭
全国的にとても有名な構図です。
今回、雪の日の写真を撮ることができたので満足。
⑥恵観公愛好の勾玉の手水鉢、屑屋型石灯籠
茶室西側には恵観公愛好の勾玉(まがたま)の手水鉢、屑屋型(くずやがた)石灯籠が置かれている。
3 沿革
<説明板>
・東福寺の塔頭。通称「雪舟寺」。本尊:阿弥陀如来。
・元亨年間(1321〜24)、一条経通が父の追善のために創建。開山は定山祖禅。
火災などにより衰退。元禄年間(1688〜1704)に一条兼輝により再興。以降、一条家の菩提寺となっている。 |
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山科の大石神社の雪景色
江戸時代の中期、元禄赤穂義士の討ち入りは、「忠臣蔵」として全国的に知れ渡りましたが、江戸時代には幕府にはばかって表立って赤穂浪士を顕彰することはできず、明治以降に赤穂と京都に赤穂義士を祀る神社が創建されました。
京都の大石神社は、山科区の稲荷山トンネル入口の南側にあります。
このあたりは、大石内蔵助ゆかりの地といわれ、昭和の初期に浪曲会の重鎮奈良丸等が中心となり、内蔵助を祭神とした神社の建立を関係方面に働きかけて、昭和10年に大石神社が創建されました。
ここは主君の仇討ちという大願を果たした祭神に因み、「大願成就」のご利益があるとして、広く信仰を集めています。
拝殿の前には、「大石桜」と名付けられた京都でも早咲きのしだれ桜があり、京都で人気の花見スポットの一つとなっています。
雪の日の朝早く、神社を訪れてみると、参道の木々やしだれ桜の「大石桜」が霧氷のようで、幻想的でとてもきれいでした。また咲いている椿の花びらに雪が積もり、凍えそうに見えました。
1 場所↓
2 朝の境内
①参道
②参道の椿の花
③建立に尽力した奈良丸の碑
④社務所
⑤大石桜の雪景色
社務所の前から見る春の大石桜は見事ですが、この日は霧氷のよう。
⑥拝殿
社務所前からさらに石段を上がり、拝殿へ。
・扁額
⑧大石内蔵助胸像
⑨義人社
摂社として、討入のための武器を納入したといわれる天野屋利兵衛を祀る。
4 大石神社の沿革
<説明板> ①大石内蔵助隠棲の地
大石内蔵助は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移り、翌15年9月まで京都に隠棲し、浅野家の再興をはかり、吉良邸討ち入りの準備を進めたところとされる。 このあたりは交通の要所ではあったものの閑静で人目に付きにくく、密かに大事を計るに最適であったという。
②創建の経緯
昭和初期、赤穂義士を熱心に崇拝していた浪曲師の吉田奈良丸が、内蔵助ゆかりの地に神社を創建することを計画し、関係方面に活動を行った。
この結果、府知事を会長とする大石神社建設会などが設立され、募金によって昭和10年に社殿が竣工した。
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水火天満宮の雪景色と菅原道真ゆかりの伝説の「登天石」
・堀川通に面した入口
水火天満宮は堀川紫明の南、上御霊通をはさんで、本法寺の北側にあります。
この地は菅原道真の師で、天台宗の僧・法正坊尊意僧正の屋敷跡と伝えています。
延長元年 (923) に醍醐天皇の勅願で菅原道真の神霊を勧請し建立したのがはじまりで、境内には道真の不思議な伝説が残る「登天石」などがあります。
ここの境内が一番華やいで見えるのは境内の奥に植えられた紅しだれ桜が満開になる頃ですが、雪の積もった境内のようすはとても珍しいものですから、ここでご紹介させていただきます。
1 場所 ↓
2 境内のようす
堀川通から境内西側にある鳥居をくぐると、左手に社務所と、その奥に拝殿・本殿がある。
①堀川通に面した鳥居
「日本最初水火天満宮」の石柱がある。
神社の公式HPによれば、ここは、「天皇の勅命にて神号を賜り、天満宮とした事」と、「初めて道真公の神霊を勧請した事」により、「日本最初の天満宮」であるとしている。
・鳥居の扁額
②竜王の池
鳥居をくぐって右手角にあるが、雪に埋まっていた。
③手水舎
・右端にある手水舎から左へ、出世石、登天石
④出世石
出世にご利益があるといわれている。近年出世した人が寄進されたので、この名で呼ばれているという。
⑤登天石
延喜3年 (903) 、菅原道真が大宰府で死去した後、都に天変地異が相次ぎ人々は道真の怨霊のなせるわざではないかという噂が広まった。そこで醍醐天皇は、道真が師と仰いでいた尊意僧正へ祈祷を依頼。勅命を受けた僧正が宮中に向かった。その途中、賀茂川が氾濫していた。このとき僧正は天に向かい神剣をかざし、川に向かって祈りをささげると急に水位が下がり、道真の神霊が石の上に乗って現れ、やがて昇天、雷雨も止んだという。この時、道真の神霊が乗っていた石が、水火天満宮の「登天石」だという。
今では、火難水難除けの守り神として知られている。
⑥金龍水
眼病に効くという伝わる井戸水。
⑦拝殿・本殿
⑧末社、六玉稲荷大明神社
敷地の奥、南東の角には、末社六玉稲荷大明神があり、その前に植えられた紅しだれ桜が、毎年春になると、艶やかな花を咲かせる。
六玉稲荷大明神社は、もとは枳殻邸にあったものが、明治維新の際にここに移されたもので、縁結び、就職祈願に霊験あらたかといわれている。
・六玉稲荷大明神社前から見た堀川通方向
⑨南側の出入口と雪景色
⑩祈願絵馬
⑪そのほか、
・拝殿の東側の末社に置かれている「玉子石」は、妊娠5ヶ月目にこの石を拝むと安産になると言われている。
・また「是より洛中荷馬口付のもの乗べからず」と記した石標もある。これは、元禄8年(1695)、都への出入り口30箇所に木杭で作られたが朽ちたため享保2年(1717)、石に作り変えられたものといわれる。
・延長元年(923年)、醍醐天皇の勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された。
・以前は同じ上京区の上天神町にあったが、堀川通の拡張に伴って1952年、現在の場所に移転した。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
4 京都検定の出題歴
●平成18年度2級
(問)「社寺」と「伝説」の組み合わせ。誤りはどれか。
(ア)八坂神社−忠盛燈籠 (イ)北野天満宮−道真の登天石 (ウ)珍皇寺−六堂の辻 (エ)十輪寺−業平の塩窯跡 【正解】(イ)
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