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豊国神社と境内の桜
豊国神社は、七条通よりも一本北の通りである正面通の東の突き当りの石段上にあります。
豊国神社は、明治13年(1880)に、明治政府が方広寺大仏殿跡に再興した神社で、豊臣秀吉を祭神としています。
ここにはかつての伏見城の城門を移築したという国宝の豪華な唐門があることで知られています。
春の境内は桜がきれいに咲いていました。
2 境内と桜
①石段上の桜
②参道と唐門
③唐門
・扁額
・扉の彫刻
④唐門から見た拝殿
⑤唐門と桜
⑥唐門脇の石燈籠と桜
石燈籠は秀吉を思う大名が寄進したものと伝えられる。
3 豊国神社の沿革
<説明板>
(1)豊臣秀吉の死去と豊国社
①慶長3(1598)年豊臣秀吉は伏見城において死去。遺命により方広寺近くの東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、翌年、その麓に、方広寺の鎮守社として廟所が建立された。
②後陽成天皇から正一位の神階と「豊国大明神」の神号が贈られ、盛大に鎮座祭が行われた。
③境内域30万坪を誇る壮大な神社であったといい、慶長9年の秀吉公七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときのようすは、豊国臨時祭礼図屏風(重文)に描かれている。
④元和元年(1615)に豊臣家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされた。なお、神体はひそかに新日吉神宮に移し、祀られたという。
(2)豊国神社の再興
①明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。
②明治6年(1873)、別格官幣社に列格。
③明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が再建され、遷座が行われた。
④明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯頂上に再建された。
4 「例祭」
9月18日に行われる。翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。
5 寺宝(重文)
・紙本着色豊国祭図 六曲屏風一双 狩野内膳筆 ・黄地菊桐文付紗綾胴服 ・唐櫃 3点(桐唐草蒔絵、桐鳳凰蒔絵、桐薄蒔絵) ・鉄燈篭 ・薙刀直シ刀 無銘 伝粟田口吉光(骨喰)(ほねばみ) (以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)
6 京都検定出題歴
●平成18年度2級 【問】次の「神社」と「祭神」の組み合わせについて、誤っているものを選べア 建勲神社―織田信長 イ 石座神社―岩倉具視 ウ 豊国神社―豊臣秀吉 エ 晴明神社―安倍晴明 【正解】イ
石座神社の祭神は、東殿が八所大明神、西殿は十二所大明神とされている。 7 練習問題
(1)祭神:( 1 )。通称「ホウコクさん」 (2)沿革
①慶長3年(1598)、秀吉の遺体を阿弥陀が峯に葬り、翌年、山腹に壮麗な社殿を築いた。 ②「豊国大明神」の神号。 ③「( 2 )」:慶長9年の秀吉の七回忌の様子が描かれている。 ④豊臣家滅亡後、徳川幕府によって取り払われて荒廃した。 ⑤明治元年、( 3 )の神楽殿を仮本殿として再興。 ⑥明治13年、旧( 4 )大仏殿境内に社殿を造営。 ⑦秀吉にちなんだ千成瓢箪の絵馬。 (3)唐門
( 5 )の城門を移築した豪華な門。唐破風がついた四脚門で、国宝。欄間や扉の彫刻に桃山時代の華麗な彫刻が見られる。 ※変遷 伏見城⇒金地院(南禅寺の塔頭)⇒豊国神社に移築。 【正解】
1 豊臣秀吉 2 豊国臨時祭礼図屏風 3 新日吉神宮 4 方広寺 5 伏見城 |
京都の桜2011
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随心院と境内の桜
随心院は、市営地下鉄東西線 の小野駅 から東に向かって5分くらい歩いたところにある真言宗善通寺派の大本山の寺院です。
このあたりには、かつて小野小町の住居があったという伝承があり、境内には、小町が恋文を埋めたという「文塚」、「小町化粧井戸」と名づけられた井戸、書院には深草少将の「百夜通い」の伝説のカヤの実が展示され、随心院から少し離れた所には、カヤの大木が残っています。
ここはまた、「はねず梅」と呼ばれる遅咲きの薄紅色の梅のある小野梅園が広く知られていますが、桜もなかなか見事なもので、特に、総門の脇に植えられている桜と梅園の横にある大きな桜の木は見ごたえがあります。
雨上がりの境内を訪れると、霧のたちこめる醍醐の山並みを背景に、満開の桜が咲いているようすは、とても風情のあるものでした。
2 境内
①総門と桜
・総門の脇の桜
②総門から境内に続く参道
③雨上がりの境内の桜と醍醐の山並み
④薬医門
寛永年間、徳川秀忠夫人天真院尼の寄進により建造されたと伝える。
・薬医門と桜
⑤大玄関
薬医門の正面に大玄関が見える。
寛永年間(1624-1631)九条家ゆかりの天真院尼の寄進により建立。
・薬医門から見た大玄関近くのしだれ桜
⑥庫裏
ここから拝観料を払い、表書院、本堂などを見学する。
⑦小野小町歌碑
「花の色は移りにけりな いたづらに我が身世にふる ながめせし間に」
⑧小野小町化粧の井戸
⑨境内で見られた桜
※あせび(馬酔木)の花
≪有料拝観部分≫
・表書院
寛永年間(1624-1631)に徳川秀忠夫人天真院の寄進により建立。
・表書院「能の間」
九条家の寄進により宝暦年間(1753年-1764年)に建造され、平成3年(1991年)に改修工事が行われた。
・本堂
桃山期(1599年)の建築で寝殿造。
<説明板>
・もとの名は牛皮山曼荼羅寺といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を捜しあてて世話をしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。
・その後、第五世増俊が曼荼羅寺の塔頭として随心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡の宣旨を受け、門跡寺院となった。
・この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や化粧の井戸などが残されている。
・梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」が披露される。
4 京都検定の出題歴
(1)平成16年度3級 【問】 はねず踊りが行われる随心院は、( )ゆかりの寺として知られている。 (ア)和泉式部 (イ)清少納言 (ウ)小野小町 (エ)式子内親王 【正解】(ウ)
(2)平成17年度3級
【問】百夜通いとは、深草少将が( )のもとに通い続けたという伝説である。 (ア)紫式部 (イ)清少納言 (ウ)小野小町 (エ)吉野太夫 【正解】(ウ)
(3)平成18年度2級
【問】 「寺院」と「ゆかりの人物」の組み合わせ 誤っているものはどれか。 (ア)清閑寺―小督局 (イ)随心院―小野小町 (ウ)滝口寺―横笛 (エ)廬山寺―和泉式部 【正解】(エ)
(4)平成19年度3級
【問】小野小町に恋して伝説「百夜通い」の主人公になったのは誰か。 (ア)頭中将 (イ)在原業平 (ウ)大友黒主 (エ)深草少将 【正解】(エ)
5 練習問題
(1)真言宗善通寺派の大本山。山号「牛皮山」。本尊は如意輪観音。
(2)通称「( 1 )」
(3)東密(真言宗)の寺相である( 2 )の発祥の寺。
(4)沿革
・正暦2年(991)に( 3 )が当地に牛皮曼荼羅を祀り、曼陀羅寺を創始。 ・5世増俊の時に「随心院」に改名し、7世親厳の時に門跡寺院に。
・承久・応仁の乱後に衰退し、慶長4年(1599)に復興。
・明治41年に独立して真言宗小野派となったが、昭和6年に善通寺を本山とする善通寺派に所属。
(5)( 4 )ゆかりの寺
小野小町の住居跡と伝える。( 5 )の「百夜通い」。小町が恋文を埋めたという「( 6 )」。「小町化粧井戸」。遅咲きの( 7 )と「はねず踊り」(3月最終土・日曜)。 【正解】
1 小野門跡 2 小野流 3 仁海 4 小野小町 5 深草少将 6 文塚 7 はねず梅 |
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山科川沿いの桜
山科川は醍醐山地の千頭岳あたりを源流とし、山科盆地を貫流する川で、途中、四ノ宮川、安祥寺川などと合流して南へ流れ、宇治川に注いでいます。
また、山科川は近世中期までは「櫃川(ひつかわ)」と呼ばれ、平安時代には和歌にも詠まれ、歌枕にもなっていました。
現在、流域には水と親しむための飛び石や石段、遊歩道などの施設もあり、地域住民に密着した川となっています。
とりわけ、山科川の土手には沢山の桜が植えられており、満開になる頃にはとても見ごたえがあります。
今年も満開の時期に、遊歩道に沿って、花見をしながら散歩することができました。
●撮影地
①ビルの上から
②市営大受団地あたりから
③近鉄MOMOの横あたりから
・川辺で咲いていた菜の花
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報恩寺と境内の桜
報恩寺は、堀川寺之内から東へ向かい、寺之内通を宝鏡寺の前を通って、最初の通りを南へ入って少し歩くと右手に報恩寺の山門が見えてきます。
・報恩寺参道入口
・通称寺の会「鳴虎」の看板
通称「鳴虎」の由来については、文亀元年(1501)に後柏原天皇より下賜された猛虎の絵が描かれた掛け軸を、秀吉が所望して聚楽第に持ち帰ったところ、夜になると虎が鳴いて眠れなかったので寺に返したと伝わり、以降、「鳴き虎」として有名になったといわれています。
この絵は中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描いたもので、虎が小川の水を飲み、その背後には松が描かれ、2羽のカワサギがとまっている中国伝来の図です。寅年の正月三が日に限り公開され、平成22年の正月に特別公開されました。
1 場所↓
2 境内
①山門と門前の石橋
慶長7年(1602)秀吉の侍尼・仁舜尼より門前を流れる百々川(どどがわ)の石橋が寄進され、そのときの橋の擬宝珠2個が現存している。
この石橋は桃山時代の石造美術として、本法寺の石橋とともに、貴重な遺産といわれる。
②稲荷社と桜
山門を入ると、右手に稲荷社があり、鳥居の前の桜が満開。
③後西天皇第七皇女、賀陽宮の墓と桜
なお、フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、賀陽宮は後水尾天皇の第八皇子で1666年に生まれ、1675年に亡くなっています。
③石塔と桜
④客殿へ
庭が整備されています。
客殿は享和元年(1818)に再建。筑前の黒田長政が死去(1623)した部屋があるそうです。
⑤仁王像
玄関に向かって右手に置かれています。
高い笠形で、八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が、龍頭の方向と直交しているなど、奈良時代以来の古式のもの。
●「撞かずの鐘」の故事
報恩寺は西陣の一角にあり、その鐘は朝夕に撞かれ、一帯の織屋ではこの音で仕事を始め、そして終わっていた。
ある織屋の仲の悪い丁稚と織女が夕の鐘の数を言い争った。
本来は、百八煩悩を除滅するために、108つの1/12の9つ撞かれており、織女の9つが正解だったが、姑息な丁稚は寺男に頼み、自分が主張した8つの鐘をつかせたため、織女は負けてしまった。織女は悲しさと悔しさのあまり鐘楼で首つり自殺をしてしまう。
それ以来この鐘をつくと不吉なことが起こるため、厚く供養をし、朝夕撞くのをやめ、除夜と大法要のみに撞くことになったという。
3 沿革
・室町時代に建立。当初は八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあり、法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺だった。
・後柏原天皇の勅旨で、文亀元年(1501)、慶誉が堀川今出川の舟橋の地に再興、し、浄土宗報恩寺と改めた。
・天正13年(1585)、秀吉によって現在の地に移された。
・慶長7年(1602)、秀吉の侍尼・仁舜尼より門前百々川の石橋が寄進され、橋の擬宝珠2個が現存している。
・元和9年(1623)、徳川秀忠・家光上洛と相前後して筑前の黒田長政が入洛し、報恩寺を宿舎としたが、持病の発作により、客殿で死去。
享保15年(1730)、大火により類焼。本尊阿弥陀三尊像、仁王尊像、地蔵尊像や絵画、古文書等は難を逃れる。
・元文3年(1738)、本堂再建。
・寛保3年(1743)、安阿弥快慶作と伝える仁王尊像の修理完成。
・天明8年(1788)、大火により類焼。
・享和元年(1818)、客殿、玄関、内玄関を再建。客殿(方丈)に本尊阿弥陀三尊像を祀る。
※本堂と庫裏は再建されていない。
4 通称寺の由来
豊臣秀吉が寺宝の「鳴虎の図」の掛け軸を気に入り、聚楽第に持ち帰っ
た。ところが、「鳴虎の図」の虎が夜毎吠えて眠れなかったため、寺に返し
たということに由来。
5 寺宝
①本尊:阿弥陀三尊像
鎌倉時代の名匠安阿弥快慶の作で、客殿に安置されている。
②鳴虎図(なきとらず)
文亀元年(1501)後柏原天皇より下賜された虎の掛け軸で、中国 東北の山岳地帯で、虎が谷川の水を飲んでおり、背後には松が描かれ、2羽のカワサギがとまっている。
毛の一本一本が描かれ、立体的に浮き出ており、右からと左から見るとで姿が違って見える。
豊臣秀吉が気に入り、聚楽第に持ち帰り床に掛けて観賞していたが、毎夜、吠えて眠れずに、返されたものといわれる。
中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)の署名があり、宋か明の時代に描かれたものといわれる。
寅年の正月三が日にのみ特別公開されている。
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本法寺と境内の桜
上京区の堀川通と小川通に挟まれた寺之内の一角にある本法寺は、本阿弥光悦と長谷川等伯ゆかりの寺として知られています。
堀川寺之内から寺之内通を東に向かうと、宝鏡寺の東角を南北に貫く通りがあります。これが小川通です。
小川通を北へ向かうと、右手に表千家不審菴や、裏千家今日庵が続き、通りに沿って茶道具などを扱うお店があります。
・裏千家今日庵
本法寺の入口の仁王門は、裏千家今日庵の向かいにあります。
仁王門をくぐると、右手に多宝塔を見て本堂まで参道が続いています。
本法寺は、日蓮宗の本山で、山号は叡昌山、本尊は十界曼荼羅です。
ここはまた、日親上人を開山とし、永享8年(1436)、京都綾小路東洞院に創立されましたが、以後、いくたびか寺地を移し、天正15年(1587)に豊臣秀吉の命により現在の地に再興されました。その際に本阿弥光悦は父本阿弥光二と共に私財を投入し、移転工事を監督したと伝えられています。
天明8年(1788)の天明の大火(別名「団栗焼け」)により、経蔵と宝蔵を除いて堂宇のほとんどを焼失し、現在の建物はその後に再建されたものです。
書院の東側に、本阿弥光悦作といわれる「三つ巴の庭」と名づけられた庭園があり、国指定名勝となっています。
また、長谷川等伯は能登の絵師として知られていましたが、父の死後、1571年、本法寺塔頭・教行院を頼って上洛し、千利休、本法寺10世の日通、大徳寺の春屋宗園らと親交を結んだと伝えられ、本法寺の墓地に長谷川等伯の墓があります。
ここでは庭園の拝観と併せて宝物館の拝観をすると、京都の三大涅槃図の一つといわれる長谷川等伯の「佛涅槃図」を間近に見ることができます。(通常はレプリカ)
堀川寺之内かいわいには妙覚寺や妙顕寺、水火天満宮など、桜の見所としても知られた社寺がありますが、ここも境内に桜の木が多く植えられており、花見に訪れる人も多いところです。
今年の境内の桜のようすです。
2 境内
堀川寺之内の北東側に境内が広がっている。本堂、開山堂、多宝塔、庫裡、書院、大玄関、唐門、鐘楼、経蔵、宝蔵、石橋、棟札は京都府有形文化財に指定されている。
≪境内の桜のようす≫
①仁王門(府指定文化財)
小川通に面し、裏千家今日庵の向かいに仁王門がある。
・仁王門前の桜
・仁王門と桜
・扁額「叡昌山」
仁王門を入ると、西方の本堂に向かって参道が続き、本堂の手前に多宝塔がある。
③多宝塔
・参道と多宝塔、本堂
・多宝塔と桜
④本堂
寛政9年(1797)の建立。
・本阿弥光悦筆の扁額
⑤光悦翁手植えの松
⑥長谷川等伯の像
④経蔵
経蔵は本法寺の最古の建物の一つで、天正16年(1588)、10世日通により建立された。扁額は、江戸時代、1717年、本覚院宮(宝鏡寺第22代門跡・徳厳禅尼)筆による。
⑤開山堂
⑥鐘楼
寛政8年(1795)の再建
⑦唐門
⑧庫裏
拝観受付がある。
⑨書院
書院は、江戸時代、1829年に紀州家の寄進による。上段の間をはじめ18畳が三間ある。
⑩本法寺の墓地
本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓がある。
3 摩利支天堂
・
狛イノシシがいる。
摩利支天とは、仏教の守護神の 一つであり、イノシシに乗っている。
4 庭園
(1)「十(つなし)の庭」
(2)庭園「三巴の庭」
書院前に作られた本阿弥光悦作とされる枯山水庭園。桃山時代風の豪放な庭
として国の名勝に指定。
庭の奥、東南隅部分に三尊石組の形式の滝石組が据えられている。滝から流れ落ちる水が、石橋の下をくぐって大海に出て行く様子を表しているようで、築山が大海に浮かぶ3つの島を表しており、それぞれの形が「巴の形」であるといわれている。
5 寺宝
桃山時代の画家長谷川等伯の絵画や関係資料を所蔵している。
・光悦の寄進状を添えた紫紙金字法華経(重文)
・長谷川等伯の「佛涅槃図」(同)
長谷川等伯が若死した息子の七回忌に奉献したもので、永禄2年(1559)の作、10m×6m。通常は写しを展示。 6 沿革
<説明板>
・永享8年(1436)、本阿弥清信が日親承認を開基に請じて創建したのが当寺の起こり。
・はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺輪番にあたる上方三山の一つでもあった。
・現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名。
・当寺はまた本阿弥家の菩提寺であったことでも知られている。
・なお、開基の日親は、永享11年(1439)、三代将軍足利義教に法華経受持を説き、「立正治国論」を著したため将軍の怒りに触れ、寺を焼かれ、投獄され、焼き鍋を頭に被せるなどの拷問を受け、改宗を迫られたが信念を変えなかったことから、後に“鍋かぶり日親”と称された。
7 本阿弥光悦について
・刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の男として生まれる。今日では近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも豊かな才能を発揮したとして高く評価されている。
・光悦は、元和元年(1615年)、徳川家康から洛北鷹ヶ峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住し芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
・また、光悦は俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、後世の日本文化に大きな影響を与えた。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より参照)
8 長谷川等伯
・安土桃山時代の画家で長谷川派の祖・長谷川等伯(1539-1610)は、能登七尾に生まれた。画は、雪舟門弟等春の弟子・宗清に学び、熱心な法華信徒として仏画を描いた。
・父の死後、1571年、本法寺塔頭・教行院を頼って上洛し、千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結んだ。1590年、仙洞御所障壁画は狩野派の圧力により中止となり、この確執により狩野永徳(1543-1590)は亡くなっている。 ・水墨画の最高傑作「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)、豊臣秀吉建立の祥雲寺・障壁画(現智積院蔵)などがある。 (フリー百科事典「ウィキペディア」より参照)
9 練習問題
(1)山号:叡昌山。本尊:十界大曼荼羅。 (2)沿革
永享8年(1436)に( 1 )が四条高倉に建立。同11年、「( 2 )」を著し、足利義教の怒りに触れ、投獄。焼けた鍋を頭にかぶせられ「なべかむり日親」と称される。
のち許され、当寺を再興。投獄中、本阿弥清信と知り合い、後に、当寺は本阿弥家の菩提寺に。天明8年の大火で類焼の後再建。
(3)庭園:「( 3 )」
国の名勝。( 4 )の作。三島をそれぞれ巴形にして配置。中庭には本阿弥光悦遺愛の手水鉢を据える。
(4)墓地
本阿弥一族、( 5 )らの墓がある。 【正解】
1日親 2立正治国論 3三巴の庭 4本阿弥光悦 5長谷川等伯 |





