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京都の雪景色

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報恩寺かいわいの雪景色
 
   
 報恩寺は堀川寺之内交差点の東側、寺之内通をはさんで宝鏡寺の南側にある浄土宗の寺院です。
 
 大みそかの午後、大雪の中を、通称「鳴き虎」と呼ばれる報恩寺を訪れました。
 
寺之内通から南へ、西陣織の老舗のお店、河村織物などが建ち並ぶ通りを歩いていきます。
 
・河村織物
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 近所の子供たちが雪合戦をしていました。
 
 ・通りで雪遊びをする子どもたち
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やがて右手に報恩寺の山門が見えてきます。
 
 
・山門と「巡礼通称寺」ののぼり
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ここは通称「鳴き虎の報恩寺」といわれます。
 
それは文亀元年(1501)に後柏原天皇より下賜された猛虎の絵が描かれた掛け軸を、秀吉が所望して聚楽第に持ち帰ったところ、夜になると虎が鳴いて眠れなかったので寺に返したと伝わり、以降、「鳴き虎」として有名になったといわれています。
 
この絵は中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描いたもので、虎が小川の水を飲み、その背後には松が描かれ、2羽のカワサギがとまっている中国伝来の図です。寅年の正月三が日に限り公開され、平成22年の正月に特別公開されました。
 
 
1 場所
 
2 雪景色の境内
①山門と門前の石橋
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慶長7(1602)秀吉の侍尼・仁舜尼より門前百々川の石橋が寄進され、そのときの橋の擬宝珠2個が現存している。この石橋は桃山時代の石造美術として、本法寺の石橋とともに、貴重な遺産といわれる。
 
 
②玄関と客殿
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享和元年(1818)に再建。筑前の黒田長政が死去(1623)した部屋があるという。
 
 
③玄関横にある仁王像
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④鐘楼と通称「撞かずの鐘」
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奈良時代以来の古式を残す平安時代末期の梵鐘といわれ、国の重文に指定。
 
 高い笠形で、八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が、龍頭の方向と直交しているなど、奈良時代以来の古式のもの。
 
 
※「撞かずの鐘」の故事
 報恩寺は西陣の一角にあり、その鐘は朝夕に撞かれ、一帯の織屋ではこの音で仕事を始め、そして終わっていた。
 
 ある織屋の仲の悪い丁稚と織女が夕の鐘の数を言い争った。
 
 本来は、百八煩悩を除滅するために、108つの1129つ撞かれており、織女の9つが正解だったが、姑息な丁稚は寺男に頼み、自分が主張した8つの鐘をつかせたため、織女は負けてしまった。織女は悲しさと悔しさのあまり鐘楼で首つり自殺をしてしまう。
 
 それ以来この鐘をつくと不吉なことが起こるため、厚く供養をし、朝夕撞くのをやめ、除夜と大法要のみに撞くことになったという。
 
 
後西天皇第七皇女、賀陽宮の墓
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 境内でここだけ、宮内庁が管理している。
 
フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、賀陽宮は1666年に生まれ、1675年に亡くなっている。なお、後西天皇は後水尾天皇の第八皇子。
 
 雪が深くて、これ以上近づけない。
 
 
 
3 沿革
・室町時代に建立。当初は八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあり、法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺だった。
 
・後柏原天皇の勅旨で、文亀元年(1501)、慶誉が堀川今出川の舟橋の地に再興、し、浄土宗報恩寺と改めた。
・天正13年(1585)、秀吉によって現在の地に移された。  
 
・慶長7(1602)、秀吉の侍尼・仁舜尼より門前百々川の石橋が寄進され、橋の擬宝珠2個が現存している。
 
・元和9年(1623)、徳川秀忠・家光上洛と相前後して筑前の黒田長政が入洛し、報恩寺を宿舎としたが、持病の発作により、客殿で死去。
 
享保15年(1730)、大火により類焼。本尊阿弥陀三尊像、仁王尊像、地蔵尊像や絵画、古文書等は難を逃れる。
 
・元文3年(1738)、本堂再建。
 
・寛保3年(1743)、安阿弥快慶作と伝える仁王尊像の修理完成。
 
・天明8年(1788)、大火により類焼。
 
・享和元年(1818)、客殿、玄関、内玄関を再建。客殿(方丈)に本尊阿弥陀三尊像を祀る。
 
※本堂と庫裏は再建されていない。
 
 
4 通称寺の由来
 
 豊臣秀吉が寺宝の「鳴虎の図」の掛け軸を気に入り、聚楽第に持ち帰っ
た。ところが、「鳴虎の図」の虎が夜毎吠えて眠れなかったため、寺に返し
たということに由来。
 
 
5 寺宝
 
①本尊:阿弥陀三尊像
鎌倉時代の名匠安阿弥快慶の作で、客殿に安置されている。
 
 
②鳴虎図(なきとらず)
 文亀元年(1501)後柏原天皇より下賜された虎の掛け軸で、中国 東北の山岳地帯で、虎が谷川の水を飲んでおり、背後には松が描かれ、2羽のカワサギがとまっている。
 
 毛の一本一本が描かれ、立体的に浮き出ており、右からと左から見るとで姿が違って見える。
 豊臣秀吉が気に入り、聚楽第に持ち帰り床に掛けて観賞していたが、毎夜、吠えて眠れずに、返されたものといわれる。
 中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)の署名があり、宋か明の時代に描かれたものといわれる。
 寅年の正月三が日にのみ特別公開されている。
聚楽第の遺構と伝える妙覚寺の大門と狩野元信の墓の雪景色
   
 
堀川紫明の南東、堀川通から上御霊前通を東に200mほど歩くと、左手に妙覚寺の大きな門があります。
 
 妙覚寺はすぐ近くにある妙顕寺や西陣の立本寺とともに三具足山の一つ、北竜華と称する京都の日蓮宗の名刹とされ、かつて洛中の二条通衣棚にあった頃は、本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされていました。
 
 現在地に移転したのは豊臣秀吉の命によるもので、天明の大火後に、現在の伽藍が再建されました。
 
妙覚寺は大門が左右に潜り門を配した寺院には珍しい武家風の大型の薬医門となっており、寺伝によれば、聚楽第の裏門を移したものと伝えています。よく見ると、梁の上に伏兵を配置できる場所もあります。
 
 大門の正面にある建物は祖師堂で、現在もまだ工事中です。
 
 また、左手には、庫裏と玄関、唐門があり、祖師堂に向かって左側の突き当りには、塔頭の善明院があります。
 
善明院のしだれ桜は、妙覚寺の大門の前にあるしだれ桜とともに、花の咲く頃はとても見応えのあるものです。
 
 また、法姿園と名づけられた本堂前の庭園も新緑や紅葉が素晴らしいところです。
 
 年末の大雪に見舞われた京都では、雪景色の社寺がとても趣きがありました。
 
大雪の中で、妙覚寺の墓地にある狩野元信はじめ狩野家一族のお墓はどうなっているだろうとお参りに行ってみると、降りしきる雪の中、真っ白いおにぎりのような雪を乗せていました。
 
 
 
 
 
2 境内の雪景色
 
①大門
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 寺院には珍しい武家風の大型の薬医門。左右に潜り門を配している。
 
 聚楽第の裏門を移したと伝えられ、梁上に伏兵を配置できる場所がある。
 
 早春、おそらく来月初めになれば、ロウバイの黄色い花が風格ある大門の脇で咲くのが見られ、また、春には、この大門の前の枝垂れ桜が咲く頃は多くのカメラファンをはじめ地元の人たちが花見に訪れる。秋には、大門の脇のススキや萩の花が咲き、季節の移ろいを感じさせてくれる。
 
 
②祖師堂
 大門の正面にある。堂内には日蓮・日朗・日像の坐像を安置。
 
・大門から見た工事中の祖師堂
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③庫裏(左)と本堂(右)
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・庫裏
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・本堂
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・玄関
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④法姿園
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⑤塔頭、善明院
・京都でも珍しい大雪のようす
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・山門
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・玄関
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・山門から見た妙覚寺
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右手に唐門があり、その前に立つ石柱には、「狩野元信の墓この北方にあり」と書かれている。
 
左手に見えるのは工事中の祖師堂。
 
 
狩野元信の墓
 
妙覚寺の北側の道を堀川通方面に向うと、道路を隔てて墓地が2箇所あります。
妙覚寺から遠い方、堀川通に近い方の墓地の中に、狩野元信はじめ一族の墓があります。
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なお、妙覚寺に近いほうの墓地には、近衛家に何かゆかりの方の墓地があるようでした。
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●狩野元信と京都について
 狩野元信は約400年続く狩野派の始祖、狩野正信の子で狩野派の基礎を作ったとされています。
 
 水墨画の流れを汲みながら、土佐派の大和絵も取り入れた日本的な障壁画の様式を確立したともいわれています。
 
作品は大徳寺大仙院などにあり、妙心寺霊雲院には滞在したことから「元信寺」とも呼ばれています。
 
 また、霊雲院のすぐ近の妙心寺退蔵院は、如拙の「瓢鮎図」で知られていますが、ここには「元信の庭」と呼ばれる庭園があります。
 
 
 
3 沿革
・妙顕寺・立本寺とともに三具足山の一つ、北竜華と称する京都の日蓮宗の名刹。十界大曼荼羅を本尊とする。
 
・北朝の永和4(1378)、妙顕寺の跡継ぎをめぐる意見の対立から妙顕寺を離れた日実上人が、信徒で豪商の小野妙覚の外護を受けて四条大宮の妙覚の邸宅に日像上人を開山として創建。
 
・文明15年(1483)に足利義尚の命により、二条通衣棚に移転。
 
・その後、日蓮宗は広く高官、武士、商人、町衆へ浸透して隆盛。
 
・天文5年(1536)、天文法華の乱が勃発。
 日蓮宗の巨大化を恐れた天台宗(比叡山延暦寺)の僧兵らが、洛中洛外の日蓮宗寺院21本山を襲い、日蓮宗寺院をことごとく焼き払う。妙覚寺は堺へ逃れる。
 
・天文11(1542)、日蓮宗本山の帰洛が許され、6年後に日饒上人が旧地二条通衣棚に復興。この頃から、妙覚寺は本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされた。
 
・天正10年(1582)本能寺の変が勃発。
 織田信忠が滞在しており、その際にここも焼失。
 
・天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在の地、寺之内界隈に移転。
 
・天明8年(1788)天明の大火により、華芳塔堂と表門を残し堂宇を焼失。
 
・大火後に現在の堂宇を再建。
 
小川通(表千家、裏千家)あたりの雪景色
 
 
堀川寺之内の交差点から東へ向かうと、宝鏡寺の角を南北に走る道があります。
 
これが小川通で、北は紫明通から南は木津屋橋通までの約5kmの通りです。
 
その名前の由来は、一条通の北側に昭和後期まで流れていた「小川(こかわ)」に因むものといわれており、現在でも本法寺や報恩寺の山門前には石橋が残っています。
 
小川通に沿って、表千家の不審菴、裏千家の今日庵が並び、茶道具や茶器を扱うお店もあります。
 
また、寺之内通の角には和菓子の老舗の俵屋吉冨が出店した茶房「茶ろんたわらや」があり、ときどき利用させていただいています。
 
小川通は、普段は和服姿のとても似合う通りですが、雪景色もまた味わいがありました。
 
 
1 場所↓
 
 
2 雪景色
小川通と百々橋の礎石
 
・寺之内通から北に続く小川通
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百々橋の礎石が左側にある。
 
・小川通と寺之内通の交差点
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 正面左が俵屋吉冨
 
百々橋の礎石
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百々橋はかつて小川に架かっていた橋で、応仁の乱(14671477)の際、東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)の両軍が、この橋を隔てて数度にわたり対戦したと伝えられている。
 
 
俵屋吉冨
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③表千家
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・千利休(152291)の子の少庵が千家再興を許されたとき、利休の不審菴をこの地へ移建し「表千家」としたもの。

・表門は紀州家からの譲り受けたのもの。

・内部は国指定の名勝庭園。
 
 
④裏千家
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・千少庵の子の宗旦が表千家の裏に隠居所を建てたのが始まり。

・一間腕木門の内側は国指定の名勝庭園。
 
 
⑤茶器のお店
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⑥近くで見かけた可愛らしい雪だるま
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3 参考
(1)武者小路千家と藪内家
 
①武者小路千家
 
 
・千利休の孫、一翁宗守(いちおうそうしゅ)の子孫が受け継ぐ家元。

・官休庵という名称の由来:寛文7年(1667)、宗守が仕えていた高松藩を辞したとき造られたため。
 
 
②藪内家
 
 
 
 
(2)三千家と藪内家
 
三千家
利休居士を失った千家の家族は、やがて二代少庵、三代宗旦の親子で千家再興に取り組むことになった。

宗旦の子の代から、千家は三家に分かれる。
・不審菴:三男江岑宗左に譲る表千家
・今日庵、又隠、寒雲亭など:四男仙叟宗室に譲る裏千家
・早くから家を出ていた二男の一翁宗守は武者小路に分家武者小路千家
 
出仕先の大名
・宗左(表千家)紀州徳川家
・宗室(裏千家)加賀前田家
・宗守(武者小路千家)讃岐高松松平家
 
代表的茶室
・表千家:不審菴
・裏千家:今日庵
・武者小路千家:官休庵
 
藪内家
・茶道家元。所在地は、下京区西洞院通正面下ル。
・当主は代々紹智を襲名。初代は紹鴎門下で千利休の弟弟子にあたる剣仲紹智。
・代々西本願寺の保護を受ける。
・茶室「燕庵」
・「下流」と呼ばれた。
 
(3)京都検定出題のポイント
 
千利休の流れを継ぐ茶道の宗家、家元については、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家と武野紹鴎の門下で、千利休の弟弟子にあたる剣仲紹智を祖とする藪内家があること。

三千家については、
・それぞれ誰が興したか。
・代表的茶室は何か。
・出仕先の大名はどこか。

藪内家については、「剣仲紹智・西本願寺の保護・燕庵・下流」がキーワード。
 
《参考》
・祇園甲部の「都をどり」は、毎年41日〜 30日、祇園甲部歌舞練場で開催されますが、上演前、祇園甲部歌舞練場の2階でお茶席が設けられます。(特等席購入のひとだけ)。このときの点茶の形式は「立礼式」というスタイルで、これは外国人を接待する為に裏千家により考案されたものだそうです。
 
妙顕寺と塔頭(教法院、善行院、實成院)の雪景色
   
 
堀川寺之内の交差点から東へ、寺之内通を200mほど歩くと、北側に妙顕寺の山門があり、北に向かって参道が続いています。
 
妙顕寺は山号を具足山と称する日蓮宗の大本山で、現在、9つの塔頭があります。塔頭の一つである泉妙院には尾形光琳の墓があり、門の外からも見ることができます。
 
元亨元年(1321)に日像が後醍醐天皇より寺領を賜り、今小路に妙顕寺を建立したのが始まりと伝え、以来度々の法難や災禍のため寺地を転々とし、秀吉の命により天正11(1583)に堀川寺之内の東方の現在地に移転しました。
 
 大みそかの夕方近く、訪れましたが、京都では珍しいほどの積雪に見舞われた広い境内のようすは、まるで雪国のお寺のようで、なかなか風情もありました。
 
 
 
 
2 雪景色の境内
 
(1)山門
 
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 石柱には、この寺に尾形光琳の墓があることが書かれている。
 
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 山門から参道が続いている。つきあたりは工事中の本堂。
 
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 山門を入ると、正面突き当たりに本堂(工事中)があり、右側に三菩薩堂(手前)と尊神堂(奥)が建っている。
 
・参道
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(2)本堂(現在工事中)
天保元年(1830)の上棟で、瓦銘に天保10(1839)とあることから、この頃に完成したものと考えられている。
 
日蓮宗本堂の伝統的な平面形式、三宝諸尊が安置されている。
 
 
(3)三菩薩堂
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  日蓮、日朗、日像の三祖を合祀している祖師堂にあたる建物で、三菩薩堂という。 
 三菩薩の由来は、延文3年(1358)、二世大覚上人による雨乞いの効験により日蓮に大菩薩、開山日像とその師日朗に菩薩号の勅賜をうけたことによる。
 
 日蓮大聖人・日朗聖人・日像聖人の三祖を合祀している。
 
 
・三菩薩堂(左)と尊神堂(右)   
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(3)尊神堂
 鬼子母神とは安産や子供の守護神、さらには災厄を除き福をもたらす神として、鬼子母神を祀っている。
 
 天皇自ら参拝されたお堂でもあり、天拝鬼子母神堂とも言われている。
 
 
 三菩薩堂と尊神堂の間の道を進むと、右手に御真骨堂がある。
 
 
(4)御真骨堂
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  左に見えるのが慶中大菩薩。
 
 
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 元々鐘眞窟と言い、日蓮大聖人、日朗聖人、日像聖人の御眞舎利を祀ったお堂。
 
 明治時代初期、妙顕寺第52世 福田日耀上人の代に再建された。
 
 
(5)慶中大菩薩
もとは、京都御所鎮護の守護神として、宮中に仕える女官たちが尊崇していたといわれている。
 
当山が後醍醐天皇の勅願寺として建立の際に、境内に祀られるようになり、願い事が必ず叶うという事で信仰を集めてきた。
 
 
(6)鐘楼
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 天明の大災による焼失後に再建されたもので、もとは大門の東隅にあったが、昭和40年にかつて五重塔があった現在地に移築された。
 
梵鐘は正徳3(1713)の鋳造。 
 
  
3 沿革
・元亨元年(1321)に日像が後醍醐天皇より寺領を賜り、京都における日蓮宗最初の道場として御溝傍今小路(現在の上京区)に妙顕寺を建立した。
 
・建武元年(1334)には後醍醐天皇より綸旨を得て勅願寺となる。
 
2世妙実の時、暦応4/興国2年(1341)に四条櫛笥(現京都市中京区)に移転し、さらに明徳4年(1393)には三条坊門堀川(現中京区堀川御池)に移転し妙本寺と改称するが、永正16年(1519)には元の寺名に戻っている。
 
・日蓮宗の洛中法華21ヶ寺の中心として栄えるが、天文5年(1536)に天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。
 
・天文11年(1542)に帰洛を許され、二条西洞院に再建したが、天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転する。
 
・天明8年(1788)には天明の大火により焼失するがその後再建された。
 
・「四海唱導」「四条門流」と呼ばれる。また妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
 
 
 
4 妙顕寺塔頭の雪景色
 
(1)教法院
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 妙顕寺からに妙覚寺向かう途中にある。
 
 教法院は妙顕寺の「北之方丈」と称されている。
 
 ここには重森三玲の手による「御題目庭園」と呼ばれる庭園がある。
 
 
 
②山門から見た境内の雪景色
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 左に見える垣根の左側に「御題目庭園」が広がる。
 
 
③沿革
・日蓮宗最初の勅願寺として、洛中では先頭の地位にあった妙顕寺の塔頭の一つ。
 
・文保2(1318)の創建と伝える。もともと、大本山妙顕寺の貫首が、隠居後に住むための寺院であったといわれている。
 
・妙顕寺山内の北端に位置することから「北之方丈」とも称される。
 
・重森三玲氏の手による御題目庭園がある。
 
 
 
(2)善行院の雪景色
 
 ここは、「洛陽十二支妙見」の「子(ね)の寺」、「西陣の妙見さま」として親しまれている寺院。
 
平成154月の平成の大修理で鉄筋コンクリートの建物になった。
 
境内には、改築工事で二階建てとなった妙見堂がある。 
 
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(3)妙顕寺塔頭、實成院
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宝鏡寺の雪景色

宝鏡寺の雪景色  
 
 
宝鏡寺は、堀川寺之内の交差点から寺之内通を東に入ってすぐのところにあります。
 
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かつて、歴代の皇女方が入寺されていたという由緒ある尼門跡寺院で、京都では、大聖寺門跡に次ぎ、二番目の寺格に列せられてきたといい、通称『百々御所(どどごしょ)』、『人形寺』と呼ばれています。
 
また、皇女方が入寺されていたことから御所より人形が贈られ、中には孝明天皇ご遺愛の人形などあわせて数百体もの由緒ある人形が保存されており、「人形寺」とも呼ばれています。
 
表門を入って右手奥に、京人形を象徴する御所人形が彫り込まれた人形塚があり、その台座には武者小路実篤の歌碑が刻まれています。
 
おおみそかの日の午後、風情のある雪景色を見ることができました。
 
 
 
 
 
2 雪景色
(1)表門(京都市指定文化財)
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本瓦葺の薬医門で、東側に脇塀、西側に潜り戸を付属する。
 
(2)本堂(京都市指定文化財)
・表門から見た本堂
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文政13年(1830)に、使者の間、玄関とともに本堂が造営された。方丈形式(前後3室からなる6間取)。室境には狩野派の絵師による襖絵がある。
 
 
(3)人形塚
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1950年代半ばに、京人形商工業協同組合が、京人形を本格的にアピールしていこうと建立を計画し、昭和341959)年に境内に建てられた。
 
人形塚には京人形を象徴する御所人形が彫り込まれ、その台座には武者小路実篤の歌碑が刻まれている。
 
人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか 
知らねども愛された事実こそ
汝が成仏の誠なれ     武者小路実篤
   
 
3 伽藍と庭園
表門、本堂のほか、書院、阿弥陀堂などがある。
 
また、庭園として南庭・東庭・中庭がある。
 
   
4 沿革等
①室町時代、光厳天皇の皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)が、伊勢の二見浦で漁網にかかった聖観世音菩薩を祀って開山した。
 
本尊の聖観世音菩薩像が、ひざの上に小さな円鏡を持っている珍しい姿だったことから、後光厳天皇によって「宝鏡寺」と名付けられたという。
 
 
②通称『百々御所(どどごしょ)』『人形寺』の由来
歴代の住職に代々内親王が出家入寺されたことから『百々御所』と呼ばれた。

代々歴代皇女が住持となった由緒ある尼門跡寺院であること。また、京都にある7つの尼門跡寺院のうち、大聖寺門跡に次ぎ、二番目の寺格に列せられてきた。

寺へ入った皇女へ御所から人形が贈られてきたため、多くの人形を保存している。特に、光格天皇より贈られた直衣雛(のうしびな)をはじめ、皇女和宮の遺愛の品など多くの人形を所蔵していることから『人形寺』としても知られている。

また、一般からも供養として人形が納められるようになった。
 
 
5 年中行事
(1)雛祭り(31日)
 
(2)春の人形展
 
(3)秋の人形展
 
(4)人形供養祭(1014日)
なお、毎日、全国から送られてきた人形の人形供養が行われている
 
 
 
6 京都検定の出題歴
平成19年度2
 百々御所とも呼ばれ、歴代皇女ゆかりの人形を春秋公開し、供養を行う寺院はどこか。
(ア)霊鑑寺  (イ)宝鏡寺  (ウ)三時知恩寺  (エ)大聖寺
 
【正解】(イ)
 
 
 
7 練習問題
(1)( 1 )宗単立の尼門跡寺院。

(2)通称「( 2 )」

(3)沿革
前身は最愛寺(尼五山第一位)の子院であった福尼寺。その後現在地に移転、再興。

寛永21年(1644)には理昌尼王(後水尾天皇の皇女)が入寺して以降は尼御所となり、「( 3 )」と称した。

宝鏡寺の名前の由来は本尊の観音菩薩が手に鏡を持っていたことから。

(4)寺宝
通常は非公開。毎年春と秋に「( 4 )」が催され、建物内部に入ることができ
る。
( 5 )遺愛の人形をはじめ、皇女( 6 )の遺愛の品、市松人形など数十
体の人形とともに、双六や貝合せなどの遊戯具類のほか、方丈、書院も公開さ
れる。人形塚では毎年10月に( 7 )が行われている。
 
【正解】
1
臨済
2
人形寺
3
百々御所
4
人形展
5
孝明天皇
6
和宮
7
人形供養

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みやこ鳥
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