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京都御苑の旧近衛邸跡に咲く糸桜
京都御苑の北側を占める地域には、江戸時代末まで、五摂家の一つ近衛家の屋敷がありました。
今でも当時の庭園の遺構が残り、池を中心に築山、橋などが柵越しに見られます。
かつては、庭園の池の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際には仮の皇居として使われたと伝えられています。
かつての屋敷跡に、「糸桜」という早咲きの品種の大きなしだれ桜の木が何本かあり、京都の桜のシーズンのさきがけとして、例年、ソメイヨシノが咲く前に見事な花を咲かせます。
今年もこの花が満開になり、大勢の花見客が訪れていました。
2 旧近衛邸跡と糸桜のようす
<説明板>
①かつての糸桜
池のほとりは、昔から「糸桜」というしだれ桜の一種の名所だったといい、孝明天皇も次の歌を詠まれました。
「昔より名にはきけども今日みれば むへめかれせぬ糸さくらかな」
②現在の糸桜
現在見られる桜は、いずれも明治以降に植えられたものだそうです。
どの木も大木で勢いがあり、在りし日の近衛邸の春の光景を想像させてくれます。
≪糸桜のようす≫
かつての庭園跡が残り、池や土橋を背景にしだれ桜が咲き乱れるようすはとても素晴らしく、この時期には毎年欠かさず訪れたいところです。
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京都の桜2011
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高野川沿い(右岸)から見た左岸の桜並木と比叡山
高野川沿いの桜は、京都の花見スポットの中でも人気があり、とりわけ高野橋から上流にかけては、木々の勢いもあり、満開の頃のようすはとても見事です。
このようすを、満開の花の下で眺めるのも良いのですが、対岸(右岸)の散策路から、川の流れと比叡山などの山並みを背景に、吹き渡る風を感じながら満開の桜を眺めるのもまた気持ちよいものです。
≪桜のようす≫
京都の春の美しさは感動的です。
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高野川沿いの桜
鴨川は京都の市街地の東部を北から南へ流れていますが、その上流を見ると、出町柳の賀茂大橋付近にある鴨川デルタで、八瀬付近を南西に流れてきた高野川と、上賀茂神社付近を南東に流れてきた賀茂川が合流し、「鴨川」と名前を変えて南へ流れて行きます。
高野川沿いには等間隔にソメイヨシノが植えられ、4月10日朝、青空の下、見事な満開の桜並木を見ることができました。
川を吹き渡る風はとても気持ち良く、京都の春本番といった感じでした。
●撮影場所↓
≪高野川沿いの桜≫
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水火天満宮のしだれ桜
水火天満宮は堀川紫明の南、上御霊通をはさんで、本法寺の北側にあります。
この地は菅原道真の師で、天台宗の僧・法正坊尊意僧正の屋敷跡と伝えています。
延長元年 (923) に醍醐天皇の勅願で菅原道真の神霊を勧請し建立したのがはじまりで、境内には道真の不思議な伝説が残る「登天石」などがあります。
ここの境内が一番華やいで見えるのは、境内の奥に植えられた紅しだれ桜が満開になる頃で、今年も艶やかで美しい花を咲かせていました。
この桜は、堀川寺之内かいわいで、妙覚寺や妙顕寺、本法寺の桜が咲く頃には忘れずに立ち寄りたいところです。
1 場所 ↓
2 境内
①堀川通に面した鳥居の前に、「日本最初水火天満宮」と書かれた石柱があります。
神社の公式HPによれば、ここは、「天皇の勅命にて神号を賜り、天満宮とした事」と、「初めて道真公の神霊を勧請した事」により、「日本最初の天満宮」であるとしています。
②鳥居をくぐると、左手に社務所と、その奥に拝殿・本殿があります。
春、しだれ桜が咲き乱れる境内は、とても美しく、いつまでも立ち去り難い思いがするほどです。
3 境内のしだれ桜
4 登天石
元は現在地よりも西の上天神町にあったが、昭和27年に堀川通の拡張に伴い現在の水火天満宮に移された。
今では、火難水難除けの守り神として知られている。
5 末社、六玉稲荷大明神社
敷地の奥、南東の角には、末社六玉稲荷大明神があり、その前に植えられた紅しだれ桜が、毎年春になると、艶やかな花を咲かせる。
六玉稲荷大明神社は、もとは枳殻邸にあったものが、明治維新の際にここに移されたもので、縁結び、就職祈願に霊験あらたかといわれている。
6 そのほかの見どころ
・出世にご利益があるといわれている「出世石」や眼病に効くと伝わる井戸水「金龍水」があり、また拝殿の東側の末社に置かれている「玉子石」は、妊娠5ヶ月目にこの石を拝むと安産になると言われている。
7 沿革
・延長元年(923年)、醍醐天皇の勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された。
・以前は同じ上京区の上天神町にあったが、堀川通の拡張に伴って1952年、現在の場所に移転した。
(フリー百科事典「ウィキペディア」より転載)
8 京都検定の出題歴
●平成18年度2級
(問)「社寺」と「伝説」の組み合わせ。誤りはどれか。
(ア)八坂神社−忠盛燈籠 (イ)北野天満宮−道真の登天石 (ウ)珍皇寺−六堂の辻 (エ)十輪寺−業平の塩窯跡 【正解】(イ)
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聚楽第の遺構と伝える妙覚寺の大門としだれ桜
堀川紫明の南東、堀川通から上御霊前通を東に200mほど歩くと、左手に妙覚寺の大きな門があります。
妙覚寺はすぐ近くにある妙顕寺や西陣の立本寺とともに三具足山の一つ、北竜華と称する京都の日蓮宗の名刹とされ、かつて洛中の二条通衣棚にあった頃は、本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされていました。
現在地に移転したのは豊臣秀吉の命によるもので、天明の大火後に、現在の伽藍が再建されました。
妙覚寺は大門が左右に潜り門を配した寺院には珍しい武家風の大型の薬医門となっており、寺伝によれば、聚楽第の裏門を移したものと伝えています。よく見ると、梁の上に伏兵を配置できる場所もあります。
大門の正面にある建物は祖師堂で、現在もまだ工事中です。
また、左手には、庫裏と玄関、唐門があり、祖師堂に向かって左側の突き当りには、塔頭の善明院があります。
妙覚寺の大門の前にあるしだれ桜は、最近一段と大きくなり、見応え十分で、風格さえ感じられるようになってきました。
また、法姿園と名づけられた本堂前の庭園も新緑や紅葉が素晴らしいところです。
2 大門としだれ桜
<説明板>
・北朝の永和4年(1378)、妙顕寺の跡継ぎをめぐる意見の対立から妙顕寺を離れた日実上人が、信徒で豪商の小野妙覚の外護を受けて四条大宮の妙覚の邸宅に日像上人を開山として創建。
・文明15年(1483)に足利義尚の命により、二条通衣棚に移転。
・その後、日蓮宗は広く高官、武士、商人、町衆へ浸透して隆盛。
・天文5年(1536)、天文法華の乱が勃発。
日蓮宗の巨大化を恐れた天台宗(比叡山延暦寺)の僧兵らが、洛中洛外の日蓮宗寺院21本山を襲い、日蓮宗寺院をことごとく焼き払う。妙覚寺は堺へ逃れる。 ・天文11年(1542)、日蓮宗本山の帰洛が許され、6年後に日饒上人が旧地二条通衣棚に復興。この頃から、妙覚寺は本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされた。
・天正10年(1582)本能寺の変が勃発。
織田信忠が滞在しており、その際にここも焼失。 ・天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在の地、寺之内界隈に移転。
・天明8年(1788)天明の大火により、華芳塔堂と表門を残し堂宇を焼失。
・大火後に現在の堂宇を再建。
4 境内
(1)祖師堂
大門の正面にある。現在、工事中。堂内には日蓮・日朗・日像の坐像を安置。
(2)玄関・庫裏
(3)唐門
①大門近くから見た唐門とヤマザクラ
②唐門と狩野元信の墓の石標
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